水泉動その一 無想剣
比寿家次席家老寛右は島羽城に来ていました。寝室にあてがわれた本丸御殿客間の座敷は既に闇の中に沈んでいます。隣の間からは斎主宮から駆けつけてくれた毘沙姫の寝息が聞こえています。
「こんな時でも平然と眠れるとは……某も見習いたいものだ」
寛右はなかなか寝付けませんでした。明日は毘沙姫、そして松平家家老友乗と共に斎主宮へ赴く事になっています。斎主に対して恵姫の解放と雁四郎の助命を嘆願する、それが寛右に与えられたお役目です。
恵姫の反乱と雁四郎の抜刀、これは最早二人だけの問題ではなくなっていました。比寿家の、そして松平家の今後の命運をも左右する事件に発展していたのです。如何に物に動じぬ寛右とは言っても、与えられた責務の重大さを考えると、眠くなるどころか逆に目が冴えるばかりです。
「まさかあの伊瀬行きがこのような結果になるとはな」
そうして寛右は五日前の出来事を思い出すのでした。
* * *
寛右の屋敷に斎主宮から知らせが届いたのは、もう日が暮れかかった頃でした。既に下城の刻を過ぎ屋敷に戻っていた寛右は、斎主宮が遣わした女官から文を受け取ったのです。飛脚を使わず女官を使いに仕立てての文。それがどれほど重大で急を要する内容であるかはすぐに分かりました。
「しかも厳左殿ではなく某の屋敷に遣わされるとは……これはただ事ではあるまい」
寛右はすぐに斎主直筆の文に目を通し、その内容に言葉を失いました。生贄としての与太郎、恵姫の反乱、雁四郎の抜刀……事細かに書かれた文字からは斎主の怒りがひしひしと感じられます。
「こちらは布姫様の文か」
使いの女官が届けた文は二通でした。もう一つの文には「厳左殿にはこちらをお見せください」と但し書きがされ、事の次第が淡々と綴られていました。それは斎主の文よりも簡略かつ情を感じさせない文章でした。厳左の怒りを抑えるために布姫が工夫を凝らして書いたのです。
「ここまで気を使っていただけるとは……有難い事だ」
寛右は布姫の心遣いに改めて感謝すると共に、この事実をどのように厳左に伝え、どのように解決すればよいか、文を読み返しながら思案するのでした。
翌日、寛右の求めに応じて厳左と磯島が表御殿の小居間にやって来ました。城の者たち全員へ知らせる前に、まずはこの二人だけに事の次第を話しておこうと思ったのです。
寛右は昨日届けられた布姫の文を厳左に、そして磯島に読ませました。
「何たる事か……」
絶句する厳左。読み終わった磯島も事の重大さに顔色を失っています。
「恵姫様が斎主様の命に背いた事、厳左殿は如何思われる」
「背いて当然だ」
寛右の問いに断固とした口調で答える厳左。
「ほうき星を消滅させる為とはいえ、与太郎殿の命を差し出すなど承服できるはずがない。これまで我らがどれほど与太郎殿に助けられたか、思い出してみるがよい。海豚屋の人買いから姫様を救い出し、お福の病のために才姫様を間渡矢に連れ戻し、公儀の忍を欺くために恵姫様の替え玉となり、磯島殿に血を与え、江戸では布姫様と共に公儀に対して弁を振るい、殿の江戸煩いの治療にも当たってくれた。与太郎殿が居られなければ我らはどうなっていた事か。これほど恩義ある者を粗末に扱ったとしたら、逆にわしは恵姫様を軽蔑していたであろう。武家の娘として、我ら比寿家の当主の娘として、恵姫様の振る舞いには一片たりとも非難される謂れはない」
「武家としては間違っておられずとも、姫衆としては間違っておられたのです、厳左殿」
咎めるような磯島の言い方に、厳左の眉間には如何にも不機嫌そうな皺が寄りました。
「姫衆としてどのように間違っていたと申すのだ」
「間違っておりましょう。伊瀬の斎主様は江戸の将軍様に匹敵するお方。そのお方に逆らったのです。仕置き部屋に放り込まれるのは当然でございます」
「ならば与太郎殿を見殺しにすべきであったと申されるのか」
