熊蟄穴その一 雨の島羽城
今日の島羽は雨でした。冬の雨の冷たさは体だけでなく心までも凍り付かせてしまう冷淡さを持っています。雨に打たれて濡れた顔、そこに吹き付ける北風。人の持つ全ての温かみを奪い取ろうとする冬の雨と風の仕打ちに、人は生きる意欲すら喪失しそうになるのです。
けれども雨と風を冷たく辛いと感じるのは冬だからです。その証拠に暑い夏には、吹き付ける雨と風を涼しく心地よいと人は感じるのですから。冷たさの点ではどちらも大差ないのに感じ方は正反対。人とは実に我儘な生き物でございます。
「今日も雨は止みませぬなあ」
島羽城本丸御殿の客間で雁四郎がぼやいています。江戸から島羽に到着して今日で五日目。お浪とお弱は間渡矢丸に乗って、とっくの昔に間渡矢へ帰ってしまったというのに、恵姫たち四人はまだ島羽城に留まっているのです。
「わらわたちは島羽に居ると雨に祟られるようじゃのう。今年の二月に来た時も雨続きで、友乗の屋敷に四日も滞在していたではないか。別に急ぐ旅でもないのじゃ。雁四郎、無駄に照る照る坊主など作るのは、もう止めにしたらどうじゃ」
「いえ、止めませぬ。二月の島羽訪問の時も、拙者の照る照る坊主が功を奏して雨は止んだのです。此度も必ずや雨雲を追い払ってくれましょう」
十個目の照る照る坊主を作りながら、力強く言い放つ雁四郎。これ以上松平家の世話になるのは心苦しい、そして一刻も早く恵姫を間渡矢に送り届け自分のお役目を終わらせたい、この二つで頭が一杯なのですから、照る照る坊主作りにも自ずと熱が入るのです。
一方の恵姫にとっては、伊瀬へ行こうが島羽に留まろうがどちらでもよいのです。伊瀬では姫札で贅沢し放題。島羽でも次期松平家の正室という事で贅沢し放題。しかも城を囲む堀が海水で満たされている島羽城は、櫓の中に居ながらにして釣りができるのです。雨の日も濡れずに釣りを楽しめるのですから、恵姫にとってはむしろ伊瀬より島羽の方が居心地が良いのでした。
「こんな事になるなら一泊だけで伊瀬に発ちゃよかったねえ。着いた当日とその翌日は晴れていたんだからさ」
ここでも文机の前に座って書を楽しんでいる才姫。読んでいるのは島羽城書物蔵から探し出してきた医方問余の写本です。草双紙だけでなく医書にも目を通そうとする姿勢は、さすが医術の業を持った姫と言えましょう。
「今となっては結果論に過ぎませぬよ、才姫様。まさかあの晴天の後に三日も雨が降り続くとは、誰も思っていなかったのですから」
そう言いながらも後悔の念を隠し切れない雁四郎。才姫の言葉通り、島羽には一晩世話になるだけで翌日伊瀬へ発つ予定だったのです。ところがその日の朝食後、突然恵姫が、
「伊瀬に行けば海釣りができなくなるであろう。飯を食ったら少し釣りをさせてくれぬか」
と言い出したので仕方なく釣りをさせたところ、
「せっかく釣ったのじゃ。昼にこの魚を食ってから伊瀬に発とう」
と言い出したので仕方なく釣った魚で昼食を取ったところ、
「飯を食ったら眠くなったわい。少し昼寝をしてから伊瀬に発とう」
と言い出したので仕方なく客間で昼寝をしたところ、
「寝たら小腹が減ったのう。茶を飲んでから伊瀬に発とう」
と言い出したので仕方なく八つ時の茶を飲んだところ、
「今発てば日暮れまでに着けるかどうか分からぬぞ。冬は日短、あっという間に暗くなる。今日はやめて明日伊瀬に発とう」
と言い出したので仕方なく出発を次の日に延ばしたら生憎の雨。
冷たい雨の中を歩いて伊瀬に向かうのは嫌だと駄々を捏ねられ、仕方なく晴れるのを待つも、三日間に渡って雨は止まず、とうとう今日に至ってしまったのでした。
