鶏始乳その五 最後の言い付け
布姫に問われた斎主は薄笑いを浮かべました。
「いいえ、思っていませんでしたよ、布姫。まさかそなたが私に歯向かおうなどとは微塵も考えてはいませんでした。神饌所の身代わりは万一の時を考えた用心に過ぎません。決して仕損じてはならない儀式。失ってはならない生贄。念には念を入れて備えを固めるのは斎主たる者の務め。此度は偶然それが役に立っただけの事。どうやら天運は私に味方してくれたようですね」
布姫の策が読まれていたわけではなかったのでした。斎主の用心深さが布姫の策を凌駕してしまったのです。しかし何れにしても同じ結果になってしまいました。斎主の性格をそこまで読み切れなかった自分を歯がゆく感じる布姫です。
「さあ、皆様。諦めてお帰りなさい。そなたたちの与太郎を思う気持ちに免じ、このまま何もせずに帰るのならば此度の件は不問に致しましょう」
「恐れながら斎主様、その御命令に従うわけには参りません」
斎主の言葉を撥ね退けるように、毅然とした口調で布姫は話し始めました。
「このような悪しき因習をいつまでも続けられるとお思いですか。私は与太郎様からあちらの世の話を詳しく伺いました。そして私たち姫の存在は異端以外の何物でもないと思い至ったのです。これまで与太郎様の世から呼び寄せられた多くの供犠たち。三百年前に呼ばれたのは徳川の世の武士。六百年前は足利の世の僧侶、九百年前は都の公家。皆様いずれも神や仏を信じ、贄を供えるという行為に理解を示し、姫衆たちの為に己の命を捧げてくれました。しかし、今、与太郎様の世に生きる者たちは、最早そのような考えを持ってはおりません。次にほうき星が昇る三百年後、私たちの世も今の与太郎様と同じ世となりましょう。そこでは姫の力に似た、いいえ、姫の力よりも遥かに強力で大きな科学という力と思考が存在しているのです。そんな世では私たち姫の存在も人の命を捧げるという行為も、理解しがたい野蛮で禍々しいものと受け止められるでしょう。三百年後の科学の世では、このような儀式は認められないのです。このような蛮行は此度で終わらせなくてはならないのです」
布姫の話が終わっても斎主の冷淡な態度に変化はありません。見下した眼差しはまだ残ったままです。
「そなたの考えはよく分かりましたよ、布姫。さりとてそれは想像に過ぎません。何の証拠もなく思い込んでいるだけ。そのような世迷言、信じられるはずがありません」
「想像でも世迷言でもありません。与太郎様から直接聞いた確かな話です」
「もしそうだとしても、三百年後に考えれば良い事ではないのですか。何故私たちが後の世の心配をしなければならないのです」
「三百年後の姫衆たちがどうなっても良いと仰るのですか。辛い立場に追い込まれるのは目に見えているのですよ」
「ならば辛い立場に追い込まれた者がどうにかすれば良いのです。私たちは私たちの務めを果たす事だけを考えれば良いのです」
布姫は口を閉ざしました。どうあっても斎主を説得するの不可能だと悟ったからです。無念さと口惜しさをにじませながら、布姫は斎主に向かって最後の言葉を告げました。
「残念でございます、斎主様。話せばきっと分かっていただけると思っておりました。が、どうやら無理のようでございますね。かくなる上は……」
「どうするつもりです。ここには斎宗も居るのですよ。如何に伊瀬の姫衆の頂点に立つ四人といえど、この二人を相手に……」
「恵姫様、与太郎様の元へ!」
斎主が言い終わる前に布姫が叫びました。
「分かっておるわ!」
直ちに上段の間目掛けて駆け出す恵姫。向き直って懐に手を入れた斎主の前に大剣を構えた毘沙姫が立ちはだかりました。
「どきなさい、毘沙姫」
「失礼ながらそれはできませぬ、斎主様」
