霞始靆その五 お福卒倒
縁側に立って小槌を振り上げたまま、何かを探しているような仕草をする黒姫。さきほどからずっとこの状態が続いています。
「……居ない」
小さなつぶやきが聞こえてきました。どうやら呼べる生き物が見つからないようです。これは無理な注文であったかと、恵姫の中に微かな後悔が生まれました。止めさせようか、このまま続けさせようか、恵姫は迷い始めました。
「……居ない、こっちも……こっちも……あっ!」
どうやら何か見つけたようです。黒姫の視線が一点に固定されました。待った甲斐があったと恵姫が膝を叩きます。
「おお、見つけたか。さすがは黒じゃ」
「小さくて、よく、分からないけど……いいや」
髪の先端の発光がひときわ強くなると、黒姫は小槌を振り下ろしました。
「召す!」
言い終わるや、黒姫の足元に小さく茶色く丸っこいものが現れました。
「なんじゃ?」
恵姫がその正体を見究める前に、それは大きく跳ね上がると、お福の顔にしがみつきました。
「……あ……」
呻きともため息ともわからぬ声を発しながら、縁側に座っていたお福の上半身が後ろにゆっくりと倒れました。慌てて背中を支える恵姫。茶色いものはまだお福の顔にへばり付いています。
「お、おい、お福の顔にくっ付いている、これは……」
言い淀む恵姫の代わりに黒姫が答えました。
「ごめーん、野鼠を呼んじゃったみたい。失敗、失敗。てへっ」
「てへっではないぞ。よりにもよってお福の大嫌いな動物を呼ぶとは」
お福は真っ青な顔をして気を失っています。余程驚いたのでしょう。無理もありません。部屋に居るだけで入れなくなるほど嫌いな動物が、いきなり顔にへばり付いたのですから。
恵姫は、何の前触れもなく顔に五器齧をへばり付けられた自分を想像してみようとしました。が、余りに恐ろしくて考えることすらできませんでした。
「おい、お福、しっかりするのじゃ」
お福の顔から野鼠を引き離し、頬をぺしぺし叩いてもお福は目を覚ましません。一方、黒姫は野鼠とお話をしています。
「野鼠さん、わざわざお呼び立てして申し訳ありません。速やかにお帰り下さい」
黒姫は呼んだばかりの野鼠にご褒美の米粒を与えると、中庭に放しました。こんな時でもお福より鼠が可愛いと見えます。
「お福が目を覚まさぬ。黒、手を貸してくれ。座敷にお福を運ぶぞ」
恵姫と黒姫はお福の体を持ち上げると、そっと座敷に運びました。箪笥から自分の打掛を取り出し、お福に掛けてやる恵姫。黒姫が心配そうにお福を覗き込んでいます。
「どうしよう、磯島様を呼んだ方がいいのかな」
「磯島に知られると厄介じゃ。単に驚いただけで、怪我などもしておらぬ様子じゃし、このまま眠らせておけばそのうち気付くであろう」
「そうならいいけど……」
せっかくお福を喜ばせようとしたのに完全に裏目に出てしまいました。さすがの二人も口数が少なくなります。
「わらわたちが沈んでいても始まらぬ。どれ、茶でも飲むか、っと、もう湯がないか。女中に頼むわけにもいかぬし、火鉢で沸かすか」
恵姫は、磯島が置いて行った土瓶に水差しの水を入れると、火鉢の五徳に乗せました。赤くなった炭を無言で眺めながら、湯が沸くのを待つ二人。やがてチンチンと音がし出すと、急須に入れて四番煎じのお茶を味わう二人。まるでお通夜の様に黙りこくっている二人。重い口を先に開けたのは恵姫でした。
「珍しいのう、黒があのような失態をするとは」
「うん。気付いていると思うけど、最近、力が弱っているの。だから見極めが出来ないまま呼んじゃった」
「力の減衰か。わらわもじゃよ。そしてそれはわらわたちだけではない。恐らく他の姫たちも同じなのじゃ。左義長で宮司がそう申しておった」
「そう、宮司様に会われたのね」
黒姫は少し気が楽になったのか、出がらしのお茶を飲み干すと話を始めました。
「めぐちゃんは滅多に力を使わないから分からないかもしれないけど、あたしは毎日使っているからよく分かるの。昨年の初めからずっと気が付いていた。あたしの力も、作物も、鳥も獣も、まるで息を合わせるかのように同じように弱くなっていく。最初は気にも留めなかった。力が強くなったり弱くなったりすることなんて、これまでに何度もあった。だから、いつか元通りになると思っていた。でも今回は違っていた。少しずつ、でも着実に、全てが弱くなっていく。そしてそれは今でも続いている。今日、登城の父に付いて来たのは、めぐちゃんと一緒に話し合いたかったから。めぐちゃんがどう思っているか聞きたかったから」
黒姫は湯呑をしっかり握りしめていました。何か得体のしれないものに怯えているようにも見えました。恵姫は手を伸ばすと黒姫の両手を包み込みました。
