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元禄・マジカル・プリンセス  作者: 沢田和早
第七話 すごもりむし とをひらく
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蟄虫啓戸その二 鯉に恋して

「どうしてじゃ。何故にわらわだけこんな辛い目に遭わねばならんのじゃ、ずずっ」


 鯛の婿源八の尻尾を齧る幻覚から覚めた恵姫は、お茶をすすりながらまた愚痴り始めました。磯島が呆れた顔をしました。


「一番辛いのは厳左殿でしょう。俸禄を半分に減らされたのですよ」

「半分ならよいではないか。わらわは本来食うべき魚を全て取り上げられたのじゃぞ」

「それもこれも身から出た錆です。一番悪いのは姫様なのですから、仕方のないことでございましょう」


 磯島はもう付き合っていられないと思ったのでしょう、すっくと立ちあがりました。


「私はこれにて失礼いたします。茶器は後ほど下げさせますので、思う存分お飲みください」


 そう言って、磯島はとっとと座敷を出ていきました。ひとりになった恵姫は湯呑を置くと、また畳の上に寝ころびました。


「ふん、何が一番悪いのは姫様じゃ。一番悪いのは与太郎に決まっておろう」


 悪いのは与太郎ではなく、与太郎を利用している奴なのですが、そんな事にも気付かないほどに恵姫の頭は鈍っていました。


「わらわの罰だけ重すぎるわ。磯島に茶断ちじゃと、無意味にもほどがあろう。女中の具合が悪くなると『早く良くなるように茶断ちをいたします』であるし、知り合いが子を孕んだと聞けば『丈夫な稚児ややこが生まれますよう茶断ちをいたします』などと言って、しょっちゅう茶断ちをしているではないか。磯島に茶断ちなど、猫に魚を与えるのと同じじゃ。ならばわらわにも魚をくれ」


 恵姫の理屈はもっともでした。磯島に茶断ちの罰を与えることには、ほとんど意味がありません。しかしそれは裏返せば、磯島にはほとんど罪がなかったからとも言えます。女中頭であると同時に恵姫の養育係でもある磯島は、恵姫を監督する義務を負ってはいるというものの、相手は厳左でさえ手を焼く我儘娘。限界というものがあります。それを考慮しての沙汰だったのでした。


「いやいや、もっと癪にさわるのは雁四郎に素振り千回じゃ。あの稽古馬鹿は暇があれば毎日素振りをしているではないか。此度の沙汰を聞いて落胆するどころか喜んでおったぞ。これでは罰にならんじゃろう。雁四郎に素振り千回なぞ、海鳥うみどりに魚を与えるのと同じじゃ。ならばわらわにも魚をくれ」


 恵姫の理屈はもっともでした。雁四郎に毎日素振り千回の罰を与えることには、まったく意味がありません。しかし雁四郎にはまったく落ち度がないのですから仕方のないことです。消えるのが一瞬ならば、現れたのも一瞬のはずです。そんな者の侵入を防ぐことなど出来ようはずがありません。当日の警護番として一応の責任を取ったという、単なる形だけの罰だったのです。


「あ~、潮の香りが恋しいのう。魚だけでなく浜に行くことまで禁じるとは、もしやわらわをいじめて喜んでいるのではないか」


 浜に行けば勝手に魚を捕って食べまくるに決まっています。出入り禁止は当然の処置と言えましょう。更に、念には念を入れて、城内と浜に置かれていた恵姫の釣り具は全て没収されていました。


 恵姫はふらふらと立ち上がると障子を開け縁側に出ました。今日から二月。中庭の隅には外されたばかりの菰が積まれています。冬の間、害虫駆除のために松の幹に巻いていた菰です。恵姫は草履を履いて庭に下りました。菰のそばにしゃがみこみ顔を近付けると、毛虫が丸まっています。


「ふむ、毛虫か。ぬくくなって虫が動き出す前に、退治しておこうというわけじゃな。それにしてもこの毛虫、随分禍々しい姿をしておるのう。毒があるから触れてはならぬと、以前、御用庭師に言われたことがあったが……」