斎主の髪が扇形に広がり虹色に輝きます。同時に毘沙姫の髪も広がって赤色に輝きます。目にも止まらぬ速さで懐から短剣を引き抜く斎主。その短剣を毘沙姫の大剣が受け止めます。互角の力がぶつかり合い、両者は睨み合ったまま動きが取れません。
「ひゅぅぅー」
毘沙姫と剣を合わせたまま斎主が息を吐きました。その息に乗って巻き起こった風が上段の間へと走る恵姫に襲い掛かろうとしています。
「ふうぅぅー」
今度は布姫が斎主の前に立ちました。巻き起こった風を打ち消しているのです。
「そなたたち、このような真似をしてただで済むと思っているのですか」
「最早伊瀬の斎主宮には何の未練もございません。断罪剣でも姫衆追放でも、好きなように裁いてくださりませ」
怒気をはらんだ斎主の瞳が銀色に輝きました。二人の生命力を奪い取るつもりなのです。が、二人に遅れて斎主の前に立った才姫の瞳が銀を宿します。
「反照!」
「くっ! 才姫、そなた返し業を。いつの間に……」
才姫が使ったのは己の瞳を鏡にして、姫の力を帯びた眼光を相手に返す業です。これで斎主の瞳術は完全に封じられます。
「伊達に何年も青峰山に籠っていたじゃわけないんだ。恵、急ぎな。あたしらが斎主を押さえている間に与太を連れて逃げるんだ」
「聞いた通りじゃ、与太郎。逃げるぞ」
白帷子を着せられた与太郎の元に、ようやく恵姫がたどり着きました。腕を掴まれた与太郎はかなり戸惑っています。
「め、めぐ様、どうして。生贄になれって命令したのに……」
「つべこべうるさいわい。気が変わったのじゃ。お主は元の世に帰るのじゃ」
「でも、僕が帰ったら、皆は……この時空は……」
「そんな事は考えずともよい。とにかく立て。ややっ、また髪で縛られておるのか」
見れば与太郎の右腕とお福の左腕には、細い髪が二本結ばれています。恵姫は帯から印籠を取り出すと、髪を光らせて叫びます。
「波飛沫!」
印籠から神海水が吐出され二本の髪を鋭く横切ります。しかし切れたのは一本だけでした。もう一本は依然として結ばれたままです。
「な、何故じゃ、何故神海水を使っても切れぬのじゃ」
「二人を繋いでいるのは私と斎宗の髪。伊瀬の姫の力では記伊の斎宗の髪は切れません」
与太郎をこの世に留めているのは斎宗宮の場とお福の場。髪に繋がれたままお福と一緒に斎宗宮を出ても、お福の傍から離れない限り与太郎は自分の時空には帰れません。何としても髪を切らなければならないのです。
「斎宗、いつまで何もせずに居るつもりなのですか。この三人を打ち倒し、与太郎を恵姫から守るのです」
斎主の前に立ち塞がっている三人の顔に焦りの色が見え始めました。こうして斎主の力を抑え込むだけで精一杯なのです。ここで斎宗に業を使われては与太郎救出は絶望的です。
「斎宗、早くなさい。何を迷っているのです」
斎主に檄を飛ばされても斎宗は動こうとしません。お福と同じ優しい表情に困惑の色を浮かべたまま、斎主と姫衆と与太郎とお福を、ただ見詰めているだけなのです。業を煮やした斎主、今度は矛先をお福に向けました。
「お福、そなたは次期斎宗。本来ならこの儀式はそなたが執り行うべきもの。そのように座ったままで何もせずに済ませられるとでも思っているのですか。そなたが制すれば恵姫とて手を引くはず。さあ、お福、いい加減に……」
斎主の言葉が途切れました。これまで一度も現れなかった声に乗った言葉が、御饌の間全体に響き渡ったのです。
「嫌でございます! お福は与太郎様を助けとうございます!」
誰もが自分の耳を疑いました。お福が言葉を発したのです。
「お福、そなた……」
驚いた目でお福を見る恵姫。お福は斎宗に向かって叫んでいました。必死の願いを込めた声を斎宗に向けて発していたのです。その声に動かされるように斎宗の右手が懐に差し込まれました。
「恵、よけろ!」
毘沙姫が叫ぶのと同時でした。斎宗の懐剣が恵姫目掛けて放たれたのです。恵姫は動けませんでした。それほどに懐剣の速度は早く、狙いは正確だったのです。
