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元禄・マジカル・プリンセス  作者: 沢田和早
第六十三話 さけのうお むらがる
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鱖魚群その五 磯島への土産

「恵姫様はもう間渡矢だけの姫様ではないのです。松平家へのお輿入れが決まった以上、嫁ぎ先で恥をかくような事があっては、恵姫様だけでなく比寿家の名をも汚す事になりましょう。磯島様はそれを心配して以前より更に厳しくされているのではないでしょうか」


 既に島羽城でやりたい放題に振る舞っているのですから、今更取り繕っても手遅れなのですが、それでも何もしないよりはマシです。磯島も恵姫が嫁ぐその日までできる限りの努力を続けたいのでしょう。


「わらわの為を思って冷たくしていると申すか……」


 お浪の言葉にほんの少しだけ改悛の情が沸き起こる恵姫。更にお弱が付け足します。


「私たちは間渡矢に帰って来てから毎日のようにこの浜に来ておりますが、たまに磯島様を見掛ける事がありました。あの岩場の陰辺りで何かをしているようでした」

「岩場、とな……」


 はっと気が付く恵姫。釣り道具を置いてある岩場に違いありません。


「お喋りはこれで終わりじゃ。ちと気になる事ができた。お浪、お弱、気を付けて帰れよ」


 海女小屋を出て岩場へ向かう恵姫。磯島が浜に来るなど余程の理由がない限りあり得ないはずです。


「まさか嫁入り修業のために、わらわから釣り道具を取り上げるつもりではなかろうな」


 嫌な予感を胸に抱きつつ、釣り具箱が置いてあるはずの岩場の陰を覗き込めば、


「ふっ、要らぬ心配であったか」


 釣り具箱はきちんとそこに置かれていました。となると磯島は何をしに浜へ来たのだろう、そう思いながら釣り具箱を開ける恵姫。中を見て驚きました。


「ど、どういう事じゃ。釣り針も釣り竿も、何故これほどまでに綺麗なのじゃ」


 釣り針に錆はありません。釣り竿も油が塗られて艶々しています。誰かが手入れをしてくれていたのです。不思議に思いながらも釣りの支度をする恵姫。イワムシを取り、釣り具を持って海へ向かい、竿を振って釣りを始めます。しかし今一つ集中できません。


『磯島が釣り具を手入れしてくれたのじゃ。それ以外考えられぬ。何故じゃ。わらわに冷たく当たる磯島が、何故わらわのためにそのような親切を……』


 様々な考えが沸き起こっては消えていきます。これほど上の空で釣り糸を垂れるのは初めてでした。魚はそこそこ釣れるのですが、どうしても気分が乗らない恵姫、早々に切り上げて城へ帰ってきました。


「お帰りなさいませ。井戸水は冷たいでしょう。お湯で手足をお拭いください」


 魚を置きに寄った厨房で女中に言われ、桶に張った湯で顔を洗う恵姫。これも磯島が言い付けて用意させたものなのでしょう。

 座敷に戻った恵姫は改めて部屋の中を見回しました。三カ月も留守にしていたのに、塵ひとつ埃ひとつない清潔な座敷。いつ戻って来てもすぐに元通りの生活ができるように、恵姫の帰りを待ちながら磯島が、小柄女中が、毎日掃き清めてくれていたのです。


 鷹之丞や亀之助のように派手さもなく表には現れないお役目。怪我が良くなって間渡矢に戻ってからも磯島は、鷹之丞のように湯治に行ったり、亀之助のように小物細工を楽しんだりする事なく、これまでのお役目をきっちりと果たしてくれていたのです。


「感謝が足りないのはわらわの方であったのかもしれぬのう。己への礼ばかりを要求して、磯島の苦労を少しも有難く思ってはおらなんだのじゃからな」


 考えてみれば磯島が大怪我を負ったのは恵姫を守るためです。あの場にもし磯島が居なければ、無事港までたどり着けたかどうかも分からないのです。磯島に感謝こそすれ、礼を求めるなどお門違いも甚だしかったのでした。


「恵姫様、お茶をお持ちしました」


 襖が開くと同時に時太鼓が聞こえてきました。八つ時のお茶です。磯島に続いて盆を持った女中が座敷に入ってくると、恵姫はすぐに座敷の隅へ走り、置きっ放しになっている荷を漁り始めました。


「今日はいつもより早く釣りを切り上げられたのですね。何かありましたか」


 磯島の問いには答えず荷を漁り続ける恵姫。ようやく目当ての物が見付かったのか、お茶と七栗煎餅が乗った盆の前に戻って来ると、手に持った物を磯島に差し出しました。


「おほん、磯島よ、これはわらわからの江戸土産じゃ。受け取るがよいぞ」


 それはかんざしでした。見た目は質素な平打ち一本簪ではありましたが、端に飾られた丸鼈甲には蒔絵と螺鈿で蝶々の絵柄が施されています。明らかに高価な品、銭の無い比寿家が買い求められるような土産ではありません。驚いた磯島は手に取る事もせず恵姫に尋ねました。