「黒、そう深刻に考えることもなかろう。力など、さして大事な物ではない。無くなるなら無くなればよい。姫ではなくただのおなごになればよい。その程度の物じゃ。そんなことで気を揉んでも仕方なかろう」
「めぐちゃん、前向きだね。めぐちゃんから力が無くなったら、ただの粗暴で行儀の悪い娘になっちゃうだけなのに」
「な、なにを戯けたことを。わらわの釣りの腕前を知らぬのか。力が無くなったとて、わらわは立派な漁師として生きていけるぞ」
「漁師じゃなくて海女さんでしょ?」
「もちろん海女としても立派に生きていける。わらわだけではない、黒とてそうじゃ。力が無くなったとて、米を作り、作物を作り、鳥や獣に愛されて生きていけるであろう。気にせずともよいではないか」
「めぐちゃん……」
黒姫はうんうんと頷きました。恵姫の元に来て、恵姫と話をして、本当に良かったと思いました。
「ありがとうね、めぐちゃん。あたし元気が出てきたよ。よし今年は頑張ってたくさんお米を作るよ。そして正月にはお腹いっぱいお餅を食べるんだ」
笑顔が戻った黒姫を見て、恵姫も嬉しくなりました。やはり黒姫は明るくなくてはいかん、と改めて思うのでした。
「それにね、めぐちゃん。さっき力が弱くなるばかりだって言ったけど、一度だけ力が盛り返した時があったんだ」
「ほう、それはいつのことじゃ。新年が明けてからか」
「う~ん、確か七草粥を食べた次の日か、次の次の日くらいかな」
「七草粥……それは七草の中に変な草が混じっていたとか、そんなオチではないじゃろうな」
「やだ、違うよ」
「これ、黒、ここに居るのか。そろそろ帰りますよ」
庭に面する障子の向こうから男の人の声がしました。黒姫の父親のようです。
「表御殿でのお話が終わったみたい。あたしはこれで帰るね。お福ちゃんにはよ~く謝っておいて」
「うむ、気を付けて帰れよ」
黒姫は座敷を出ると玄関に向かって歩いて行きました。恵姫は障子を開けました。恰幅の良い男が縁側の向こうに立っています。
「恵姫様、ご無沙汰しております。本日は、娘のお相手をしていただきありがとうございます」
「うむ、わらわも久し振りに話が出来て楽しかったぞ。暇な時はいつでも来てくれ」
「はい。恵姫様も機会があれば拙宅にお寄りください。せめてもの御持て成しをさせていただきます」
「ほう、持て成しとな」
恵姫の顔が悪人のようになりました。変な事を考え始めたようです。
「おほん、それは美味い料理のことか」
「心尽くしの手料理なれば、恵姫様の御口に合いますかどうか」
「魚なども出るのかのう」
「捕れたて新鮮で活きの良い魚ならば、容易く手に入ります」
「わらわは刺身が好物であるぞ」
「お望みとあらば、毎日毎食ご用意させていただきます」
「行く。今日から行く。今すぐ行く。直ちに支度をするぞ。一緒に山を下りようぞ、そして」
「姫様!」
背後からお馴染みの声。振り向くまでもなく磯島でした。恵姫の背中に冷汗が流れました。
「い、磯島か。黒はもう帰るぞ。父が迎えに来たのでな」
「知っております。先ほど、帰り際の黒姫様に挨拶をされました」
恵姫にそう言い置いて、磯島は縁側に立ちました。
「すみませぬ、姫様のご招待はまた日を改めてお願いいたします。本日はこのままお帰り下さい」
「承知いたしました」
磯島の断固とした口調に素直に頭を下げる庄屋です。
「めぐちゃ~ん、帰るねえ。またお喋りしようねえ」
玄関から回って来た黒姫が手を振っています。庄屋はお辞儀をすると黒姫と連れ立って表門の方へ歩いて行きました。
「はあ~、楽しい午後であった。おや、お福のやつ、もう寝ておるのか。一体いつの間に眠ったのじゃ、ちっとも気が付かなんだぞ。どれ、わらわも疲れたし横になるとするか」
しらばっくれてお福の横に寝そべろうとする恵姫の襟を、磯島の右手がむんずと掴みました。
「何を白々しいことを言っておられるのです。黒姫様が帰られるのに、お福が帰ってこないのでおかしいと思って見に来ればこの有様。お福を気絶させるとは、一体何をしたのです」
「あ~、いや、そう興奮するものではないぞ、磯島。いや、まあ、たいしたことではないのじゃ、うむ……」
なんとか誤魔化そうとする恵姫でしたが、磯島の厳しい追及を逃れられるはずもありません。事の顛末を洗いざらい白状した恵姫は、罰として、その日の夕食を一汁一菜にされてしまいました。
「庄屋殿~! 早くわらわを持て成してくれ~!」
明日にでも庄屋の家へ行って、御馳走をたらふく食いたいと願う恵姫ではありました。