しかし懐剣の狙いは恵姫ではありませんでした。気が付けば与太郎とお福を繋いでいる黒髪は見事に切断されていました。
「斎宗、何をしているのです。そなた、まさか……」
疑念を込めた目で斎宗を見詰める斎主。斎宗は伏し目がちに答えました。
「斎主様、いいえ姉上様。私の想いも布姫と同じなのです。そして今、お福もまた同じ心を持っていると知りました。次期斎宗であるお福が声に出して命じたのです。私は逆らえません。お福の言葉には誰も逆らえないのです」
斎主の顔から怒気が消えました。諦めとも悔しさとも分からぬ冷めた嘲笑の下から斎主の呟きが聞こえてきます。
「ふふふ……そうですか。二千年の長きに渡って続いてきたお役目すら守り抜けぬと言うのですか。斎宗、それがどのような結果をもたらすか知らぬわけではないでしょうに。それでも罪無き命は奪えないと、あくまで言い張るのですか」
斎宗は何も言いません。悲しそうな目で斎主を見詰めるだけです。
「分かりました。ならば好きにしなさい。どちらにしても手遅れです。与太郎は元の時空には戻れません。伊瀬の姫衆の皆様、残念でしたね」
「戻れぬじゃと……」
恵姫には斎主の言葉の意味が分かりませんでした。が、傍に居るお福がもどかしそうに叫びます。
「恵姫様、お急ぎください。間もなくほうき星が昇ります」
「何じゃと!」
恵姫は東の方角に目を遣りました。空が雲に覆われていようとほうき星は姫の目に映ります。輝きを増したここ数日は、屋敷の中に居てもほうき星の姿を捉えられるようになっていました。
「これは……ほうき星の曙光か」
恵姫には見えていました。夜明け前に差す日の光と同じく、ほうき星が昇る前に現れる曙光、それが今、東の空を染め始めていたのです。
「そんな……そんなはずがありません。最後のほうき星が昇るのは今日の夕暮れ時のはず……」
「そう、私は確かに以前あなたにそう言いましたね、布姫。けれどもこうも言いました。用心には用心を重ねるのが斎主の務めだと。これもその用心のひとつ。与太郎を元の世に帰さない為の私の用心。此度もまた天運は私に味方してくれたようです。ほほほ」
高笑いする斎主。恵姫は与太郎の腕を掴むと引っ張り上げました。
「立て、与太郎。ほうき星が昇る前に斎宗宮を出るのじゃ」
「う、うん」
三人は立ち上がると上段の間から下りました。御饌の間の扉目掛けて走ります。横を通り過ぎる恵姫に毘沙姫から声が掛かります。
「急げ、恵。斎主様は我ら三人が押さえておく。後ろを気にせず前へ突き進め」
「頼むぞ、毘沙、布、才」
「無駄な足掻きです、恵姫。ほうき星が昇る前にこの広大な斎宗宮から走って出られると思っているのですか」
「出られるかどうか、やってみなければ分からぬ。与太郎、急げ」
与太郎の手を引いて扉の外に出た恵姫。しかしその先へは進めませんでした。数名の女官たちが立ち塞がっていたからです。恵姫はすぐさま印籠を取り出し高く掲げました。
「わらわは伊瀬の姫衆のひとり恵姫。痛い目に遭いたくなければ道を開けるのじゃ」
伊瀬の斎主宮では通用したこの虚仮威しも、今回ばかりは効き目がありませんでした。誰も退こうとしないのです。ここに集まっている内院の女官たちは多少の事には物怖じしない精鋭揃いのようです。
「そなたたちを傷つけるのは嫌じゃが、こうなれば力を使うしかあるまい」
青い光を発し始める恵姫の髪。と、前方から何かが駆けて来る音が聞こえてきました。
「めぐちゃ~ん、来たよ~、どいてどいて」
黒姫の声です。驚き慌てて隅に寄る女官たち。その間から馬に乗った黒姫が現れました。
「黒ではないか。一体どうしたのじゃ、何故ここに」
「それはこっちが訊きたいよ。いきなりほうき星の曙光が見えてくるし、与太ちゃんは全然戻って来ないし、もう待ちきれなくなっちゃって、厩舎の馬を一頭拝借してここまで来たんだよ」
