寒蝉鳴その五 本当の病
お福の回復を確認した恵姫と毘沙姫、その夜はぐっすりと眠る事ができました。翌朝、城下からやって来た大婆婆様が朝食の膳を運んできました。
「お初にお目に掛かる。毘沙姫と申す。お盆の間、よろしく頼む」
「はいはい、伺っておりますよ、怪力毘沙姫様」
手や顔に刻まれた皺はこれまでの長い人生と老いを感じさせるものでしたが、立ち居振る舞いや言葉遣いはまだまだしっかりとしています。恵姫は箸を進めながらお福について尋ねました。
「朝早くから済まぬのう。大婆婆様。してお福はどうなっておる」
「昨晩は磯島様が看ていらしたようですじゃ。今日からはこの婆婆もお世話する事になりまする」
「そうか、飯を食ったらわらわたちも話をしに行こうかのう」
「いえいえ、治り掛けが一番大事ゆえ、少なくとも盆が明けるまでは小座敷に立ち入らぬようにと磯島様は申しておりましたじゃ」
お福には会わぬ方が良いと聞かされて顔が曇る恵姫。しかしそれはまた当然でもありました。そもそもここまでお福の病が長引いたのは、少し良くなったからと言ってお役目を始めてこじらせてしまい、少し休んで良くなったからまたお役目を始めてこじらせる、これを繰り返していたためです。ここは誰にも会わせず完治するまで寝かせた方が良い、磯島はそう判断したのです。
「良くなれば毎日会えるのだ。恵、数日くらい辛抱しろ。果報は寝て待て、だ」
どうやら毘沙姫は寝て待つのが大好きのようです。恵姫も磯島の意図が分かったので、盆休みはいつも通り座敷でゴロゴロして過ごすことにしました。
大婆婆様が膳を持って座敷を出て行くと蝉の声が聞こえてきました。法師蝉です。恵姫は感慨深げにその鳴き声に耳を傾けます。
「不思議じゃのう。今まで『つくづく美味しい』としか聞こえなんだのに、今朝は『つくづく恋しい』と聞こえる。人の耳とはいい加減なものじゃな」
そう言われて耳を澄ませば確かに『つくづく恋しい』と聞こえてきます。毘沙姫は苦笑いしました。
「どうやら恵は人を化かす才があるようだな。昨日から化かされてばかりだ」
「化かす? 化かしてなどおらぬぞ」
毘沙姫の言葉の意味が分からない恵姫はむっとした表情をしています。毘沙姫は笑ったままそれ以上は何も言いませんでした。
今日からお盆。夕方になれば故人の精霊を迎えるために表玄関に焙烙を置いて苧殻を燃やします。迎え火です。それ以外は特にする事もありません。
それでも縁側に出たり、中庭に下りたり、鯉に餌をやりに来る厳左や雁四郎と話をしたり、土鳩の世話をしに来る鷹之丞をからかったりと、さほど退屈することもなく一日は過ぎて行きます。
お茶や食事を運んで来る大婆婆様には、座敷に来るたびにお福について尋ねるのですが、返事はいつも同じ「盆明けまでは安静に」です。話をせずとも少し見るくらいはどうかと言っても、「磯島様の命により小座敷への立ち入り禁止」と言い張ります。
「まあ、磯島もこれまでの事があるからな。誰にも邪魔されず今度こそお福を完治させようと気合いが入っているのだろう」
毘沙姫は相変わらずこんな調子です。
何もせずとも一日は暮れて行きます。日は西に傾き、空が橙色に染まり始め、そろそろ迎え火の準備でもしようかと思った頃、縁側で何やらがさつく音がします。恵姫が座敷の外に出てみると一羽の大きな雀が居ました。
「なんじゃ、飛入助ではないか。どうしたのじゃ」
飛入助は口に丸い物を咥えています。恵姫が声を掛けると、それを縁側に落としました。手に取ると夏茱萸です。
「チュン、チュン」
「ほほう、お福の見舞いに来てくれたのか。この茱萸は手土産じゃな。可愛い所もあるではないか。それにしてもピーピーではなくチュンチュンと鳴くとは珍しいのう」
「チュンチュン、だと……」
