表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
元禄・マジカル・プリンセス  作者: 沢田和早
第六十話 たちばな はじめてきばむ
297/361

橘始黄その一 最後の夜

 下田を出てから今日で四日目。寒さも厭わず御座船間渡矢丸の甲板に立ち、夕暮れが迫る海を見詰める雁四郎。傾いた夕日が照らす西の海の向こうには島羽の港があるはず、そして明日にはそこに着いているはずです。


「島羽を出たのが九月十四日。今日は十一月七日。五十日を超える旅の日々も遂に明日で終わる。振り返ってみれば矢のように過ぎていった五十日間であった」


 雁四郎は思い出していました。恵姫の気紛れも、初めて見た富士の美しさも、江戸での暮らしも、下田の松茸も、今となっては何やら遠い昔話のように思われます。


「旅とは夢のようなものなのかもしれぬなあ」


 旅が終わり間渡矢の城に戻れば、何事もなかったかのように普段の日常が始まるのです。それは目が覚めた途端に楽しかった夢を忘れ、いつもの生活に戻る朝の気持ちによく似ている……そんな考えが雁四郎の頭に浮かぶのです。


「雁四郎、いつまで夕日を見て黄昏たそがれておるのじゃ。そろそろ夕飯じゃぞ。早くこちらに来ぬか」


 赤鯛の間の扉を開けて恵姫が声を掛けてきました。帰りの船では、寝る時は女たち全員で黒鯛の間を使い、食事の時は雁四郎も含めた全員で赤鯛の間を使う、そんな習慣が自然と出来上がっていたのです。


「今しばらく落日を感じさせてくだされ」


 恵姫に来るよう言われても、しぶとく西の空を眺め続ける雁四郎。これが間渡矢丸から見る最後の夕焼け。明日になって船を降りれば、次にこんな光景を見られるのはいつになるか分かりません。しっかりと眼に焼き付けておきたいのです。


「明日はいよいよ島羽か。長いようで短いお役目であったな」


 珍しく恵姫も旅情を感じているようです。雁四郎の横に立ち夕焼けを眺め始めました。


「はい。此度はよい経験をさせていただきました。下田を出た後に見た、雪をいただいた富士の姿。あの美しさは生涯忘れる事はできませぬ」


 江戸に向かう時には雪を被っていなかった富士の山。下田を出た後、恵姫が気を利かせて再び田子の浦まで船を進めると、見事なまでに白く雪化粧された富士の頂を見る事ができたのです。


「やはり富士には雪がよく似合うのう」


 恵姫も雪もいただいた富士を見るのは初めてでした。描かれた絵ではない本物の雪の富士。船に乗っている全員がその優美な姿に、時の過ぎるのを忘れてしまうほどでした。


「富士を見てからは実に順調な船旅でございました。往路よりも一日早く帰り着けそうです」

「それもこれもわらわのおかげじゃ。起きている時も寝ている時も、頭の中で島羽の港を思い浮かべておらねばならぬのだからのう。でなければ船があらぬ方向に進んでしまうからな。頭を空にできるのは飯を食う時と釣りをする時だけじゃ。随分と草臥れたわい」


 帆柱と梶に結えられていた恵姫の髪は、江戸を発つ時に新しい髪と交換しました。そのおかげで間渡矢丸は恵姫の意思をよく反映し、富士を見た後は島羽に向けて一直線に突き進んでいたのでした。


「それはお疲れ様でございました。されば今夜は何も考えずお休みくだされ。既に船は三河の伊良湖岬を通過し伊瀬の海を進んでおります。ここで一旦船足を止め、明日の朝から動かしたとしても、昼までには島羽に着きましょう」

「ふむ、それもそうじゃな。船旅の最後の夜くらい何も考えずに眠るとするか」

「ちょいと、二人だけで何をいちゃついているんだい。夕餉の汁が冷めちまうよ」


 今度は才姫が赤鯛の間から出てきました。なかなか戻って来ないので痺れを切らしたのでしょう。


「い、いちゃついてなどおりませぬ。拙者はただ旅の最後の夕日を、心行くまで味わっているだけでござる」

「旅の最後の夕日? ふふっ、雁、何を言っているのさ」


 才姫に鼻で笑われて一気に旅情が萎んでいく雁四郎。才姫には甘ったるい旅心などは全くありません。この五十日間は旅などではなく、お役目を果たすための単なる移動に過ぎなかったです。


