土脉潤起その五 帰り道
「ああ、腹が減ったのう」
大八車の荷台でうつ伏せになっている恵姫は、情けない声を出しました。子供たち全員が餅を食い終わり、燃え上がっていた炎は何事もなく消え、左義長が無事終了すると、恵姫たち三人は宮司に別れの挨拶をして帰途に就いたのでした。
当然のことながら、帰りの大八車の荷台は空です。
「空の荷台では引き甲斐がなかろう」
と言って、恵姫が荷台に乗っかるのは、これまた当然のことでした。
「おい、お福、そなたも乗るが良いぞ」
と言っても、お福が遠慮して乗らないのは、やはり当然のことでした。こうして恵姫一人だけが大八車の荷物となって雁四郎に引かれていくことになったのです。
仮にも一国の姫様ともあろうものが、大八車の荷台に横になるという無作法を仕出かした場合、普段の雁四郎ならば、
『行儀が悪いですよ』とか、
『磯島様に言い付けますよ』とか、
『行きよりも帰りの方が重いとは、これはいかなることであろうか』などと言って恵姫の怒りを買い、
『わらわが城内の門松や正月飾りより重いわけがなかろうが。雁四郎のアホめが』
というキツイお叱りを賜ることになるのですが、今日は違っていました。大八車の荷物になっている姫は、お荷物などではなく、尊敬すべき立派な姫であらせられるとでも言わんばかりに、誇らしげな顔で大八車を引いているのです。
「おい、雁四郎、妙に足取りが軽いな。後ろから見ていてもお主の上機嫌がよく分かるぞ。お福と並んで歩けるのがそんなに嬉しいのか」
「え、あ、はい。それも確かに嬉しいのですが」
「他にもあるのか」
雁四郎は顔を後ろに回して、恵姫を見詰めました。
「姫様も大人になられましたな。雁四郎、感服いたしました」
「な、な、なんじゃと」
予想外の言葉に恵姫は思わず四つん這いになりました。大八車が大きく傾きます。
「恵姫様、いきなり動かないでください。大八車は釣り合いを取るのが難しいのですよ」
恵姫は元通りに腹ばいになると、雁四郎に言い返しました。
「雁四郎がおかしなことを言うからじゃ。大人になったとはどういうことじゃ」
「左義長の餅でございますよ。子供たちのために食べるのをやめられたのでしょう。私も恵姫様もまだ幼き頃、お爺爺様に連れられてあの神社の左義長を見に行ったことがあります。覚えておられますか」
「お、覚えてなどおるわけがなかろう」
「そして、今日と同じように餅を振る舞われたのです。恵姫様は私の餅を取り上げて食ってしまわれました。それでも飽き足らず、他の子供たちの餅も取り上げようとなされました。境内は逃げ回る子供たちの悲鳴と追いかける恵姫様の叫び声で、それこそ阿鼻叫喚の地獄へと変貌したのですよ。覚えておられますか」
「お、覚えてなどおるわけがなかろう」
と言った恵姫ですが、本当は覚えていました。あれは恵姫十大黒歴史のひとつとして、今でも心の底に沈殿している忌まわしい記憶でした。
「それが、どうですか。今日の姫様はあの時とはまるで別人です。子供たちのために自分の餅を差し出したのですからね。お福殿も目を丸くしておられましたよ」
「ば、馬鹿を言うでない。聞いておらなんだのか。わらわは少々太り気味で、磯島にも食うなと言われておったから、食わなんだだけじゃ。子供たちのためなどと、何を寝ぼけたことを言っておるのじゃ」
断固として否定する恵姫が面白くて雁四郎はクスリと笑いました。城への道中は暇でもあるしせっかくの機会なので、もう少し恵姫をからかう事にしました。
「先ほど、お福殿に、『磯島殿は本当にそうおっしゃったのですか』と尋ねたところ、首を横に振っていましたよ」
「お、お福、そなた……」
恵姫がお福を見ると首を縦に振っています。もちろん、これは雁四郎が今思いついた出鱈目。お福はそれに合わせているだけです。
