雉始雊その二 時の人雁四郎
恵姫は火鉢に片足を乗せたまま座敷に寝転がっていました。斎主宮外院の客間だけあって、間渡矢城奥御殿の自分の座敷とは比べるのが気後れするほど瀟洒な造りの部屋です。
「初めの数日は早く間渡矢へ帰りたいと思っておったが、こうして何日も過ごしておると、これはこれでいいものじゃのう。住めば都とはよく言ったものじゃ」
「恵様、またお行儀の悪い事ですじゃ。そのような格好を斎主様が見られたらお嘆きになりましょうぞ、のう、禄婆さんや」
「まったくですじゃ、寿婆さんや。嫁入り前の娘とは思えぬ端なさ。お福様を見習いなされませ」
恵姫とお福が留め置かれている客間には、禄姫と寿姫が毎日遊びにやってきます。二人とも老婆心だけはたっぷり持っているので、事あるごとにお行儀の悪い恵姫をたしなめます。しかし並外れた恵姫の無作法を楽しんでいたりもするので全く効果はありません。
「釣りができぬのを除けばここは極楽であるな。江戸の上屋敷も良かったが、あそこは飯が貧相であったからのう。ここは三食とも海の物を食わせてくれる。竜宮城に来た浦島太郎のような気分じゃ」
「失礼致します」
襖を開けて女官が入ってきました。手には包み状を持っています。
「おう、今日の文か。ご苦労じゃったな」
女官から包み状を受け取る恵姫。ここに留め置かれてから間渡矢と恵姫の間では毎日文を遣り取りしているのです。恵姫の書く文は「今日の干物は美味かった」とか「鯨を丸齧りする夢を見た」とか「飛入助が縁側に特大の糞を垂れた」とか、まるでどうでもいい事ばかりなのですが、間渡矢から届く文には城内の様子、公儀の動き、江戸における比寿家の評判などが書かれているのでした。これは恵姫だけでなく斎主や布姫なども目を通しているので、詳細な報告書の体裁を取っています。
「やれやれ、今日も詰まらぬ事ばかり書いてあるのう」
読み終わった恵姫は文をお福に渡しました。それから禄姫、寿姫と順番に目を通し、読み終わった文は女官が受け取って座敷を出て行きました。
「世の中とは分からぬものじゃな。最早命運尽きたと思っておった雁四郎がこのようになるとはのう」
しみじみとした口調でつぶやく恵姫。与太郎を逃がすために斎主宮で一騒動起こしてから今日で十日余り。この間に比寿家と雁四郎に関する世間の評判は、思いも寄らぬ方向へと転がって行ったのです。
恵姫反乱と雁四郎抜刀の第一報は早飛脚で江戸に届けられました。受け取った江戸家老の左右衛門は顔面蒼白となり、松平家当主乗里は「やってくれたねえ」と言ったまま黙り込んでしまいました。
が、続いて届けられた友乗の文を読み、そこに書かれた策を実行する事で二人はこの事態を乗り切る事に成功しました。雁四郎の振る舞いを美談に仕立て上げたのです。二人は江戸在住の大名、旗本、御家人、更には町人、百姓たちに、
「主を守るために刀を抜き、まったく勝ち目のない斎主に立ち向かう。これは臣下として当然の務め。称賛されこそすれ非難されようはずがない」
などと吹聴し、加えて老中正武にも、
「文武忠孝の臣が珍しくなった昨今、このような忠臣に厳罰を下せば、天下の笑い者となるばかりでなく、忠義の道、地に落ちん事は必定なり」
などと言わせて吉保を牽制。やがて江戸の町からは雁四郎と比寿家を称賛する声しか聞こえなくなったのでした。
こうなっては公儀としても比寿家に何らかの沙汰を下すのは難しくなります。しかも武家と姫衆は元々犬猿の仲。姫衆の頂点に立つ斎主に刀を向けるという、どんな猛者にも真似できない勇猛果敢さを見せたのですから、その事実だけで雁四郎は英雄扱いされ始めたのです。
斎主宮騒動の一件から数日後、寛右と友乗の謁見により雁四郎は所払いに減刑。しかし同時に厳左から厳罰が下されてしまいました。これを知った恵姫は憤慨し、直ちに間渡矢へ向けて抗議の文を書いたのでした。