突然聞こえた背後からの声に、驚いて振り向く恵姫。そこには毘沙姫が、ひどく暗い顔をした毘沙姫が立っていました。
「ど、どうしたのじゃ、毘沙。飛入助が見舞いに来ただけじゃぞ。それともお福が退屈を紛らわせるために呼んだのかのう」
「チュンチュン」
毘沙姫の顔が強張っています。親の仇を見るような目付きで飛入助を睨んでいます。
「お福が呼んだのではない。飛入助が己の意志でやって来たのだ。神器となった生き物は主に危機が迫ると、自発的に主の元へやって来る、そう聞いている」
「な、何を言っているのじゃ、毘沙。お福に危機など迫ってはおらぬじゃろう」
「飛入助が他の雀と違うのは大きさもさる事ながらその鳴き方だ。それなのに、今は他の雀と同じように鳴いている。お福の力が弱っている証拠だ」
「そ、そのようなこと……」
恵姫の手から夏茱萸が落ちました。毘沙姫の言葉の意味を恵姫は理解できませんでした、いや、理解したくありませんでした。
「嫌な予感がする、行くぞ」
そう言うや座敷を飛び出す毘沙姫。恵姫も後を追います。廊下を駆け抜け小座敷の前に着くと、問答無用で葭戸を開けました。
「お福!」
「これ、立ち入ってはならぬと申したはず!」
中に居た磯島の言葉は耳に入りませんでした。二人が見たのは汗を流して苦しむお福の姿、その顔には赤い発疹がいくつもできています。
「こ、これは赤斑瘡……」
「二人とも外へ出られませ!」
立ち上がった磯島は二人を無理やり小座敷から押し出します。その磯島の袖を握り締めて恵姫は叫ぶように言いました。
「どういう事じゃ、磯島。お福は治り掛けではなかったのか。医者はただの夏風邪じゃと申していたではないか。昨日はあんなに元気じゃったのに、どうしてこんな事になったのじゃ」
「重い病の時にはよくある事でございます。芯が尽きて暗くなった蝋燭も、消える前に明るく輝く時がございましょう。麻疹……これがお福の本当の病。患ってから十日程経たねば発疹は出ないと言われております。御典医様が気付けなかったのも致し方のない事です」
「な、ならば、もう一度医者を呼んでくれ! 薬を飲ませてやってくれ! このままではお福は……」
「落ち着け、恵」
恵姫の両肩に毘沙姫が手を置きました。麻疹に効く薬がない事も、医者を呼んでも仕方のない事も、誰もが知っている事なのです。後はお福の力だけで病と闘うしかないのです。
「毘沙よ、これが落ち着いていられるか。わらわたちに何かしてやれる事はないのか」
恵姫にそう問われても、返す言葉もなく押し黙ったままの毘沙姫と磯島。その沈黙を破るように低く重い声が響きました、
「才姫様のお力を借りるのじゃ!」
そう言ったのは大婆婆様です。いつの間にか小座敷の前に来ていた大婆婆様は、老いてなお鋭い眼光で三人を見詰めています。
「数年前に間渡矢を去ったとは申せ、いまだ青峰山に住んでおられるのは我らを忘れてはおらぬ証拠。才姫様におすがりするより他に手はありませぬじゃ」
大婆婆様の言葉を受けて毘沙姫が頷きます。
「ふむ、才か。確かにあいつならお福を助けられるかもしれぬな」
「さりとて才姫様は……」
磯島が言い淀みました。才姫の名を聞いて体を小刻みに震わせ始めた恵姫を見て、それ以上の言葉が出せなかったのです。
「い、今更、才などにすがる事ができようか」
恵姫は両拳を握りしめていました。駄々をこねる幼子のように口をへの字に曲げています。
「だが、恵。才ならば今のお福を……」
「毘沙は忘れたのか!」
それ以上は聞きたくないと言わんばかりに大声を出す恵姫。押し黙った毘沙姫に向かって更に言葉を続けます。
「才は、母上の……わらわの母上の命を奪ったのじゃぞ!」
夕闇が奥御殿の廊下を包み始めていました。遠くから聞こえてくるのは蜩の鳴き声。哀愁を帯びたその鳴き声に、忘れていた昔日の悲しみが胸の内に広がり始める恵姫ではありました。