「お福の見ておらぬ所で言われたのじゃ。お福は知らないだけじゃ」
「『恵姫様が餅を三個以上食べるようならお止めせよと、磯島様に言われませんでしたか』と尋ねたところ、首を縦に振っていましたよ」
お福を見ると、また首を縦に振っています。
「お、お福、そなた、そのような内密を磯島と交わしていたのか」
もちろんこれもお福が雁四郎に合わせているだけです。
「恵姫様、こんなことで意地を張らずともよいでしょう。素直に認めては如何ですか」
「ち、違うぞ。灰じゃ。食っても良かったのじゃが、灰が付いておったから食わなんだのじゃ。断じて子供たちのためなどではない」
「灰ですか。しかし昨年の冬、私の屋敷に遊びに来た時、焙っていたスルメが火鉢に落ちて灰だらけになっても、平気で食べていたではありませんか。たかが灰風情が恵姫様の食欲に打ち勝てるとは到底思えません」
「う、うぐぐ……」
反論の手駒が尽きた恵姫は大八車から飛び降りました。
「わらわは先に行く。雁四郎とお福は車を引いてゆっくり来るがよい」
そう言って、一人でスタスタと歩き出す恵姫。雁四郎とお福は顔を見合わせてクスリと笑いました。
二人から離れて威勢よく歩き出した恵姫ですが、その足取りは直ぐに鈍くなりました。腹が減り過ぎていたのです。朝は小豆粥を一杯だけ。更に普段は朝四つ頃に茶菓子を摘まんだりするのですが、今日はそれも無し。久しぶりの長時間外出で足は疲れ、息は切れ、胸の動悸は高まっています。
「ああ、もう駄目じゃ。もう歩けぬ」
結局、城へ続く山道の途中で力尽き、後からやって来た雁四郎たちに助けられ、そのまま大八車に乗せられて運ばれていく恵姫なのでした。
城門を入った所で雁四郎と別れ、女中部屋に通じる裏口でお福と別れると、恵姫は奥御殿の正面玄関に入り、式台の上に倒れ込みました。
「磯島、帰ったぞ」
大声をあげる恵姫。玄関に現れた磯島は、浜に打ち上げられたクラゲのようになっている恵姫を見て眉をひそめました。
「なんでございますか、姫様。それは客人用の玄関です。内玄関にお回りください。それにそのだらしない格好、しっかりなさいませ」
磯島の小言がまったく耳に入らない恵姫は、うわ言の様につぶやいています。
「ああ、疲れた。おい磯島、茶をくれ。すぐに飯にしてくれ、何か食わせてくれ」
磯島は恵姫をじっと見詰めていました。髪も着物も乱れ、草履も脱がずに玄関の式台に倒れ込んでいる恵姫。この疲れ切った姿、空腹に疲労困憊したこの姿……そして磯島はようやく悟りました。神社で恵姫が何をしたのか、何をしなかったのか、全てが分かったのです。
「姫様!」
磯島は恵姫に駆け寄るとその体をしっかりと抱きしめました。
「お、おい、磯島、どうしたのじゃ」
「よく決断なされました。よく辛抱なされました。餅を食わずに子供たちに差し上げたのでしょう。まさか、まさか、姫様が、このような……」
その後は言葉になりませんでした。無言で背中を震わせる磯島に抱かれながら、さすがの磯島もここまでは考えが及ばなかったのだな、と恵姫は思いました。
『明日のことでさえ分かる磯島にとってすら、今日のわらわの行動は想像できなかったのじゃ。だからこそ言葉が出ぬほどに嬉しいのじゃな』
恵姫は自分をここまで想ってくれる磯島に、改めて感謝しました。
「のう、磯島。湿っぽいではないか。春になって土が湿っぽくなっても、そなたまで湿ることはないのじゃぞ」
「そうでございますね」
磯島は立ち上がると廊下の奥に目をやりました。
「今の姫様には、もう仕置き部屋は必要ないかもしれませんね」
「そうじゃとも。これからあの部屋に入るのは与太郎だけじゃな。これからは与太郎部屋と呼ぶか、ははは」
「ほほほ」
恵姫と磯島は互いに顔を見合わせながら、声をあげて笑いました。