「そうは申しません。話し合いで解決すべきだったと申したいのです。きっと頭に血が上っていきなり神海水を使ったに違いありません。困った姫様ですこと」
「磯島殿、我らの当主の娘に対し、そのような口の利き方……」
「まあまあ、厳左殿、磯島殿、少し落ち着かれよ」
一向に収まりそうにない厳左と磯島の言い合いに、堪らず二人を止めに入る寛右です。
「此度の恵姫様への仕置きは姫衆として為されたもの。我ら武家の者がとやかく口を差し挟む事もできますまい。恵姫様への沙汰もせいぜい斎主宮での蟄居、悪くても神器没収の上、伊瀬の姫衆からの追放くらいではなかろうか。その程度ならばさして目くじらを立てる事もあるまい。それよりも問題は雁四郎だ。斎主宮内院は江戸城本丸に等しい場所。そこで刀を抜いたとなれば……」
「うむ。最早切腹は免れぬな。雁四郎もそれだけの覚悟があって抜刀したのであろう」
厳左の口からはっきりと切腹の一言を聞かされ、寛右も磯島も言葉を継げなくなりました。これに関しては議論の余地がないほど確実に下される沙汰だったからです。
「しかし事は雁四郎が腹を切っただけでは済まぬはず。江戸家老の左右衛門殿や松平家の乗里様から届いた文によれば、先日の姫衆との会合によって、側用人吉保様は以前に増して比寿家に敵意を抱いておるらしい。雁四郎切腹にかこつけて比寿家改易を申し渡してくる可能性は十分にあろう」
厳左の口から改易の一言を聞かされ、またも黙り込む寛右と磯島。今回の騒動がどれほどの大事であるか、改めて認識させられるのでした。
表御殿の小居間に沈黙の時が流れました。誰も何も言い出せません。このまま何もしなければ間違いなく雁四郎は腹を切らされ比寿家は改易、松平家への恵姫輿入れも破談となるのは目に見えています。だからと言ってそれを打開する為の妙案もすぐには浮かんでこないのでした。
「こうなれば武の力にて最後の花道を飾るとするか」
意を決したような厳左の口振りに寛右が尋ねます。
「武の力とは如何なる意味か」
「斎主宮に攻め込む。武力で雁四郎と恵姫様を奪い返すのだ」
全く予想外の厳左の言葉でした。これはもう妙案でも打開策でもありません。敵対する者を強引に従わせようとする荒くれ者の遣り口と同じです。
「正気か、厳左殿。そのような騒ぎを起こせば改易だけでは済まぬ。我らとて切腹を命ぜられよう」
「構わぬ。改易とは武家にとって死を賜るに等しい処罰。同じ死ぬのならば改易でも切腹でも同じ事」
「しかし相手は伊瀬の姫衆。しかも斎主様だけでなく毘沙姫様まで居られるのだ。我らが束になってかかろうと勝てる相手ではない」
「その通りだ」
寛右には厳左が分かりませんでした。己の負けを認めながらもその顔には薄ら笑いが浮かんでいるのです。驚天動地の事態に放り込まれ、遂にまともな思考ができなくなったのか、寛右がそう思い始めた時、真顔になった厳左が低い声で言いました。
「毘沙姫様の髪はまだ生きておるのだ。数十年前、わしだけに与えられた姫衆随一の剣豪の髪。わしの無想剣はまだ生きておるのだ」
寛右もそして磯島も己の耳を疑いました。かつて自分の剣技を高める為に厳左に与えた毘沙姫の髪、その髪を巻き付けた無想剣、それがまだ生きている……
「馬鹿な、そのような事、あり得るはずがない。姫の髪は一年も持たずに朽ちるはず」
「普通の姫の髪ならばそうだ。しかし毘沙姫様の髪は違う。闘気を与え続ければいつまでも朽ちる事はないのだ。剣を手にしたその時から今日に至るまで、わしは密かに己の闘気を与え続けてきた。無想剣はまだ生きておる。あの剣さえあれば毘沙姫様と互角に戦えよう」
寛右は感じていました。雪に閉ざされたように頑なな厳左の奥底で、知らぬ間に解けて流れ始めている泉水のように清らかな覚悟を。
『このようなお覚悟、絶対に実行させてはならぬ。何としてもお止めせねば』
強硬な態度を崩そうとしない厳左に向かって、固い決意で臨む寛右ではありました。




