涼風至その二 七夕素麺
一夜明けて本日は七月七日。五節供のひとつである七夕の節供です。式日なので間渡矢城内にいつものような賑やかさはありません。数人の警護の者と住み込みの女中が居るだけで、表も奥もひっそりとしています。恵姫も今日は朝も夕も釣りをせず、のんびり過ごすことにしていました。
「節供のひとつとは申せ、七夕は詰まらぬのう。遊びと言えば笹に短冊をぶら下げ、夜になればそれを流すだけ。御馳走と言っても野菜と麦を食うだけ。他に何もする事はない。退屈な一日じゃ」
朝食を済ませた恵姫はいつも通り座敷でゴロゴロしています。今日は朝釣りに行っていないのでさして眠くもありません。何か読もうにも絵草紙は全て磯島に取り上げられてしまっています。本当に手持無沙汰な恵姫です。
「縁側にでも出てみるか」
立ち上がって座敷の外に出る恵姫。葦簀の向こうに人影が見えます。池の端に立って何かを投げているその人物、これまたお馴染みの厳左です。恵姫は庭に下りて話し掛けました。
「式日と言うのに城に来るとはのう。一日くらい餌をやらずとも鯉は不平を言うまいに」
「鯉は不平を言わずとも、わしが不満に感じるのでな。これも年寄りの道楽、笑って見過ごされよ。それはさておき、亀之助の件、感謝致す」
昨日、恵姫から短冊を見せられた厳左の動きは迅速でした。直ちに亀之助を城に呼び寄せ、事の真偽を確認。目付けと吟味の後、亀之助の門番としてのお役目を解いて馬番見習いに降格。更に盆休みを与えず、今日より一月の間、連日役目に就かせるという沙汰を下したのです。
「わざわざ短冊に己の悪事を書くとはのう。相当な間抜けじゃな」
「磯島殿にそそのかされたと言っておった。己の体験と共に願いを書けばより叶えられやすい、などと言われたようだ」
そうまでして仕置きを与えたかったのですから、磯島は余程亀之助の所業に怒りを覚えていたのでしょう。少し気の毒な感じはしますが、自業自得なので仕方がありません。
「さて、餌やりも終わったし、わしは屋敷に戻る。今日は夜までゆったり過ごすつもりだ。姫様も七夕の夜を楽しまれよ」
厳左は空になった餌袋を懐に仕舞うと、城門の方へと歩き出しました。一人残った恵姫は仕方なくまた座敷に戻ります。
「やれやれ、楽しめと言われても楽しむ事など何もないぞ」
先ほどと同じくゴロゴロ寝転がるしかありません。五色の短冊も結局いつも通り黒鯛や赤鯛を書いて、昨日の内に笹竹にぶら下げてしまいました。
「黒か毘沙でも遊びに来ぬかのう。そうじゃ、与太郎はどうなっておるのじゃ。これまで節供には必ず姿を見せておった奴の事。今日もやって来るに違いない。来るなら来るでさっさと来ればよいものを」
と、恵姫が愚痴を言っていたまさにその時、
「あの、入ってもよろしいでしょうか」
噂をすれば影。葭戸の向こう側から声が掛かりました。恵姫は自分の勘の良さを自画自賛しつつ、いつも通りの不機嫌な声で返事をします。
「構わぬ、入れ」
葭戸が開くと与太郎が入ってきました。今日も一人で座敷に来たようです。初めの頃はかなり緊張していた与太郎も、今ではすっかり慣れてしまったようで、自分の部屋に帰って来たかのようなお気楽な顔をしています。
「えへへへ、また来ちゃった。今日は旧暦の七夕でしょう。絶対にほうき星が昇ると思って自分の部屋で待っていたんだよ。この時刻に来たのなら帰るのは夜になってからだから、天の川も楽しめそうだなあ」
まるで行楽気分です。与太郎の嬉しそうな顔を見ると訳もなく不機嫌になる恵姫。またも悪口を叩き始めます。
「何が楽しみだな~、じゃ。最近のお主は以前にも増して弛んでおる。こちらに来て遊んでばかりいるではないか。女中見習いはどうしたのじゃ。そんな事ではおふうと同じ大名家では働けぬぞ」