「何たる事だ。恵姫様の引き延ばし策にまんまとはまってしまうとは。翌日晴れれば晴れたで、あれこれ言い訳を作り出して島羽に留まるつもりだったのは明白ではないか。何故『釣りなど間渡矢に帰れば飽きるほどできます。さっさと伊瀬に発ちましょう』と言えなかったのだ。雁四郎、一生の不覚」
などと臍を噛んでも所詮は後の祭り。こうしてせっせと照る照る坊主を作る羽目になってしまった雁四郎なのでした。
「これもぶらさげておくか」
雁四郎は立ち上がると縁側の障子に向かいました。障子の上の長押には既に九つの照る照る坊主がぶら下がっています。そこに十個目を追加した後、障子を開けて庭を眺める雁四郎。雪混じりの雨が寒々と降っています。
「氷雨とは嫌なものですな。雪のように冷たく雨のように重い。体の芯まで冷え切ってしまいそうでござる」
「氷雨じゃと。何を言っておるのじゃ雁四郎」
火鉢を独り占めして手を焙っていた恵姫。雁四郎の言葉が気に障ったようです。
「氷雨は冷たくて嫌だと申しましたが、何か」
「どこに氷雨が降っておるのじゃ。あれは霙じゃ。氷雨とは雨のように降る氷の粒であって、霙ではない」
「はて、そうでございましたか。てっきり氷のように冷たい雨の事かと思っておりました。しかし、どちらにしても同じような物ではございませぬか」
「全然違うわい。氷雨は夏に降るものぞ。雷と一緒にパラパラと降ってくる雹や霰、あれが氷雨じゃ。冬に降るものではない。雁四郎、お主は武芸書しか読んではおらぬのであろう。たまには別の書も読め。天下泰平の世では如何に武士といえども、それなりの教養は必要じゃぞ」
すっかり言い負かされてしまった雁四郎です。これが恵姫以外の者から言われたのなら素直に聞く事もできるのですが、口から出てくる言葉の半分くらいは出任せの恵姫から言われたとあっては、雁四郎も簡単には引き下がれません。ここは第三者の意見を伺いたいところです。
「あのう、才姫様、今の恵姫様のお言葉についてですが……」
才姫は二人の会話には全く興味を示さず書に目を通しています。お福は女中たちの手伝いをしに奥御殿へ行っているので、伺うとなれば才姫しか居ないのです。
才姫は書から顔を上げると、まるで気乗りしない声で答えました。
「ああ、恵が正しいよ。古事記には、伊吹山の神様が大氷雨を降らし、倭建命を打ち惑わしたって書かれているからね。それが元で死んじまったって言うんだから、きっと大きな雹でも頭に当たったんじゃないのかい」
「うむ、全くその通りじゃ。才はよく書を読んでおるようじゃのう」
やはり恵姫の言い分が正しかったようです。これを聞いた雁四郎はすぐに態度を改めました。
「左様でございましたか。この雁四郎、己の浅学非才を思い知り恥じ入るばかりでございます。これよりは武芸書のみならず、様々な書に親しむべく努力致す所存でございます」
両手を畳につけ、才姫と恵姫に深々と頭を下げる雁四郎。自分の過ちを即座に認める潔さに、恵姫はこれ以上何も言おうとしません。が、才姫は少し気の毒に感じたのでしょう、慰めの言葉を追加します。
「別にそこまで生真面目に考える必要はないよ、雁。言葉なんて時と共に変わっていくもんさね。あんたと同じように氷雨は霙だと思っている奴は沢山居るはずさ。要は通じりゃいいんだよ。互いに分かりあっていれば、言葉なんて何でもいいのさ」
「うむ、それも一理ある。才は言葉についてよく考えておるようじゃのう」
結局、恵姫自身も氷雨の意味についてはどうでもいいようです。両手をついて詫びた自分を空しく感じる雁四郎。霙の降る音はまだ続いています。
「何はともあれ早く止んで欲しいものですな。でなければ我らは島羽の城より出られませぬ」
「焦るな雁四郎。冬籠もりしておる熊だと思えばいいではないか。このまま春になるまで島羽に籠もるのも悪くないのう、はっはっは」
高笑いする恵姫を尻目に十一個目の照る照る坊主作りに取り掛かる雁四郎ではありました。




