蒙霧升降その二 与太郎激昂
叫び声が聞こえたと同時に隣の控えの間から物音が聞こえました。続いて戸の開く音、足音、呼び声。
「お福!」
毘沙姫の声です。お盆に入ってから毘沙姫は毎晩酒を呑んでいました。酒を呑んだ時の毘沙姫の寝相の悪さは折り紙付きです。そこで恵姫の眠る座敷ではなく、夜当番の女中が詰める控えの間で寝る事になっていたのです。
「そうじゃ、お福じゃ!」
恵姫も畳んでいた寝ゴザを放り出すと座敷を飛び出しました。小座敷から聞こえてきたのですから、お福の身に何かが起こったに違いありません。廊下を走りながら恵姫は先程まで見ていた夢を思い出しました。
「飛魚丸、まさかそなた、本当にお福を……」
恵姫は頭を振りました。あれはあくまでも夢の中の出来事、現実ではないのです。
「何が起こったのじゃ!」
葭戸が開いたままの小座敷に飛び込むと、目の前に毘沙姫、部屋の隅に磯島と大婆婆様、そしてお福の横には一人の男、パジャマ姿の与太郎が座り込んでいます。
「なんじゃ、与太郎か。驚かすでない」
叫び声を上げたのは与太郎だったのです。一安心の恵姫ですが、与太郎はそうではないようです。
「驚いたのはこっちだよ。お福さん、大変な事になっているじゃないか。これ麻疹でしょ。それもこんなに汗をかいて、苦しそうで……七夕の時から具合が悪いって言っていたのにまだ治ってない、ううん、前よりも悪くなっているじゃないか。めぐ様も磯島さんも何をしていたんだよ!」
与太郎は怒っています。それも仕方のない事でしょう。お福の病は八日前に来た時に分かっていたのです。それなのに悪化しているのですから、満足な治療を受けていなかったとしか考えられないのでしょう。
「与太郎、外に出ろ。ここではお福の体に障る」
毘沙姫は与太郎の腕を掴むと強引に小座敷の外へ連れ出しました。そのまま恵姫の座敷へ引きずって行きます。
恵姫はお福の布団の傍らに落ちている与太郎の布袋を拾い上げると、同じように小座敷を出て座敷に向かいました。
「説明してください。どういう事なんですか」
座敷に戻ると与太郎と毘沙姫が睨み合っています。病に苦しむお福の姿を見て相当頭に来てしまった様子です。
「どうもこうもない。お福は麻疹に罹った、それだけの事だ」
「風邪だって言っていたじゃないですか。麻疹だって分からなかったんですか」
「ああ、分からなかったのだ。発疹が出るまで数日かかるからな。おまえの世では麻疹だとすぐに分かるのか、与太郎」
「そ、それは……」
毘沙姫にそう尋ねられて自分が如何に無茶な物言いをしていたか、与太郎は気付きました。自分たちの時代でも発疹が出なければただの風邪だと判断するに決まっています。そんな事でこの時代の人々を責めるのは言い掛かりもいいところです。
「ごめん、少し言い過ぎたよ。考えてみればみんながお福さんを粗末に扱うはずがないもんね」
「おい、与太郎。今日は何を持って来たのじゃ。七夕の日には薬を持って来るとか申しておったが」
恵姫が布袋を覗いています。今日ばかりは食べ物ではなくお福の薬を期待しているようです。
「あ、そうだ。いつ来てもいいように毎晩布袋の紐を腕に巻いて寝ていたんだよ。持って来られてよかった。ちょっと貸して」
与太郎は布袋を受け取ると中身を確認し始めました。
「風邪薬は……やっぱり無理か。近代医学の塊みたいな代物だからなあ。あ、葛根湯は持って来られたみたいだ。あとは生姜湯と、保冷材は……ああもう全然冷たくないや……」
与太郎の独り言を聞いていた恵姫の顔には失望の色が漂い始めていました。葛根湯も生姜湯もこの時代にある物だからです。そしてそれらが麻疹にはほとんど効かない事も分かっているからです。
「与太郎、どうやら此度の献上品は役に立たぬ物ばかりのようじゃ。ご苦労であったな」
恵姫の慰めの言葉を聞くまでもなく与太郎自身もそれは分かっていました。そもそもただの風邪だと思って用意したものなのですから、役に立たなくて当然なのでした。
