寒蝉鳴その四 お見舞い
葭戸の向こうから誰かの声が聞こえてきます。はっとして目を開ける恵姫。眠れないと思っていたのに、いつの間にか眠ってしまっていたようです。
「恵姫様、入ってよろしいですか、恵姫様」
小柄女中の声です。「構わぬ、入れ」と答えると葭戸が開きました。盆の上に土瓶と湯呑。昼八つのお茶です。
「もう八つ時か。時太鼓の音にも気付かず寝ておったのう」
「おっ、食い物か」
寝起きの悪い毘沙姫ですが、食べ物が寄って来ると自発的に目が覚めるようです。まだ湯呑に茶を注いでもいないのに茶請けを食べ始めました。
「お福の具合はどうじゃ。何か聞いておるか」
「はい。先ほど磯島様から粥を作るよう言われました。目を覚ましたお福に食べさせるようです」
小柄女中の返事を聞いて恵姫の顔が明るくなりました。
「そうか、それは良かった。うむうむ、やはり具合の悪い時は眠るに限るのう」
「果報は寝て待て、だ。言った通りだろう」
どうやら本当に取り越し苦労だったようです。ずっと重かった心もすっかり軽くなりました。恵姫も茶請けに手を伸ばすと、毘沙姫同様一口で頬張ります。
「もぐもぐ、茶を飲み終わったらお福を見舞ってやるかのう。小座敷は風の通りが悪いゆえ、与太郎の扇風機でも持って行ってやるとしよう」
先日、鷹之丞と亀之助の協力の元、与太郎に無理やり作らせた扇風機は、修理を済ませた後、ほとんど使われる事なく納戸の中に放り込んだままになっています。
人に回して風を起こしてもらう分には気持ち良いのですが、自分で回して風を起こしても、さほど涼しくはならないからです。労力の割に起きる風が弱すぎるのでした。
「おう、あれは面白いな。私が回してやるぞ」
「毘沙は触るでない。また壊すつもりか」
昼前の暗い雰囲気が嘘のように陽気な二人です。そんな光景を眺めながら小柄女中は改まった声で言いました。
「それでは恵姫様、毘沙姫様。八つ時のお役目を終えましたら、私はお盆休みを取らせていただきます。病のお福を置いて実家に帰るのは心苦しいのですが……」
端座して頭を下げる小柄女中。お福と共に女中のお役目をこなしてきたのですから、お福を思う気持ちは恵姫と同じくらい強いのでしょう。そんな小柄女中の気遣いが、恵姫には本当に嬉しく感じられました。
「気に掛ける事はないぞ。今年の正月、そなたは城に留まってお役目に励んでくれた。この盆休みは里でゆっくり羽を伸ばすが良い。案ずることはない。そなたが帰って来る頃にはお福も元気になっておるはずじゃ」
「ありがとうございます。それでは失礼致します」
小柄女中は深々と頭を下げて座敷を出て行きました。
「お福も皆に愛されておるのう。わらわと同じくらい人望があるのではないかな」
恵以上だろうと言い掛けた毘沙姫でしたがやめました。いくら本当の事でも領主の娘としての威厳を傷つけては失礼だと思ったからです。
「姫様、おられるか」
今度は縁側から厳左の声が聞こえてきました。座敷から出て葦簀の間から覗くと、厳左と鷹之丞が立っています。
「なんじゃ二人して。そろそろ下城ではないのか」
「お福様が御病気と聞き、急ぎ駆けつけたのでございます。土鳩の件では一方ならぬご尽力をいただきましたので」
鷹之丞が答えました。どうやら今日は非番だったようです。
「拙者の屋敷では土鳩の他に鶏も飼っております。昨日、今日と卵を産みましたので持って参りました。風邪には卵酒が効くとご家老様から仰せつかり、僅か二個ではございますが……」
「卵酒なら任せろ!」
さっきまで座敷で茶を飲んでいた毘沙姫がいつの間にか縁側にやって来ていました。
「あれは効くぞ。間違いなく効く。料理下手で名高い私だが、卵酒だけは自信がある。貸せ。今すぐ作ってやる」
毘沙姫はひったくるように卵を鷲掴みにすると、足早に座敷を出て行きました。どうやら自分も飲もうと企んでいる様子です。慌ただしく去って行った毘沙姫に呆れつつ、恵姫は二人に頭を下げました。
