虹蔵不見その二 与太郎診察
恵姫の右足は何かを蹴飛ばしたかのように伸び切り、左右衛門の右手は何かを突き飛ばしたかのように伸び切り、その頭の上には飛入助が乗っています。額と胸と頭に痛みを感じるので、どうやら二人から同時に蹴りと突きをお見舞いされ、最後に飛入助が頭をつついたのは間違いないようです。
「父上の足を小槌で殴るとは何事じゃ。お主、命が惜しくはないのか」
「恵姫様の仰る通りですぞ、与太郎殿。もしここに厳左殿が居られたら、そなたの首は今頃畳の上に転がっていたはず。身の程をわきまえられよ」
「ピーピー!」
どうやら二人と一羽は誤解しているようです。与太郎は畳から起き上がると、必死で弁解を始めました。
「ち、違うよ。これは診察なんだ。脚気、じゃなくて江戸煩いかどうかを知るための方法なんだよ。叩いたこれだって武器じゃなくて、玩具のだるま落としの木槌を持って来たんだよ。殴ったんじゃないんだ。これが一番有効な診察方法なんだよ」
「診察じゃと。小槌で人を殴って何が分かるというのじゃ」
怒りが収まらぬ恵姫。被っていた猫はどこかへ行ってしまったようで、殿様の前だというのに普段通りの喋り方に戻っています。
『ああ、もう……面倒な事になっちゃったなあ』
せっかく親切で診察しているのに、感謝されるどころか蹴飛ばされ、突き飛ばされ、つつかれ、罵倒される始末。踏んだり蹴ったりの扱いに、すっかり嫌気が差してしまった与太郎です。どうしようかと思案していると、それまで黙って眺めていた才姫が与太郎の手から小槌を奪い取りました。
「恵、左右衛、勝手に決めつけるのは良くないね。与太の世の流儀があたしらと違っていても不思議はないだろう。膝を叩いたらどうなるか、試してみようじゃないか。左右衛、そこに寝て殿様と同じ格好をしてみな」
「えっ、あ、はい。かしこまりました」
才姫の言い付けとあっては逆らうわけにはいきません。素直に畳に寝っ転がり左足を立てて、右足をブラブラさせる左右衛門。
「で、足のどの辺を叩けばいいんだい、教えな、与太」
「この皿みたいに丸くなっているすぐ下の部分です。やや上向きに、力は強くなくていいので衝撃を与える感じで」
「ほらよ」
言われた通りに膝を叩く才姫。左右衛門の足がビクンと跳ね上がりました。驚いて声を上げる左右衛門。
「おおう、これは何とも不思議な感じでございますな。勝手に足が動きまする」
「でしょ。江戸煩いじゃなければ勝手に足が跳ね上がるんだよ。殿様は全く動かなかったから、江戸煩いで間違いないと思うよ」
「面白そうではないか。わらわにもやってみせてくれ」
畳に寝っ転がって同じ格好をする恵姫。才姫が膝を叩いてやると、やはり足は跳ね上がります。ついでに才姫も寝っ転がると与太郎に叩いてもらいました。同じ反応です。
「へえ~、誰が見付けたのか知らないけど大したもんさね。膝だけでなく色々な場所を叩いてみたくなったよ」
才姫の医術魂に火が付いたようです。これ以降、才姫に診てもらう病人は、意味もなく体のあっちこっちを叩かれる事になるでしょう。
「済まぬ事を致しましたな、与太郎殿。平にご容赦くだされ」
殿様の膝を叩いた理由が分かり平身低頭して謝る左右衛門。一方の恵姫にはまるで反省の色はありません。
「事前に説明しないから悪いのですわ。それよりも左右衛門、父上を守ろうとするそなたの忠義、感服致しましたよ」
反省はしていないものの興奮は収まったようで、猫被りが復活しています。恵姫から謝罪も感謝もないのはいつもの事なので気にも留めない与太郎。しかしさすがは殿様、自分の娘をたしなめます。
「恵、そのような物言いは与太郎殿に対して失礼であろう。一言くらい詫びを入れるべきではないのかな」
恵姫の顔が凍り付きました。自分が与太郎に詫びるなど、鯨が空を飛ぶよりも有り得ない事です。さりとて殿様の前では良い娘を演じたい恵姫。ここはぐっと堪えて畳に両手をつきました。
「ご、御無礼の段、し、失礼致しました。与太郎様」
しおらしく頭を下げる恵姫。言うまでもなくそれは見せ掛け。胸の内では、
『うぐぐ、わらわにこんな恥をかかせおって。こうなったら今日は昼も夕も飯抜きじゃ。それから雁四郎に言い付けて、ほうき星が沈むまで素振りをさせてやる。いい気になっておられるのも今の内じゃ。覚えておけよ、与太郎め』
などと、与太郎が知れば悲鳴を上げて逃げ出すような凄まじい復讐心を煮えたぎらせていたのでした。
「で、与太。どうすれば病は治るんだい。薬は持って来てくれたのかい」
