鶏始乳その一 二草粥
間渡矢丸が出港してから今日で早四日。記伊へ向かう事だけを考え、それ以外の一切の邪念を捨てた恵姫のおかげで、間渡矢丸は予定通りに航行を続けていました。このまま順調に行けば今日の昼までには船を降り、記伊へ上陸できそうです。
「遂に明日は立春か。長いようで短い一年であったのう」
昇り始めた朝日を浴びて甲板に立った恵姫は、ぼんやりとした眼差しで南の海を眺めていました。
「めぐちゃ~ん、今日は節分、そして人日の節供。朝ご飯は七草粥だよ~」
赤鯛の間から黒姫が出てきました。船に乗っているのは伊瀬の姫衆の七人のみ。江戸への旅で同行したお浪やお弱のような水夫は乗り込んでいません。従って船の仕事は七人が分担して受け持っています。七人の中で一番料理上手の黒姫が食事係になるのは、至極当たり前の事と言えるでしょう。
「ほう、わざわざ七草を船に積み込んでおったのか。気が利くではないか」
「そうしたかったんだけどねえ、無理でした。七草粥と言っても中に入っているのは蕪と大根だけなんだよ」
さもありなんと思う恵姫。しかし船の上で七草粥を食べさせたいという黒姫の心遣いは、微笑ましいほどの嬉しさを感じさせてくれます。
「七草粥か。昨年の人日は朝から晩まで七草粥を食わせられたわい。今思えばあれも随分と贅沢な食事であったのう。一応、七草全て入っておったからな」
恵姫は昨年の人日を思い出していました。一日中粥だった為、夜になっても眠れず、池の鯉を盗もうとし、それをお福に見られ、一緒にうぐいす餅を食べ、そして……
「そうじゃ、与太郎が初めてこちらに現れたのが人日の夜じゃった。丁度一年前の事になるのか」
あの時は本当に情けない腑抜けな男に過ぎなかった与太郎。けれどもこの一年の間に別人のように成長した与太郎。まさか斎主に逆らってまで命を助けたいと思わせるほどの人物になるとは、思いもしなかった恵姫です。
「与太ちゃんかあ。節分の日に七草粥でお別れ会をしたいって言っていたよねえ。結局、それは無理だったね」
「いや、彼奴のことじゃ。斎宗宮で七草粥を食わせてもらっておるに違いない。昨年の五節供の御馳走は一度も欠かさず食って行きおったからのう」
五節供だけでなく花見も月見も楽しんでいった与太郎。あれだけ美味い物を食べさせてもらっていれば、この世が好きになってしまうのも当たり前かもしれません。
「そっかー。考えてみれば与太ちゃん、斎宗宮では随分贅沢な暮らしをしているのかもね。ほら人身御供ってその日まで大切にされるでしょ。与太ちゃんも毎日、御馳走を食べさてもらっているんじゃないかなあ。鯛の尾頭付きとか、干し鮑とか、塩鰹の粕汁とか」
聞いているうちに不機嫌な表情に変わっていく恵姫。同時に口元からはよだれも垂れています。
「わ、わらわでも滅多に食えぬ御馳走を食わせてもらっていると言うのか。許せぬ。与太郎を助けるのはやめじゃ!」
「めぐちゃん、ここまで来てそれはないよ~」
「ちょいと二人とも。いつまでお喋りしているんだい。せっかくの七草粥が冷めちまうだろ」
赤鯛の間から才姫が顔を覗かせています。「はーい、今行きます」と返事をすると、恵姫の手を引っ張って赤鯛の間へ戻る黒姫でした。
「いよいよ今日で船の旅は終わり、私たちは記伊の地へ降り立つ事となります」
朝の七草粥を食べる六人の姫を前にして布姫が話をしています。今回の記伊遠征を主導するのは布姫。どのような作戦が立案され準備がされているか、今日までの四日の間に全て聞かされていました。昨年のうちから着手していたという布姫の周到さには誰もが驚きました。
「斎主様の機嫌を取っていたのは、斎宗宮での儀式の情報を集めるのが目的だったのかい。あんたも随分としたたかだね、布」
斎主の腰巾着と悪口を叩き良い感情を抱いていなかった才姫も、それが布姫の芝居だったと分かってからは見方ががらりと変わりました。今では全幅の信頼を置いています。勿論、才姫以外の姫たちも同様です。
