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元禄・マジカル・プリンセス  作者: 沢田和早
第三十九話 ふかききり まとう
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蒙霧升降その一 霧の中

 ひどく深い霧が立ち込めていました。腕を伸ばせば自分の手ですら見えなくなるほどの霧。ここがどこなのか見当も付きません。ただ、遠くから規則正しい波の音が聞こえてくるので、きっとどこかの浜なのでしょう。


 恵姫は霧の中、どちらへ進めばよいのか分からず立ち尽くしていました。自分の道を見失ってからもうだいぶ長い時が経ったような気がします。波の音のする方へ歩もうとすれば、いつの間にか音は後ろから聞こえ、そちらに進もうとすれば今度は右から聞こえ、そうしていつまで経ってもこの場所から動く事はできないのでした。


「姉上様!」


 声が掛かりました。懐かしい声、すっかり忘れていた声。自分を「姉上」と呼ぶ人物は一人しか居ません。


「おお、飛魚丸ではないか」


 霧の中から幼い男の子が走り寄ってきました。見覚えのあるくりくりした瞳と可愛らしい芥子坊の頭。両手で抱き締めてその顔をじっくり眺めれば膨れっ面をしています。


「こりゃ、久しぶりに会ったと言うのに、その顔は何じゃ。もっと嬉しそうにせぬか」

「久しぶりだから怒っているのでございます。姉上様は飛魚丸との約束をお忘れになっておられるのでしょう」


 そう言って高く掲げた飛魚丸の右手には釣り竿が握り締められていました。


「志麻の海で共に釣り糸を垂らそうと約束したではありませぬか。飛魚丸はすっかり待ちくたびれてしまいました。姉上様はいつも一人だけで糸を垂らし、飛魚丸の事は少しも構ってはくだされぬ。随分と寂しい想いを致しておりました」


 怒っていた顔に暗い陰が差し、しょんぼりとした目で恵姫を見上げる飛魚丸。恵姫は申し訳ない気持ちで一杯になりました。


「済まなかったのう、飛魚丸。そなたの事を忘れておった訳ではないのじゃ。日々の暮らしに追われてそこまで気が回らなかっただけじゃ。うむ、分かった。今日は思う存分釣りに付き合ってやろうぞ」


 恵姫の言葉に飛魚丸は嬉しそうな顔をしました。けれども首を横に振っています。


「いいえ、姉上様の手を煩わせるには及びませぬ。飛魚丸は一人で大丈夫でございます」


 飛魚丸は恵姫の手を離れると後ずさりを始めました。


「な、何を申しておるのじゃ。そなた一人で海釣りなど、できようはずもなかろう」

「はい。されど、共に海釣りをしていただける相手が見付かったのです」


 飛魚丸は左手で誰かの手を握っています。立ち込める霧の中、恵姫は目を凝らしてその人影を見詰め、やがてその正体が分かると驚きの声を上げました。


「お、お福……お福ではないか!」

「お福様はこれからずっと飛魚丸と共に居てくださると仰られました。毎日海釣りをしてくださると約束してくだされました。姉上様、これにてお別れでございます。さあ、お福様、参りましょう」


 飛魚丸とお福は恵姫に頭を下げると、向きを変えて歩き始めました。二人の後姿は霧の中へ消えて行きます。


「ま、待て、飛魚丸。お福を連れて行ってはならぬ。戻れ、戻るのじゃ」


 恵姫は駆け出しました。深い霧の中、二人を追って走ります。遠くから飛魚丸の楽しそうな声が聞こえます。お福の笑い声が聞こえます。


「お福、行ってはならぬ。飛魚丸から離れるのじゃ」


 もう二人の姿は見えません。声も遠ざかって行きます。どんなに走っても二人には追いつけず、どんなに叫んでも二人には届かないのです。それでも恵姫は走り続けました。叫び続けました。


「頼む、飛魚丸。お福を連れて行くのはやめてくれ、お願いじゃ。お福をわらわから引き離さんでくれ」


 