「このような見事な簪、如何にして手に入れられたのですか」

「うむ、実は江戸の母上がわらわの嫁入り祝いにくだされたのじゃ。母上が比寿家に嫁ぐ時、同じく母から譲り受けた物だと言っておられた。まあ、わらわにはこのような簪は似合わぬからのう。磯島に使ってもらった方が簪も嬉しいじゃろう」

「どのような風の吹き回しです。私に土産など姫様らしくありませぬ。如何なる理由でこの簪をくださるのか、お教えいただきとうございます」


 磯島に詰問されて少し口籠もりながら恵姫は答えます。


「わらわは磯島を勘違いしておったようじゃ。浜の釣り具、手入れをしてくれたのはそなたであろう。お浪とお弱に聞いたのじゃ。それからこの座敷もそうじゃ。わらわが居らぬ間、ずっと掃き清めてくれていたのであろう。川に戻った鮭は卵を産めばすぐ死ぬ。川で迎えてくれる者が居らぬからじゃ。しかしわらわは違う。磯島も小柄女中も待っていてくれた。旅から戻ったその日から、いつも通りの生活ができた。その有難さに気付かなんだわらわのなんと情けない事よ。その簪はわらわからのせめてもの感謝の気持ちじゃ。受け取ってくれ」


 差し出されたままの恵姫の簪を見詰める磯島。恵姫の心情がようやく理解できたのでしょう、その顔にはいつの間にか慈愛に満ちた母のような優しさが浮かんでいます。


「いいえ。これは受け取れませぬ。江戸の奥方様が恵姫様に託された簪、恵姫様が大切になさってください。私はそのお気持ちだけで十分でございます。そう、私も少し厳しくしすぎたのかもしれませんね。申してはおりませんでしたが、あの時、私にも恵姫様の母上様の姿が見えていたのです」

「母上の姿が……」


 黒鯨丸に運び込まれた瀕死の磯島を前にして恵姫が涙を流した時、残していた力を与えるために現れた今は亡き恵姫の母。磯島にもその姿は見えていたのです。


「肉体はこの世から消え去っても、恵姫様を思う気持ちをこの世に留めておられた奥方様。その姿と声を目の当たりにした時、私は心に決めたのです。恵姫様をどこに出しても恥ずかしくない三国一の花嫁にすると。それが奥方様の一番望んでおられた事なのですから。江戸から戻って来られた恵姫様に以前より厳しく接したのもこの想いゆえの事。これだけは分かっていただきとうございます」


 海女小屋でお浪に言われた通りでした。磯島の冷たさも厳しさも全ては恵姫の為を思っての事だったのです。


「うむ、よく分かっておる。それも磯島のお役目のひとつであるからな。ただもう少し手を抜いてくれると嬉しいぞ」

「そうは参りません。それでは花嫁修業になりませぬ」


 厳しさを改めるつもりはないようです。さすが磯島、その辺りはしっかりしています。それでも恵姫の心の中はもうすっかり晴れ渡っていました。磯島は常に恵姫を第一に考えてくれていると分かったのです。それだけで自分が如何に幸せ者であるかを実感できるのでした。


「ああ、言い忘れておりました、恵姫様」

「んっ、何じゃ、パリパリ」


 茶請けの七栗煎餅を齧りながら答える恵姫。お行儀の悪さはまた元に戻っています。


「厳左殿より言付けです。間渡矢丸の修理代が思いの外高額になった為、しばらく奥御殿への賄費まかないひを減額する。恵姫様の釣り上げる魚は全て銭に換え、三度の食事も当分粗食にて我慢してもらいたい、との事です。早速ですが、本日より数日間、魚は膳に上りませぬゆえご承知おきくださいませ」

「な、何じゃと! 何故に船の修理代をわらわたち奥の者が負担せねばならぬのじゃ」

「あの船の船頭は恵姫様、梶取も恵姫様。となれば船の損傷の責任を負うのも当然恵姫様でございましょう。旅の間に腹肉も随分とたくましくなったご様子。少しお痩せになった方がよろしいのではないですか。そうそうお腹が空いたからと言って、生けてある水仙の葉を食べるような真似はしないでくださいまし。薬代も馬鹿になりませぬゆえ。ほほほ」


 高笑いする磯島を唇噛み締めて見詰める恵姫。これが間渡矢のいつもの日常。これが貧乏大名比寿家の普段の生活なのです。


「……もう一度、旅に出たいものじゃのう、パリ……」


 煎餅を齧りながら力なくつぶやく恵姫ではありました。


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