「有難い。与太郎、この馬に乗って禄姫の所まで行くのじゃ。急げば間に合う。早く乗れ、行け!」
「む、無理だよ。馬なんて乗った事ないし、禄様がどこに居るか知らないし」
「世話が焼けるのう。ならば共に参ろうぞ」
黒姫が降りた馬に跨る恵姫と与太郎。すぐさま走り出した背中に声が掛かります。
「めぐちゃ~ん、禄ちゃんはお猿さんに任せてきたからね~。お猿さんの気が変わって山に帰らないうちに早く行ってあげてね~」
「恵姫様、与太郎様をお願い致します。必ずや元の世に帰してください」
「えっ、ちょっと待って。どうしてお福ちゃんが喋っているの!」
黒姫とお福の声が遠ざかります。疾走する馬に手出しできず見守るだけの女官をやり過ごし、御饌御殿を出た恵姫と与太郎は内院の敷地を駆け続けます。
「中院で待っておる禄までたどり着けば、業を使って一気に斎宗宮を出られる。それまで昇るでないぞ、ほうき星」
馬を駆りながら東の空を見ると、ほうき星の曙光は更に明るくなっています。姿を現すまで残された時間はほとんど無いようです。
「むっ!」
恵姫の顔を何かがかすめて飛んできました。周囲には弓を持った女官たちがこちらを狙っています。
「わわっ、矢が飛んでくるよ、めぐ様、ど、どうしよう」
「うろたえるな見苦しい。こんなへろへろ矢に射られるようなわらわではないわ」
恵姫は帯から印籠を取り出すと髪を光らせ叫びます。
「波飛礫!」
印籠から水滴となって吐出された神海水が、射られた矢を正確に弾き飛ばしていきます。歓声を上げる与太郎。
「す、凄いや、さすがめぐ様」
「お主に褒められても嬉しくないわ。少しは己の手で矢を防いでみよ」
矢を退けながら内院を進み、中院へ入った二人。遠くの外玉垣にもたれて座っている禄姫と猿が目に入りました。
「見えたぞ。間に合いそうじゃ。しかし、遂に尽きたか」
印籠を懐に仕舞う恵姫。神海水を使い切ってしまったのです。それと同時に馬がいななき、走る速度が極端に遅くなりました。
「ど、どうしたのじゃ、馬。腹でも減ったのか」
馬は次第に速度を落とし、走るのをやめて歩き出し、やがて完全に進まなくなってしまいました。
「めぐ様、馬の脚に矢が!」
恵姫が振り返れば馬の右後ろ脚に矢が刺さっています。将を射んと欲すれば先ず馬を射よの諺を実践した女官が居たようです。
「与太郎、降りて走るぞ」
二人は駆け出しました。禄姫もこちらに気付いたようで立ち上がって手を振っています。と、一人の女官が二人の前に立ちはだかりました。万事休す、神海水の無い今、姫の力はもう何の役に立ちません。
「邪魔立てするな、どけどけ」
恵姫の怒声を物ともせず杖を持って向かって来る女官。恵姫の口元に悪代官のような笑みが浮かびました。すかさず懐に手を入れて地に何かを転がします。
「わわっ!」
思い切り転倒する女官。その足元には伊瀬で雁四郎に買ってもらった鯛車が転がっています。
「わははは、雁四郎、礼を言うぞ。そなたの忠義の鯛車がわらわを守ってくれたわ」
禄姫目掛けて走る二人。東の空を照らすほうき星の曙光は益々強くなっていきます。
「駄目だ、間に合わないよ、めぐ様。もうすぐほうき星が昇る」
「馬鹿者、弱音を吐くでない。おーい、禄よ、そなたもこちらに走って来てくれぬか」
「これ以上、寿婆様から離れては、砂が落ちる前にたどり着けませぬじゃー」
「構わぬ。入る時空によっては元の距離より短縮される場合もあるのであろう。それに賭けるのじゃ」
禄姫が猿と一緒に小走りで駆けてきます。背後からは矢を杖に持ち替えた女官たちが追って来ます。東の空の曙光は目を背けたくなるほどに輝きを増しています。
「めぐ様、ほうき星が昇る!」
「禄、手を伸ばせ。与太郎、禄の手を掴むのじゃ!」
