朔風払葉その二 下田到着
下田港は朝でした。黒鯛の間ではまだ恵姫が眠っています。そこで眠っているのは恵姫だけではありません。才姫、お福、お浪、お弱、船に乗っている女たち全員が黒鯛の間で寝ています。
暦は昨日から十一月に入り、さすがに朝晩が冷えるようになってきました。広い黒鯛の間に一人で居ると寒いので、少しでも屋形の中を暖めようと女たち全員がそこで寝る事にしたのです。
おかげで朝晩の冷気もさほど苦には感じなくなりました。しかし女たちの中に才姫が居たのがいけませんでした。お浪たちがずっと使っていた、海女が船で暖を取るのに用いる磯火鉢。これを黒鯛の間に持ち込んで、酒を温めたり、握り飯を焼いたりして夜更かしするのです。
当然、恵姫たちも付き合う事となり、黒鯛の間では毎晩遅くまで井戸端会議が花盛り。結局全員が毎日朝寝坊するようになってしまったのです。
ただ、そのおかげで間渡矢丸は予定より早く下田港に到着する事ができました。すっかり寝不足となってしまった恵姫は、風のない晴天の昼間しか釣りをしなくなり、船を止める事がほとんどなくなったからです。
「これはまた早く着いてしまったでござるな」
雁四郎だけは行きと同じく湯湯婆を抱いて船倉で寝起きしているため、才姫たちの「夜更かしお喋りの宴」とは無縁です。いつも通りに早起きして甲板に出れば、昼過ぎ到着予定の下田港が前方に見えていました。宿に入る夕刻までどのように時間を潰そうかと、下田の海を眺めながら考える雁四郎。やがて船は港の中へと入っていき、ほどなく間渡矢丸は船足を止めました。
「おや、あれは……」
目を凝らして港の方を見れば、一隻の船がこちらに近付いてきます。見覚えのある船……そう、ひと月以上前、横付けにされて同心たちが乗り込んできた下田奉行の船です。雁四郎は慌てて黒鯛の間の扉を開けました。
「恵姫様、船改めでございます。ご準備を」
「ちょいと、雁。女の部屋をいきなり開けるなんざ、無粋すぎるんじゃないのかい」
夜着を羽織ったまま磯火鉢に手をかざしていた才姫が不機嫌な顔で言いました。それもそのはず、才姫以外の女たちは、まだあられもない格好で熟睡していたからです。
「し、失礼したでござる」
大急ぎで扉を閉める雁四郎。その間に下田奉行の船が横付けされ、奉行所配下の同心たちが間渡矢丸に乗り込んできました。
「船改めである。船頭はどこか」
「お、お役目ご苦労様でございます。船頭はまだ眠っておりますので、しばしお待ちくだされ」
「まだ眠っておるだと。けしからん。どこで寝ておるのだ」
「この黒鯛の間でございます。間もなく用意も整うと思いますれば、今しばらく……」
と雁四郎が口上を述べているにもかかわらず、役人は問答無用とばかりに黒鯛の間の扉に手を懸けました。
「いつまで寝ておるつもりだ。ただでさえこの港は船が多くて時間が足りぬのだ。わしが起こしてやる」
「ああ、お待ちを!」
雁四郎が止めるのも聞かず黒鯛の間の扉を開ける役人。たちまち聞こえてくる黄色い叫び声。才姫に起こされた恵姫たちはまだ着替えの真っ最中。全員襦袢姿です。
「見るでない。この助兵衛が!」
恵姫の怒声と同時に火鉢の炭が飛んできて役人の額に当たりました。面食らってすぐさま扉を閉める役人。
「ばばば、馬鹿者。ここは女の部屋ではないか。船頭はどこかと申したであろう」
「あ、はい。炭を投げた娘、恵姫様がこの船の船頭でございます」
「恵姫……どこかで聞いた名だな」
炭が当たって黒くなった額を撫でながら役人は考えています。よく見ると、ひと月以上前に下田へ寄った時、この船に乗り込んできた男です。
「思い出した。姫衆のひとりにして間渡矢の暴れ鯛の異名を持つ恵姫か。するとこの船は間渡矢の御座船だな。またこの船を引き当てるとは運がないな」
「面白き偶然でございますな。これも何かの縁というもの。船改めは簡単にお願い致します」
「そうはいかぬ。これもお役目なのでな。お前たちは船を調べよ。わしは彼奴らの着替えが終わるのを待つ」