 恵姫が悪い顔になりました。またよからぬ事を考えているようです。


「虫じゃ。虫ならば魚も食うじゃろう。そして魚は海に行かずとも居る。ここに居る。わらわの目の前に居る。そうじゃ鯉じゃ、庭の池の鯉じゃ。わらわとしたことがすっかり失念しておったわ。前回はお福に見つかって鯉を食い損ねたが、今なら大丈夫。誰も居らぬな。よし、食うぞ!」


 恵姫は青い松葉を摘まみ取ると、菰の毛虫をそれに突き刺しました。更に自分の髪の毛を二、三本引き抜き、その先に毛虫をぐるぐる巻きにして縛り付けました。前回は手掴みにしようとしたのですが、今回は釣り上げるつもりのようです。


「わらわの釣り道具を取り上げれば、釣りが出来ぬと思っておるようじゃが、甘いわ。わははは、わははは」


 歓喜の声を上げながら、恵姫は中庭を駆け抜け池の端へやってきました。水面を覗き込めば、でっぷりとした鯉がのんびりと泳いでいます。さすがにまだまだ動きは鈍いのですが、それがいかにも重量があるように感じられて実に美味そうです。思わずよだれが垂れてしまいました。


「じゅるじゅる。おお、魚じゃ。夢にまで見た魚じゃ。なんと美味そうに泳いでおるのじゃ。んっ、『恵姫様に申し上げたいことがある』とな。苦しゅうないぞ申してみよ。ふむふむ、『しばらく前にお目に掛かった時から、ずっと恵姫様をお慕い申しておりました』とな。そうかお主は雄か。んっ、まだ何かあるのか『私の今の望みは恵姫様に食われることでございます。なにとぞ、この鯉めを存分にご賞味ください』じゃと。おお、なんとい奴じゃ。待っておれ、望み通り骨一つ残さず食い尽くしてやろうぞ」


 どうやら幻覚だけでなく幻聴も聞こえている様子です。鯉を目の当たりにした恵姫の妄想は、かなり危険な領域に入っていると断言せざるを得ないでしょう。

 瞳の中に渦を発生させながら、恵姫は袖をまくり、裾を端折って、即席髪の毛製釣り具を池に垂らそうとしました。が、その時、


「おお、これは恵姫様」


 誰かが声を掛けてきました。普通の人間の声ならば、恵姫を正気に戻すことはまず不可能ですが、この声には一気に現実へ引き戻す力がありました。


「はっ、まずい!」


 正気に戻った恵姫は、慌てて即席髪の毛製釣り具を地に投げ捨て、草履で踏んづけました。


「こんな所で何をしておられる」


 こちらに歩いてくるのは厳左でした。恵姫は歯ぎしりしました。


『またじゃ。また邪魔が入った。前回はお福、今回は厳左。どうしてわらわが鯉を食おうとすると邪魔が入るのじゃ。このままでは鯉に焦がれて恋死にしそうじゃわい。人の鯉路を邪魔する奴らめ』


 と、お門違いの恨み節を心の中で愚痴りまくる恵姫でしたが、勿論、態度にはそんな素振りを微塵も見せません。


「お、おう、厳左ではないか。どうしたのじゃ。既に下城の時は過ぎておろう。中庭に用でもあるのか」

「鯉に餌をやろうと思ってな。ぬくくなって動きが良くなれば腹も減るというものだ」

「そ、そうか。それは殊勝な心掛けじゃな」


 厳左は紙袋から麩を取り出すと、千切って池に投げ始めました。のんびりと麩を口に入れる鯉たち。


「うむ、鯉吉こいきちもまだまだ元気であるな」

「鯉吉? 厳左、もしや鯉に名を付けておるのか」

「左様。この池の真鯉には全て名を付けてある。一匹でも居なくなれば立ち所に判明いたす」


 鯉を捕らなくてよかった、と恵姫は胸を撫で下ろしました。もし勝手に一匹食べていたら、罰に従わなかった罰として更に大きな罰を科せられたことでしょう。


『ふう~、危なかったわい。やはりこの池はわらわには鬼門じゃな。早々に退散いたそう』


 まさに間一髪。九死に一生を得た恵姫ではありました。



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