「何を笑っておられるのです。旅の最後を名残惜しく思うのが、それほどに可笑しいのですか」

「船旅は明日で終わるさ。でも旅はまだ終わらないよ。雁、忘れたのかい。姫屋敷で斎主様を見送った時、此度のご褒美に姫札をやるから伊瀬に来いって言われただろう」

「あっ……」


 口を開けて呆然自失の雁四郎。言われてみれば確かにそんな遣り取りをしていたような記憶があります。完全に失念していました。しかしそれも仕方の無い事です。その直後、雁四郎の頭の中は、斎主から与えられた四つの切り餅で一杯になってしまったのですから。


「下田で毘沙と別れる時も言ったであろう。間渡矢へ帰る前に伊瀬に寄るよう斎主に言われたと。四日前の事すら忘れてしまうとはのう。何たる情けなさじゃ」

「さ、左様でございましたね」


 これもまた完全に失念していました。しかしそれも仕方の無い事です。松茸を売って得た身分不相応な額の銭を懐に抱えていたのですから。それだけで雁四郎の頭の中は一杯になっていたのでした。


「それで恵姫様、島羽に着いた後はどのようになされるおつもりなのですか」

「うむ。まずは島羽城で体を休める。そうじゃな、数日は城主気分に浸りたいものじゃが、江戸へ発つ前に友乗には散々世話になっておるからのう。まあ、一晩世話になるだけにしておくか。島羽に着いた翌日は伊瀬へ行き斎主様に挨拶。そして姫札を受け取って門前町で贅沢三昧じゃ。姫札は通常ひと月使えるからのう。間渡矢へ帰るのは十二月になってからじゃな」

「じ、十二月でございますかっ!」


 これには雁四郎も驚かずには居られませんでした。明日で終わると思っていた旅がひと月以上伸びてしまったのです。


「そ、それでは間渡矢丸はどうされるのです。お浪やお弱は」

「心配は要らぬ。わらわたちの到着に合わせて間渡矢から船頭や梶取が島羽に来る事になっておる。その者たちと共にお浪とお弱は間渡矢へ帰すつもりじゃ。わらわたちが伊瀬へ行けば、もう船は用無しじゃからな」

「しかし伊瀬にひと月は無理でございましょう。恵姫様たちは姫札があるので銭はほとんど要りませぬが、拙者は宿も飯もただではないのです」

「松茸を売った銭があるではないか。ケチケチするでない。お役目が終わったご褒美じゃと思ってパアーと使い切ってしまえばよいのじゃ。わははは。さあ、飯にするぞ」


 恵姫は豪快に笑うと赤鯛の間へ帰っていきました。


「雁、銭は天下の回りもの。儲けた銭を厳左や寛右に渡したところで、どうせ恵の飯に変わっちまうだけじゃないか。お役目の褒美だと思って使っちまいな。松茸を売って銭を儲けた事はあたしらだけしか知らないんだからさ」

「銭が恵姫様の、飯に……」


 才姫からの有り難い忠告を聞いて、雁四郎の忠義心に変化が現れました。この銭を厳左に渡したところで、雁四郎が得るものは褒め言葉だけ。銭自体は食い物に変わり恵姫の腹の中へ消えていくのです。


「ならば拙者がもっと有意義に使ってやった方が銭も喜ぶに違いない」


 我が子を慈しむように腹の胴巻きを撫でると、赤鯛の間へ入っていく雁四郎なのでした。


 その夜は船での最後の夕食という事で、お浪が腕を振るった料理が並びました。既に間渡矢丸は動きを止め、頭を食う事だけで一杯にした恵姫は大いに浮かれまくっています。


「皆様とこうして夕食を共にするのは今晩が最後でございますね。お名残惜しゅうございます」

「お浪、お弱、此度のお役目を首尾よく終えられたのは、そなたたちの尽力あってこそ。礼を申す」

「まったくじゃ。海女にしておくには惜しいわい。これからも間渡矢城の東の浜へ遊びに来るがよい。わらわが釣り上げた魚を刺身にして食わしてやるぞ」

「恵よりお浪の方が料理の腕は上さね。毎日美味い飯を食わしてくれてありがとよ」


 二人の海女は目立たないながらも本当によく働いてくれました。改めて感謝の気持ちで一杯になる間渡矢の四人ではありました。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