役人にしては随分と真面目な男のようです。一緒に乗り込んできた数人の同心たちは船のあちこちを調べ始めました。その間に雁四郎は船箪笥から取り出しておいた船往来手形と五人分の御留守居証文を手渡しました。
「お改めくださいませ」
「よし、見せてみろ。比寿家御座船間渡矢丸。江戸から国許の志麻へ戻る途中……妙だな。この船は参勤交代に用いているのであろう。領主が乗っておらぬではないか」
「はい。江戸上屋敷に居られる殿の容体が殊の外優れず、此度の国許への帰還は断念せざるを得なくなったのです」
「そうか、それは気の毒な事であったな。さて、女は五人。船頭兼梶取の恵姫……」
「わらわじゃ」
ようやく着替えを終わった恵姫たち五人が黒鯛の間から出てきました。証文を読んでいた役人は舐めるような視線を五人の体に纏わりつかせています。
「で、そちらは医者の才姫か。ふむ……恵姫と才姫、おまえたち二人は姫であろう。姫の力を持つ者は髪を光らせられると聞く。見せてみよ」
「ほらよ」
素直に言うことを聞いて、髪の先端を淡い銀色に光らせる才姫。嫌そうな顔で青色に光らせる恵姫。役人は納得したようです。
「うむ。二人は間違いないようだな。で、水手で海女のお浪とお弱か。確かに全身日に焼けておるな。髪型、顔、背格好、書かれている通りか。まあよかろう」
一人でぶつぶつ呟きながら証文と五人の女を見比べています。ここまで細かく検分するのは出女を防ぐためです。江戸から出ようとする女に対しては、箱根も下田も厳しさに変わりはないのでした。
「で、最後は女中のお福か……ふ~む、女中にしては少し品があるな。髪には小桜の簪に柘植の櫛。前掛けもせず、しかもその小袖は友禅染めではないのか。女中とは思えぬ瀟洒な身なり……怪しいな」
「女中とは言っても大名の娘であるわらわの身の回りの世話をしておる、いわば侍女のお役目を担ったおなごじゃ。身なりがきちんとしておるのは当たり前であろう。証文にもそう書かれておるはず」
恵姫に言われてもう一度御留守居証文を見直す役人。この証文は江戸を出る女が必ず携帯しなければならないもので、公儀の留守居役が発行するのでこのように呼ばれています。
そこには女の素性、行く先、髪型、体の特徴などが事細かく記載され、この証文と照合する事で本人であるかどうかを確認し、出女を防いでいるのです。
「確かに書かれてはいるが、念のため人見女に改めさせるとするか。おい、お福なる者を船より降ろして連れて参れ」
「お福を連れて行くじゃと」
これには恵姫も黙っていられませんでした。人見女の吟味は着物を脱がせ髷を解き、微に入り細を穿って入念に行われます。お福にそんな辱めを受けさせるわけにはいきません。
「お主、江戸に行く時もこの船を改めたであろう。お福が乗っていたのを忘れたのか」
「人数は覚えておるが顔までは覚えておらぬ。出女は厳しく取り調べよと言われておるのだ。邪魔立てするようならば江戸に追い返すぞ」
「むぐぐ……」
さすがにここは引き下がざるを得ない恵姫。才姫が諦め顔で取り成します。
「仕方ないさね。お役人の言う事を聞きな、恵。別に取って食われるわけじゃないんだ。すぐ終わるさ。お福、すまないが……」
才姫の言葉が途切れました。お福は自ら髷を解いていたのです。
「お福……何をするつもりじゃ」
いつも笑顔を絶やさないお福の表情がひどく険しくなっています。解かれて背中に垂れていた髪が扇形に広がりました。その先端に微かに灯る虹色の輝き。
「お福、あんた、やっぱり姫の力を……」
しかしそれはほんの一瞬に過ぎませんでした。虹色の輝きはすぐに収まり、お福は全ての力を使い果たしたかのように、その場にへたり込んでしまったのです。恵姫たちのように正式な姫ではないお福にとっては、髪を光らせるだけでも相当な力を使うのでしょう。
「お福、大丈夫か」
へたり込んだお福に駆け寄る恵姫。にっこりと笑うお福。その表情も虹色に光る髪も、やはり伊瀬の斎主にそっくりだと改めて感じる恵姫ではありました。