診察も大事ですが治療は更に重要です。病名が分かっても治らないのであれば何の意味もありません。
「う~んとね、江戸煩いを治すのに薬は要らないんだよ。原因は白米なんだ。これからは国許に居る時と同じく、玄米とか麦飯とかを食べていれば自然に治るはずだよ」
「なんだ、そんな事でいいのかい」
これには才姫も驚いているようです。恵姫や左右衛門、当事者の殿様も俄かには信じられないという顔です。当然、恵姫から突っ込みが入ります。
「お待ちください、与太郎様。白米は母上も食べているのですよ。ですが母上は病ではありません。お城に居る公方様も白米を食べておられます。でも病ではありません。白米が原因だなどと出鱈目を申すでないわ、この痴れ者めが、であります」
丁寧な言葉で長い台詞を喋ったので、最後に噛んでしまった恵姫です。
「それは白米以外にも色々食べているからだよ。同じ物を沢山食べるより、多くの種類を食べたほうが体に良いってのは想像付くでしょ。例えば玉子は栄養があるけど、それしか食べなかったら体がおかしくなっちゃう、それと同じだよ。白米は体にとって必要不可欠な部分を捨てちゃってるんだ。だから捨てた分を他の食べ物で補えるなら、白米を食べても病にはならないんだよ」
与太郎の言葉にはそれなりに説得力がありました。なにより江戸煩いの診断方法さえ知っているのです。その原因も治療法も知っていて当然のはず。となればこれ以上異議を唱えても意味がありません。
「うむ、よく分かったぞ。与太郎殿。さっそく今日よりそなたの言葉に従い、白米は口にせぬ事と致そう」
殿様は与太郎の言葉を完全に信じたわけではありませんでした。しかし国許と江戸の食生活で一番違うのは白米を毎日食べるか否かだけです。ここは試しに白米絶ちをしてみるのも悪くないと考えたのでした。
明るい表情の殿様に対して、左右衛門の方は少々元気がありません。
「殿に玄米でございますか。比寿家の体面を考えますと、なかなか辛いものがありますな。他の大名は皆白米を食べておりますから」
「お殿様が何を食べているかなんて、言わなければ誰にも分からないでしょ。気にする事ないんじゃないかな」
「いやいや、米は出入りの商人から買っておるのです。人の口に戸は立てられぬもの。現に我らも商人からは様々な話を聞かされておるのです。白米を買わなくなればその噂は大名中に知れ渡りましょう。窮乏極まりとうとう白米を買う銭さえなくなったと。ただでさえ弱小だの貧乏だの旗本以下だのと噂されている比寿家。これ以上名を貶めるような真似は……」
だったら白米を買うだけ買って、殿様に食べさせなければいいんじゃないかなと言おうとした与太郎でしたが、さすがにそんな無駄遣いをする余裕はないはずです。殿様を差し置いて家臣が食べるわけにもいきません。
「そうだ」
急に布袋の中を漁り出す与太郎。取り出したのは茶色い粉が入った透明な袋でした。
「念のためにこれを持って来たんだ。小麦胚芽って言ってね、江戸煩いにはよく効く食べ物なんだって。しばらくはこれを白米や料理に混ぜて食べてみたらどうかな。その間に、江戸煩いの原因は白米を多く食べる事にあるって噂を広めるんだよ。そうすれば比寿家が白米を買わなくなっても、誰も馬鹿にしたりしないでしょ」
「どれどれ、貸してくださりませ」
音もなく与太郎の背後に忍び寄っていた恵姫が、返事を待たずに袋を奪い取りました。
「あ、めぐ様、何を」
「ぺろぺろ。まあ、ほんのりと甘くて上品なお味ですこと。これならば父上もお喜びになりますわ」
恵姫は勝手に袋を開けて指を突っ込み、中の粉を舐めています。いくら言葉遣いが丁寧でも、ここまでお行儀が悪くては猫を被っている意味がありません。
「恵、それは与太郎殿が用立ててくれた薬。軽々しく扱っては罰が当たる。左右衛門に渡しなさい」
「はい、父上」
恵姫は名残惜しそうにもう一舐めすると、袋を左右衛門に渡しました。
「白米の多食を慎む、この言葉、肝に銘じておこう。与太郎殿、そなたの心遣いに改めて礼を申す。ご苦労であったな」
ようやく自分の苦労が報われて嬉しさ倍増の与太郎。殿様からの感謝の言葉に「てへへ、それほどでも」と照れ笑いすると、釣られて殿様も左右衛門も笑顔になりました。
「少し疲れた。悪いが休ませてもらうぞ」
殿様はそう言うと目を閉じました。左右衛門が夜着を掛け直し、それから丁寧に頭を下げると、中奥の座敷を静かに出ていく四人ではありました。