「鷹之丞、厳左、温かい気遣い感謝致す。お福に代わって礼を申す」
珍しく殊勝な恵姫の謝礼の言葉に、かえって恐縮する厳左です。
「礼を申すのはこちらの方だ、姫様。島羽の一件にしても此度の土鳩にしても、本来のお役目以外の仕事を押し付けてしまった。お福は文句ひとつ言わずに励んでくれたが、さぞかし辛い事であったろう。この厳左も責任を感じておるのだ。卵二つで許してもらおうとは図々しいが、他に良い手立てもないのでな」
「そうか。お福には伝えておくぞ。二人とも良き盆を過ごせよ」
「はい。されど土鳩の世話のため拙者は毎日登城致します」
「わしも鯉の餌遣りがあるゆえ、ここには毎朝顔を出す。お福の様子を教えてくれ。今度は雁四郎も連れて来るつもりだ」
厳左はともかく雁四郎ならいつでも歓迎です。それに鷹之丞が毎日来るのなら少しは気が紛れるでしょう。これならば盆休みもさほど退屈せずに過ごせそうです。
「お福、やはり皆に愛されておるのう」
遠ざかる厳左と鷹之丞の後姿を眺めながら、改めてつぶやく恵姫でした。
座敷に一人になった恵姫はさっそく納戸から与太郎の扇風機を持ち出しました。ついでに物入れから鯛車や鯛模様の手拭いなども引っ張り出してきました。それらを抱えて座敷を出て、お福の寝ている小座敷に向かいます。
「お福、入るぞ」
手が塞がっているので葭戸を足で開ける恵姫。相変わらずの行儀の悪さです。中に居た磯島の眉間に皺が寄りましたが、お福に遠慮して黙っています。
「おお、すっかり元気になっておるではないか」
喜びの声を上げる恵姫。お福は敷布団の上で半身を起こしていました。傍らの盆の上には空になった土鍋と湯呑が置かれています。食事もきちんと取れているようです。恵姫は敷布団の横に扇風機を置くと取っ手を回し始めました。
「どうじゃ、涼しかろう。三百年の後の世の扇風機という物でな、先日与太郎に作らせたのじゃ。彼奴にしては上出来の代物じゃな」
勢いよく回る三本の団扇の風を受けてお福は手で顔を覆っています。すかさず磯島から注意です。
「おやめください、姫様。そのような風は体によくありません。お福も迷惑がっていますでしょう」
「そ、そうか、済まん済まん」
恵姫は扇風機から手を離すと、今度は鯛車を転がし始めました。
「これはお福も好きじゃったろう。ピコピコ動く鯛の尾が可愛らしくてたまらんのう。もう長い事これで遊んでおらなんだゆえ、寂しかったのではないか。今日は存分に楽しむが良いぞ」
これはお福も喜んでいます。そうこうする内に毘沙姫が入って来ました。
「卵酒、できたぞ」
盆を持っているので恵姫と同じく足で葭戸を開けて入って来ました。磯島の眉間の皺が更に深くなりましたが、やはり黙っています。
「おう、湯呑が二つ。わらわの分もあるのか。気が利くな、毘沙」
「いや、一つは私のだ。恵の分は無い」
「な、なんじゃと」
お福と磯島をそっちのけにして言い合う二人。結局、ひとつを半分に分けて飲むことになりました。
「お福、お熱いから気を付けて飲むのじゃぞ」
ふーふーしながら卵酒を飲むお福はもう病人には見えませんでした。これなら大丈夫。恵姫も毘沙姫も磯島も一安心です。
「おお、そうじゃ、七夕の短冊に与太郎が何を書いたか教えてやろう。彼奴、お福の病が早く治るようにと書きおったのじゃ。さすが織姫彦星様、すぐに願いを叶えてくれたのう。お福、必ず良くなると信じておったぞ。わらわたちは夏越の祓で茅の輪をくぐったのじゃからな。病に負けるはずがないのじゃ。なあ、そうであろう、毘沙よ」
「あ、ああ、そうだな」
お福の回復が余程嬉しかったのでしょう、いつになく饒舌で陽気な恵姫に毘沙姫も少々面食らっているようです。そんな恵姫をいつも通りの冷めた目で眺めている磯島ではありました。




