桃始笑その五 伊瀬到着
逢阪峠は志麻と伊瀬の国境、峠を越えれば志麻の国ともお別れです。伊瀬の国に入ってから街道は下り坂となり、四人の足取りも軽くなりました。ほどなく茶屋が見えてきました。
「ではここで昼にいたしましょう」
縁台に腰掛けた雁四郎は荷を下ろし弁当を取り出しました。開けると握り飯が二つ。麦飯です。
「お弁当は、あたしも持ってきたよ」
黒姫も背中の風呂敷包みを解いて、中から弁当を取り出しました。同じく握り飯が二つ。こちらは米です。
「合わせてちょうど四つあります。一人ひとつずつ食べましょう」
ここは水茶屋で茶のみが供されます。出された茶を飲みながら握り飯を頬張る恵姫。その表情は冴えません。
「塩むすびか。味気ないのう。ああ、忌々しい熊じゃ。干し鰹削りの握り飯など滅多に食えるものではなかったのにのう。こんなことなら家立茶屋で食っておけばよかったわい」
握り飯のことでまだ愚痴り続ける恵姫。余りの未練たらしさに、雁四郎も黒姫もくすくす笑っています。一方、お福は下を向いたままです。茶にも握り飯にも手を付けていません。黒姫が心配そうに尋ねました。
「どうしたの、お福ちゃん、食べないの?」
お福は下を向いたまま首を横に振ります。愚痴ってばかりの恵姫も、さすがにお福の様子に気付いたようです。
「どうしたお福、食わぬのか」
恵姫に言葉を掛けられてもお福は顔を上げません。ただ身を硬くして座っているだけです。
『気にしておるのじゃな。己のせいでわらわの握り飯を取られてしまったと』
恵姫はお福の横に座ると諭すように言いました。
「お福、そなたはわらわたちに迷惑を掛けた。それは紛れもなく事実じゃ。それでもわらわたちは黒のおかげで助かった。今回は黒が役に立ったのじゃ。さて、これからはどうであろう。黒が迷惑を掛けるかもしれぬ。わらわや雁四郎が迷惑を掛けるかもしれぬ。そしてお福のおかげで助けられるかもしれぬ。今回はたまたま迷惑を掛ける役回りをお福が演じ、助ける役回りを黒が演じた、それだけのことにすぎぬ。ならば気にすることはなかろう。雁四郎の腰を見よ。使いもしないくせに邪魔で重い脇差なんぞを帯びておる。あんな物、はっきり言って何の役にも立たぬ。じゃが、脇差は役に立たぬからと言って気に病んだりはせぬ。逆に堂々としておる。そこにあるというだけで安心するからじゃ。お福も同じぞ。そなたが居る、それだけでわらわたちは安心するのじゃ。だから脇差のように堂々としておればよい」
お福は顔を上げました。そこにはいつも通りの明るい、咲き始めた桃の花のように明るいお福の笑顔がありました。
「さあ、食え。伊瀬に入ってからの道のりの方が長いのじゃ。食って力を付けておかねばたどり着けぬぞ。食わずに倒れたりしたら、今度は助けずに置いて行くぞ」
お福は握り飯を手に取り食べ始めました。それで三人はようやく安心しました。
「ほう、桃ですな」
雁四郎の声を聞いて茶屋の向こうを眺めれば、桃色の蕾を付けた木が立っています。
「桃か。初めて見るのう。以前来た時にはなかったが」
「桃栗三年って言いますからね。三年前に誰かが植えたんじゃないのかな~」
不意にお福が立ち上がりました。桃の木の方へ歩いて行くと、両手を挙げて声を出しました。
「ケキョ、ケキョ」
その声に誘われるように一羽の鶯が桃の木に止まると、美しい声で囀り始めました。恵姫も黒姫も雁四郎も、峠越えの疲れを忘れて、その声にしばし聞き入っていました。
坂下茶屋を後にすると、街道は島地川に沿って伸びていきます。
「ここは俗に四十八瀬と言ってな、川と道がもつれあっておるのじゃ。川中の石を伝って何度も右岸と左岸を行き来せねばならん。足を滑らさぬようにな」