「女中見習い? 何の話?」
「今更何を申しておる。武士としての仕官を諦め、おふうが勤める大名家に女中として奉公する事にしたのであろう。そのためにおなごの装束を身に着け、名もお与太と改めたではないか」
「はあ?」
これは完全に恵姫の妄想なのですが、既に頭の中では現実のものになってしまっているようです。勿論、与太郎に恵姫の頭の中が分かるはずがないので、初めてこんな話を聞かされて、狐に鼻をつままれたような顔をしています。
「こっちの時代では、僕、そーゆー事になっているの?」
「そうじゃ。雁四郎も毘沙もこれ以上修行を付けてやれぬと残念がっておったぞ」
この一言は与太郎には大きな意味を持っていました。今でも剣の修行など真っ平御免だと思っていたからです。特にこの暑い時期に素振りなどやらされたら、熱中症で倒れるかもしれないと本気で心配していたのでした。
しかし恵姫の言葉通りに振る舞えば、そんな心配は無用になります。如何に頭の回転が遅い与太郎といえど、自分がどう行動すれば良いかすぐに理解できました。
「そ、そうそう、お与太。そうなんだよ。やっぱり僕らの時代でも家事って大切だからね。こちらでもお福さんに色々教えてもらうつもりだよ」
「ふっ、お主にお福など勿体無いわ。まずは水汲み薪割りから始めるのじゃな。それはそうと」
恵姫は与太郎の横に置いてある布袋を指差しました。どうやら今回も何か持って来たようです。ただ前回とは違ってひとつだけ、しかもたいして大きくはありません。
「言い付け通り献上品を持って来たようじゃな。ほれ、さっさと袋の中身を見せぬか」
恵姫に言われて思い出したように布袋を手に取る与太郎。表情から察するに今回はそれほど大したものではなさそうです。
「は、はい。まあ献上品って言えるほど立派な代物じゃないけど、せっかく持って来たんだから見せるね。昔は七夕の日には索餅とかいう麦のお菓子を食べるって本に書いてあったので」
「ふっ、いつの時代の本を読んでおるのじゃ。索餅など平安の貴族の頃の話じゃ。今は素麺を食っておる。まあ、せっかく持って来たのじゃ、索餅でも構わぬ。早う食わせろ」
「えっ、そうなんだ。良かった~」
与太郎は安心顔で袋から木箱を取り出しました。一辺が一尺ほどの大きさで二箱あります。
「良かった~、とは如何なる意味じゃ。何が良かったのじゃ」
「僕が持って来たのは索餅じゃなくて素麺なんだ。この時代の七夕は素麺を食べるんだね」
「ほう」
与太郎にしては気が利く献上品だと恵姫は思いました。うどんや蕎麦と違って素麺はかなり値が張るので、節供の食べ物とは言っても多くの量を用意できず、それこそ二口三口すすっておしまいになってしまう事が多かったのでした。
「ま、まあ、与太郎の持って来た素麺じゃ。どうせうどんを細くしたような粗悪品であろう」
「いいえ、違いますよ。姫様」
知らぬ間に磯島が葭戸の向こうに立っていました。そのまま座敷の中に入り、与太郎の持って来た木箱を開けます。中には言葉通り素麺の束がきっしりと詰まっています
「お、おお、こ、この素麺は……」
木箱の中を見て絶句する恵姫。うどんを細くしたなどとはとても言えない、極細の素麺の束が並んでいたからです。
「そうです。間違いなく三輪の素麺、しかも最高級と言われる神杉でございます」
素麺は細くなるほど高級品と見なされ値も高くなります。そして大和の国三輪は千年の歴史がある手延べ素麺発祥の地。恵姫たちの時代に入手でき得る最高の素麺が、今、目の前にあるのです。
「で、でかしたぞ、与太郎、じゅるじゅる」
途端によだれを垂らし始める恵姫。これは大変とばかりに慌てて木箱の蓋を閉める磯島ではありました。