「雁四郎を御役御免にすると聞いた時には、『如何に鬼の厳左とはいえ鬼過ぎるじゃろう』と叫んでしまったが、今にして思えば良き選択であったのう」
数日前の激怒を懐かしく振り返る恵姫、厳左の厳罰は雁四郎にとってまたも有利に働いたのです。
寛右の知力によって切腹を免れ、所払いの為に比寿家から放逐されるとの第二報が江戸に伝わると、雁四郎人気は頂点に達しました。「是非とも当家へ仕官していただきたい」「重臣待遇で招聘したい」「婿養子に来てくれぬか」などの声が旗本だけでなく有力大名からも聞こえてくる始末。当然、乗里は鼻高々です。
「いや~、雁四郎君はいつかでっかい事をやってくれると思っていたんだよねえ。あ、仕官とか婿養子とか他の大名から色々声が上がっているみたいだけど、それ全部無理だから。比寿家断絶の後は松平家の家臣になる事が決まっているからね。いや、立春が過ぎて蟄居が解ければすぐに松平家に入ってもらってもいいかな。江戸詰めなら所払いでも問題ないからね。天下の豪傑雁四郎の主君、乗里様! これで僕の名声も全国津々浦々にまで知れ渡っちゃうね。ふっふー」
と、毎日ご機嫌な乗里なのでした。
「人間万事塞翁が馬とはよく言ったものじゃな。これで公儀が比寿家に何らかの処分を科す心配はなくなったと考えてよいのう」
「天運は比寿家に味方しておりますですじゃ。これで残る懸念はほうき星のみ。これさえ片付ければ全てが丸く収まりまする。のう、寿婆さんや」
「はいはい、その通りですじゃ、禄婆さん。文を読みますと年越しを迎えた間渡矢の皆様は大層お困りのようですじゃな。恵様はともかく、お福様、黒様、才様まで伊瀬に留め置かれては、愚痴のひとつも言いたくなりましょうぞ」
恵姫とお福同様、黒姫と才姫も伊瀬に留め置かれています。与太郎に頼らずほうき星を如何に消滅させるか、記伊の斎宗と文の遣り取りをしながら斎主と共に知恵を絞り続けているのです。
しかし与太郎が去ってから十日余りが過ぎた今となっても何の策も見出せないままでした。恵姫だけでなく黒姫たちもこれ以上の滞在は無意味ではないかと思い始めていました。
「ほうき星か。あの布でさえ名案が浮かばぬのじゃから、かなり厄介な相手である事は間違いないのう。さてさて斎主様がどのような手を打たれるのか、楽しみじゃわい、ふっふっふっ」
ほくそ笑む恵姫に呆れる禄姫と寿姫。そもそも恵姫が与太郎を逃がさなければ、これまで通りほうき星は消滅していたのです。にもかかわらずまるで自分は関係ないと言わんばかりの厚顔無恥な態度に、さしもの二人の老姫も小言を言わずにはいられなくなりました。
「恵様、本日は姫の皆様が斎主御殿に集まり、ほうき星消滅の為の知恵を出し合う日。そのような言い方をされては姫衆の皆様にも斎主様にも失礼ですじゃ」
「まったくですじゃ。恵様の後先考えぬ振る舞いの為にこのような事態に陥ったのですから、もう少し反省していただきたいものですじゃて」
「な、何じゃ、二人とも。与太郎を逃がしたわらわが悪いとでも言いたいのか。あんな腑抜けなおのこの命を奪わねば消えてしまう世ならば、消えてしまった方が良いのじゃ。『与太郎様、わらわたちの世を救ってくれてありがとう』などと思いながら生きる世など真っ平御免じゃ」
余りにも意固地な恵姫の物言いに、禄姫も寿姫も二の句が継げませんでした。そして、そんな時、人は諺を思い出すのです。「ひょうたんから与太郎」「棚から与太郎」「藪をつついていないのに与太郎が出る」「与太郎去ってまた与太郎」そう、あの男がやって来たのです。
「きゃっ!」
お福の声に振り向けば、与太郎がお福の尻に顔をくっ付けるようにして転がっていました。
「こ、この阿呆が!」
血相を変えて与太郎に走り寄ると、問答無用でその頭に蹴りを入れる恵姫ではありました。