 ――姉上様、いつか志麻の海にて共に釣り糸を垂らしましょうぞ……



「お福! 飛魚丸!……はっ!」


 目を開けると座敷の天井が見えました。朝日が蚊帳の中を照らしています。恵姫は半身を起こしました。ひどく寝汗をかいています。


「夢じゃったか……」


 恵姫は額の汗を拭うと、ここ数日間の出来事を振り返りました。


 * * *


 お福が麻疹と分かったのは迎え火をする日の夕刻。結局、その夜は小座敷に戻ることもないまま、毘沙姫と二人で眠れぬ夜を過ごしたのでした。

 次の日も辛い一日でした。座敷に来る大婆婆様にお福の様子を聞いても、何も言わず首を横に振るだけです。恵姫も毘沙姫もそれ以上訊き出す気にはなれませんでした。


「本日も卵を持って参りました。お福様は元気になられましたか」


 土鳩の世話をしに来た鷹之丞には本当の事が言えませんでした。


「あ、ああ。おまえの卵酒が効いたようだ。礼を言うぞ」


 毘沙姫は言葉少なに感謝を述べると、有難く卵を受け取りました。


「なんと、お福の病は麻疹であったか」


 鯉に餌をやりに来た厳左には本当の病名を教えました。麻疹は恐ろしい流行り病なので秘密にしておくわけにはいかなかったのです。


「お福はこれまでに多くの者と接しておる。城の者に伝染したりはしておらぬじゃろうか」

「その点は心配なかろう。表も奥も、お役三病に罹った者だけを城勤めに選んでおる。姫様も毘沙姫様も黒姫様も雁四郎も、幼少の頃に麻疹に罹っておる。もしお福から伝染されたとしても軽微な症状で済むはずだ」


 お役三病とは疱瘡、麻疹、水痘です。幼い頃にこの三つの病を軽い症状で乗り切っておけば、以後はこの病に煩わされる事はなくなるため、お役三病を済ませれば一人前であるとみなされていたのです。


「ならば何故お福は今頃麻疹に罹ったのじゃ。お福もお役三病を済ませたからこそ、奥の女中として城に上がる事になったはずであろう」

「うむ……実はお福については素性が明らかではないのだ」


 厳左は言い難そうに話し始めました。お福を女中として推挙したのは伊瀬の神宮だったのです。とにかく間渡矢で預かってもらいたい。父親は不詳、母親は元巫女、それ以外の親族は不明。もし嫁ぎ先が見付かれば適当な家の養女にして嫁がせ、もし命尽きることあらば比寿家の墓に入れてやって欲しい。それだけがお福について分かっている事なのでした。


「本来なら身元のはっきりしない者を城に勤めさせることはない。だが、伊瀬の神宮の推挙とあらば断る事はできなかった。難色を示していた磯島殿もお福を一目見た途端納得してくれた。実際、お福は女中にしておくには惜しいほどの娘であるからな」


 お福の人柄の良さは城の者全員が認めるところでした。それだけに身寄りが一人も居らず、命に関わる大病を患っても呼び寄せる縁者が居ない身の上が一層哀れに思われました。


「滅多に城から出ぬお福が麻疹にかかるとはな。どこで感染うつされたと思われる」


 厳左の問いに毘沙姫が即答しました。


「恐らく乾神社だ。夏越の祓に来ていた多くの子らにお福はまとわりつかれていた。その中に麻疹を持つ者がいたのだろう。お福は前日海で遊んで相当弱っていたようだからな」

「なるほど。麻疹は流行ると厄介だ。念のため全ての村役のおさに知らせて注意を促すとしよう。御免」


 厳左は餌の袋を懐に仕舞うと城門の方へ歩いて行きました。盆休み中は表御殿にはほとんど人が居ません。屋敷に戻り雁四郎と手分けして各村を回るつもりなのでしょう。


「盆休みに入る前に気付いておればのう。済まぬな、厳左」


 恵姫は厳左の後姿に向かって深々と頭を下げました。そうしてその日はお福に会うことなく暮れて行ったのでした。


 * * *


「わらわにとっても城の者たちにとっても、辛い盆休みになってしまったのう」


 その後、厳左からは何の知らせもありません。病人が多数出ているという話もないので、麻疹が流行り出す心配もなさそうです。


 恵姫は座敷の隅にある箪笥から襦袢を取り出すと、寝汗で濡れてしまった襦袢を脱ぎました。いつもなら女中が着替えさせてくれるのですが、今は磯島と大婆婆様しか居ません。その二人もお福に付きっ切りです。盆休みが始まった時から、着替えは一人でしているのです。


「お福、早く良くなるといいのじゃが……」


 新しい襦袢と帷子を身に付け寝ゴザを畳み始めた恵姫。その時、


「うわー!」


 悲鳴にも似た叫び声が聞こえてきました。それも、お福の居る小座敷の方からです。思いもしなかった突然の出来事に恵姫の頭は真っ白になりました。自分はまだ眠っているのではないか、ここは夢の中なのではないか、そんな疑念すら抱いてしまう恵姫ではありました。


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