「皆様、これまで何度も申しました通り、最後のほうき星が昇る前に与太郎様を斎宗宮の敷地外へ連れ出す事、これが私たちの目的でございます。斎主様のお話では恐らく立春の日暮れ頃に最後のほうき星が昇るとの事でございました。つまり明日の日没までに全てを終えねばなりません」
ほうき星は日や月とは関係なく無秩序に昇ると恵姫たちは思っていました。しかし斎宗宮での観測と過去二千年の記録から、ある一定の法則に従っていたようなのです。
これまでは節分の日に昇っていた最後のほうき星。今回は与太郎が何十回もこちらとあちらを行き来して多くの命を運んできた為に、一日ほど先にずれこんでしまったのでした。
「これは戦ではありません。可能な限り斎宗宮の誰にも会わず、気付かれず、争わずに事を進めてください。私からは以上でございます」
布姫は話を終わると深々と頭を下げました。七草粥を食べ終わって茶を飲んでいた六人の姫も無言で頭を下げます。いよいよ与太郎救出作戦が始まるのです。これまで斎宗宮に足を踏み入れた経験のない恵姫、黒姫、才姫はさすがに緊張しています。
「布よ、ひとつ聞いておきたいのじゃが、今の斎宗様とはどのようなお方じゃ。やはり斎主様のように厳しいお人柄なのか」
斎宗宮での儀式を妨害しに行くのですから、恵姫たちの本当の敵は斎宗です。会わずに済ませられれば良いのですが、万一遭遇してしまった時のために、少しでも多くの知識を手に入れておいた方がよいはずです。恵姫に問われた布姫はいつもと同じく淡々とした口調で答えます。
「それは私が申し上げるべき事柄ではございません。人をどのように感じるかは人によって異なるもの。私と同じ感情を皆様も抱くとは限りません。余計な先入観を与えない為にも、私は何も申さないでおきます」
「まあ、それはそうだが、斎主様に比べれば随分優しい方だぞ」
布姫の言葉を完全に無視して毘沙姫が話し出しました。
「初めて会った時はあの斎主様の妹とは思えぬほど、慎ましく、物柔らかで、それでいて気品のあるお方だった。お福が斎宗様の娘だと知った時も、なるほど道理で女中にしては気立てが良いはずだと思ったほどだ」
毘沙姫の話を聞いて苦笑する布姫。しかしどうやら斎宗様は、いきなり断罪剣を使うような激しやすい人物ではなさそうです。少し安心する恵姫一同です。
「それでは皆様、船を降りる昼頃までが寛いで過ごせる最後の時となりましょう。心と体を十分に休ませておいてください。それから毘沙姫様、才姫様、これ以降はお酒を慎んでくださいませ。お二人の力、頼りにしておりますよ」
再び頭を下げる布姫。間もなく終わる船旅に寂しさを感じつつも、明朝には始まる斎宗宮への潜入に向けて、誰もが燃えるような闘志を掻き立てられるのでした。
朝食後の茶を飲んで一服した恵姫は再び赤鯛の間を出ました。東の空を眺めれば日はもうだいぶ高く昇っています。これが間渡矢丸から眺める最後の朝日、恵姫は名残惜しそうに日に照らされた東の海を眺めていました。
「ほうき星が昇りますね」
いつの間にか横に立っていた布姫がそう言いました。「そうじゃな」と言って頷く恵姫。師走の中旬を過ぎた頃から、ほうき星は毎日のように姿を現していました。そして姿を現す前に、日が昇る前の曙光に似た輝きを発するようになっていたのです。ほうき星の現れる前兆とでも言うべき曙光は、日と同じように輝きながら、日とは別の光で空を照らします。それが今、東の空に射し始めているのです。
「節分の日の今日昇るこれが、本来ならば最後のほうき星であったのじゃな」
「はい。そして次に昇るほうき星が本当に最後のほうき星となるのです」
東の空に射し始めたほうき星の曙光は徐々にその輝きを増していきます。そして一瞬強く輝いたかと思うと、水平線にほうき星の輪郭が見えました。ゆっくりと姿を現し始めたほうき星。それは江戸で斎主が見せた三百年前のほうき星と同じく、今では日輪の十倍ほどの大きさに膨れ上がっています。
「次にお主が昇る時、与太郎はこの世には居らぬ。決してな」
宿敵に向かって宣戦布告するかの如く、低く力強い声で呟く恵姫ではありました。