前のめりになる禄姫。その左手を与太郎と恵姫が掴みました。直ちに禄姫が右手に持った砂時計を反転させます。
「間に合ったか!」
三人の周囲は一気に闇に覆われました。その中を長く仄白い空間が一本、遠くに立つ寿姫の元まで伸びています。
「これは有難い。元の距離より短くなっておりますじゃ。お二人とも、急がれませ」
「与太郎、禄を背負え。走るぞ」
言われたとおりに与太郎は禄姫を背負い、寿姫目指して走り始めました。思った以上に軽いので背負って走ってもさほど苦にはなりません。
「寿は斎宗宮が作る場の外に居る。砂が落ち切る前にあそこへたどり着ければ元の世に戻れるはずじゃ」
恵姫は背負われた禄姫の袂を握り締めて走っています。業を掛けられた二人は禄姫の体から手を離すと元の時空に戻ってしまうからです。
「了解、めぐ様。寿様がこの駆けっこのゴール地点なんだね。でも、もしほうき星が既に昇っていたとしたら……」
業を掛ける前にほうき星が昇ってしまったのなら、斎宗宮の外に出ても元の世には戻れません。弱気な与太郎の言葉に恵姫は苛立ちながら答えました。
「下らぬ事を申すでない。とにかく今は走るのじゃ。それ以外の事は考えてはならぬ」
闇に囲まれた空間をひた走る二人。半分ほど来たところで与太郎がまた口を開きました。
「ねえ、めぐ様。訊いてもいい」
「何じゃ」
「本当に僕が元の世に戻ってもいいの。僕が居なくなったらめぐ様もこの世も無くなっちゃうんでしょ。本当にそれでいいの」
恵姫は可笑しくなりました。呆れるほどのお人好し。この期に及んでも尚、与太郎は自分の命より恵姫やこの世の事を心配しているのです。そうして恵姫は納得するのでした。下田で磁石を見せられた時に感じた疑問、何故金や銀のように優れた者ではなく、与太郎のような平凡な鉄が召喚されたのか……その理由がようやく分かった気がするのでした。
「与太郎よ、御饌の間で皆の話を聞いておったであろう。お主をここに留めておきたいと思っておるのは斎主様のみ。わらわも他の姫衆も斎宗様もお福も、皆、お主に生きて欲しいと願っておるのじゃ。ならば何を気に病む事がある。堂々と胸を張って己の世に帰ればいいのじゃ。そしておふうと同じ大名家に奉公し、夫婦になり、子を作り、お主の人生を歩むのじゃ」
「でも、そしたらめぐ様たちは……」
「与太郎様、急いでくだされ。砂はほとんど残っておりませぬじゃ」
切羽詰まった禄姫の声。あと少しでたどり着けそうな寿姫。息が切れてきた与太郎。そして恵姫の声。
「それにな与太郎よ、お主は勘違いをしておるぞ。わらわたちの世は消えるのではない。お主たちの世とひとつになるのじゃ。わらわたちも消えたりはせぬ。花見の桜の木の下で見たであろう。佐保姫様もかつてはわらわたちと同じく実体を持っておられた。わらわたちの世とひとつになった時あのようなお姿になられたのじゃ。与太郎、佐保姫様の姿が見え、田に居るハンゲの姿が見えたお主ならば、きっとわらわたちの姿も見えるはずじゃ。わらわたちを、この元禄の世を、忘れずに心に留めておいてくれ。さすればこの世が消えた後もわらわたちと会えるはず、必ず会えるに違いないのじゃ。別れは言わぬぞ。与太郎、再び会う日を楽しみに待っておるぞ」
「めぐ様!」
「砂が落ちまするじゃ!」
最後に聞こえたのは禄姫の叫び声でした。それまで三人を包んでいた暗闇は消え、与太郎は明るい光の中に自分が居る事に気付きました。余りの眩しさに周りの景色は見えません。周囲を照らしているのが日の光なのか、ほうき星の光なのか、それすらも分からないのです。与太郎の目に映っているのはただひとり、肩までしかない黒髪と日に焼けた肌。怒りっぽく、食い意地が張って、行儀が悪く、無茶な命令ばかりするくせに、誰よりも優しく、強く、思いやりがある、そんなひとりの娘の姿……そして、それが雄太に残された唯一の記憶となったのでありました。