恵姫の言葉通り、川の右岸を歩いていると道は途切れ、川を渡って左に行けばまた途切れ、これを何度も繰り返しながら進むのです。
「姫様、まさか本当に四十八回も繰り返すのではないでしょうね」
「ないな。数えたことはないがおおよそ十五回くらいじゃ。まあ八百屋と同じく一種の誇張じゃろう」
途中、伊瀬側からやって来る二名の村人とすれ違いました。どちらも黙って頭を下げ、行き過ぎました。
「今のは伊瀬の村人でしょうか」
「いや、我らと同じく志麻の国の民、漁民じゃ。伊瀬の門前町へ志麻の鮮魚を届ける徒歩荷持であろうな。伊瀬に朝着くように夜立ちをした帰りなのじゃろう。こんな険しい、しかも真っ暗な夜道を、伊瀬の民に生魚を食わせたいという、その一心で魚を背負うて歩くのじゃ。我が領民ながらなんと健気なことではないか」
雁四郎は城と屋敷しか往復していなかった自分が如何に無知であったか、今更ながらに思い知らされた気がしました。城勤めをこなし、剣術稽古と書物で教養を高めればそれでよい、そう考えていた自分の愚かさが恥ずかしくなりました。
「恵姫様、此度の旅で雁四郎は一回り大きくなれそうな気がいたします」
「そうか。しかしでかくなると大食らいになって、食費が家計に響くのではないか。そこそこの大きさがよいのじゃ」
本気で言っているのか、ただ呆けているだけなのか、雁四郎は少し分からなくなってしまうのですが、それでも武士である以上、恵姫のために一身を捧げようと心に決めるのでした。
やがて川に沿った道が終わって視界が開けると、前方に橋が見えてきました。五鈴川に掛かる新瑞橋です。このまま橋を渡ってまっすぐ行けば門前町。左に行けば神宮の内宮。そして右に行けば恵姫たちの目指す斎主宮です。
「わあ~、やっと着いたねえ」
「うむ。この橋を見ると伊瀬に来たという気分になるのう」
恵姫は足を止めて、橋とその下を流れる川を眺めました。いつも通りの懐かしい、まるで故郷に帰って来たかのような風景です。
「斎主宮とはどのような場所なのですか」
進路を右にとって歩き始めた恵姫に、雁四郎が尋ねました。
「もちろん、斎主様がおられる場所じゃ。雁四郎はその辺りの事情はまったく知らぬであろうな。かつて伊瀬の神宮には斎王様がおられ、力を持つ姫たちを束ねておられたのじゃが、南北朝のゴタゴタで途絶えてしまった。そこで当時最も強い力を持つ姫が、斎王様の力を受け継ぎ、斎宮御所を内宮に近いこの場所に移して斎主宮とし、自らは斎主となってその跡を継いだのじゃ。以来、何度も力の引継ぎが行われ、今の斎主様は十三代目になる」
「では斎主様は最も強い力を持つ姫、ということですか」
「うむ、それだけではなく、姫の力を弱めたり強めたりも出来る。完全に奪ったり、無力な者に力を付与することは出来ぬがな」
「ほらほら、お喋りしている間に着いたよ~」
黒姫の指差す前方を見れば、立派な鳥居が立っています。四人はそこをくぐり、広大な斎主宮の中を歩き始めました。掃き清められた敷地と大きな杉や楠が作り出す木陰。まるで別世界に迷い込んだような気がします。やがて外院の御殿が見えてきました。
「雁四郎とお福はここで待っておれ。姫札を貰ってくる」
恵姫と黒姫は御殿の中に入って行きました。しばらくして出て来た恵姫の顔は、もう完全に緩み切っています。一方、黒姫はちょっと残念そうな顔。
「もう、めぐちゃんが明日でなくてもいいって言うから、会えるのは三日後になっちゃったよ。早く会って、早く帰りたかったのになあ」
「何を言っておるのじゃ、黒。この姫札があれば何日伊瀬の町に居ようと構わぬではないか。さあ、門前町に出陣じゃあ~」
意気揚々と元来た道を引き返す恵姫。その顔も開き始めた桃のように輝いてはいましたが、お福とは違って食欲丸出しの表情でありました。