「与太郎、おまえの時代ではどのように麻疹を治しているのだ」
毘沙姫に尋ねられて、与太郎の表情はますます暗くなりました。言い難そうに答えます。
「僕らの時代でも麻疹みたいなウイルスを直接攻撃してやっつける薬はないんだよ。だから一旦罹ってしまうと命を落とす人も居る。ワクチンって言って罹らないようにする薬はあるけど、罹ってしまったら後は自分の力で治すしかないんだ」
「なんたることじゃ。三百年の時は経てもわらわたちは麻疹に打ち克つ工夫を知らぬと言うのか」
与太郎が来る事、それは恵姫たちにとって微かな希望だったのです。優秀な人物ではなくても三百年の知識を身につけている以上、麻疹に対しても何らかの治療法を知っているはずだと思っていたからです。
しかし、その希望は脆くも崩れ去りました。三百年の時を経ても麻疹で命を落とす者はなくならないのです。病というものが人間にとって如何に強大な相手であるか、恵姫は思い知らされたような気がしました。
「で、でも、お福さんは大丈夫だよね。だって、僕の時代にはお福さんの子孫であるふうちゃんが居るんだもん。お福さんが子供を作るまでは命を落とすようなことは……」
「そうとは限らぬぞ、与太郎」
毘沙姫が冷たい声で言いました。
「おまえは既に歴史を変えている。おまえが来なければお福は海へ行かなかった。そうすれば翌日乾神社で麻疹を感染される事もなかったのだ。本来なら起きるはずのない事が起きてしまった以上、お福がここで命を落としたとしてもおかしくはない。そしてその結果、お前の時代のおふうが居なくなったとしてもな」
「えっ、ちょ、ちょっと待って」
毘沙姫の言葉に与太郎の顔が青ざめました。与太郎自身考えてもみなかった事を言われたからです。
「じゃ、じゃあ、お福さんをこんな目に遭わせたのは僕が原因って事? 僕が過去に来て歴史を変えたために、お福さんは命を落とすかもしれなくて、そしてふうちゃんの存在自体が消……」
与太郎が畳の上に崩れ落ちました。両膝と両手をつき、がっくりと項垂れています。
「知っていたのに。漫画やアニメで歴史を変える話を見て、過去に行ったら余計な事をしちゃ駄目だって分かっていたはずなのに、僕は変えてしまったんだ。その結果、お福さんだけでなく大好きなふうちゃんまで……」
「与太郎も毘沙も、そんな話をするでない。お福は助かるかもしれぬのじゃぞ。軽々しく命を落とすなどと言うものではなかろう」
「ううん。この時代の麻疹は死病に等しい。今の将軍って五代目の綱吉さんなんでしょう。この人も麻疹で亡くなったって言われているんだ。この時代において最高の治療環境が整っていたはずの将軍様ですら助からなかった。お福さんなら尚更……」
綱吉公が麻疹で命を落とすなどという話は、さすがに俄かには信じられませんでした。だからと言って反論もできませんでした。たとえ将軍といえども成人してからお役三病に罹れば、死に至る可能性は非常に高いと思われたからです。そしてそれはお福にとっても同じなのでした。
「才姫様ですじゃ」
座敷の入り口から声が聞こえました。知らぬ間に大婆婆様がやって来てこちらを見ています。
「先日も申し上げたはず。才姫様におすがりするより他に手はありませぬじゃ」
「さい姫? 誰なの、めぐ様」
与太郎が顔を上げて尋ねました。訊かれた恵姫は黙ったままなので代わりに毘沙姫が答えます。
「与太郎にとっては初めて聞く名だな。正しくは弁才姫と言う。が、本人が才姫と呼ばれるのを好んでいるので我らは才姫と呼んでいる」
「ああ、弁才姫で才姫なんだね。それで才様はどんな姫なの?」
「医術の心得のある姫だ。数年前まで間渡矢の御典医の屋敷で暮らしていた」
「医術の姫!」
勢いよく立ち上がる与太郎。らんらんと輝く瞳の中には、大きな希望と燃えるような意気込みが渦巻いておりました。




