土潤溽暑その一 海遊び
Tシャツ姿の与太郎はせっせとイワムシを集めていました。間渡矢城の東の浜は、間もなく日も暮れようと言うのに、蒸し暑い空気に満ちています。今夜も日が落ちても気温が下がらず、寝苦しい夜になりそうです。
「昔は今よりも気温が低かった、なんて言われているけど、やっぱり今の時期は三百年前でも暑いなあ。ここへ来るとエアコンも扇風機もなしに半日我慢しないといけないから夏は辛いな。秋になって涼しくなるまで別の部屋で寝るようにして、こちらには余り来ないようにしようかな」
今回ばかりはこちらに来てしまった事を少し後悔している与太郎です。イワムシを取るためにガリガリしているだけで、顔も背中も汗ばんでくるくらい暑いからです。
起きている時は床柱のない部屋に居ればこちらに来ることは絶対にありません。しかし就寝するのは必ず自分の部屋、つまり床柱のある部屋なので、寝ている間にほうき星が昇ると否応なくこちらに飛ばされてしまいます。
今回も寝ている間に来てしまったのですが、夜ではなく昼、昼寝の最中に来てしまったのでした。女中部屋のお福の横で目が覚めた与太郎は、すぐさま座敷に駆けつけて恵姫に報告、直ちに夕釣りの供をするよう命令されるも、女中たちは既に働き始めて忙しいので、そのままの服装で付き従う事になりました。
「今日は変な時間に来ちゃったなあ。帰るまでまだ十時間はありそうだ」
空を見上げながら与太郎はつぶやきました。ほうき星はまだ東の空に昇って幾ばくも経っていません。沈むのは恐らく夜明け頃、与太郎が自分の時代に帰るのもその頃になるでしょう。
「朝帰りとなるとさすがに叱られそうだなあ。図書館の帰りにネカフェで夢中になっちゃったって事にするか」
いくら放任主義の与太郎の両親でも、無断外泊したとなると小言のひとつもありそうです。どう言い訳しようかと頭を悩ます与太郎です。
「こりゃ、家来の与太郎。空など眺めてぼさっとしているのではない。さっさと餌を集めぬか」
海辺から恵姫の怒鳴り声が聞こえてきました。前回浜に来た時は半現とお喋りをしていて餌を集めようとしなかったので、また怠けていると思われているようです。あの時のように何度も頭に拳骨を食らっては、たまったものではありません。出来の悪い脳みそがますます使い物にならなくなってしまいます。
「はい。すぐに集めます」
滲み出る額の汗を手で拭いながら、再び岩をガリガリする与太郎でありました。
こうして初めての夕釣りを終え、井戸で水を浴びて汗を流し、少し遅めの夕食を取ると、後はもう何もすることはありません。眠るだけです。与太郎はすっかり安心しきった顔で寝転んでいます。
「ふ~、夕食の後は元の時代に帰るまでゆっくりさせてもらおうかな~」
恵姫は不機嫌です。自分の座敷で我が物顔に寛いでいる与太郎の態度が気にくわないのです。梅干し集めの時には手伝ってくれた恩義もあって、縁側で昼寝をさせてやりましたが、今回は釣りの餌集めという家来としては当然の役目をこなしただけ、それでこんなでかい態度を取られては面白くありません。
「おい、与太郎、主がまだ茶を飲んでおるというのに、それを無視して寝っ転がる家来がどこにおる。きちんと座れ。そして面白い話でもしてわらわを楽しませよ」
「あ、はい。承知致しました、めぐ様」
恵姫の命令には従順な与太郎です。膝を揃えて座り直すと恵姫に向き合いました。
「そもそも与太郎よ、お主、また弛み始めておろう。初めの頃は月に一度ほどしかこちらに来なかったくせに、最近はどうじゃ、一月のうちに四回もこちらに来ておるではないか。仕官のために毎日道場へ通っていると申しておったが、このところの暑さで稽古が嫌になり、こちらへ怠けに来ているのではあるまいな」
恵姫の言う道場とは図書館の事です。受験のための勉強を図書館でしていると言った与太郎の言葉が、恵姫の中では仕官のための稽古を道場でしているという内容に変換されているのです。もっともこれについては訂正するのが面倒で、詳しく説明しなかった与太郎も悪いのですが。
「えっ、それは違うよ。だってこちらに来たってめぐ様にこき使われて全然怠けられないじゃないか」
「ならば、本日、こんな昼下がりにやって来たのは如何なる理由なのじゃ。昼寝中に来たと申しておったが、ここに来たのは申の刻の頃。お主、昼食を済ませた後、一刻半も昼寝をしておったのか。本日の道場の稽古はどうなったのじゃ」
「え、あ、それは……」
口籠る与太郎。恵姫の言葉通り、暑くなってから外出するのが億劫になり、最近は一日中自分の部屋で過ごす事が多くなっていたのです。自室に居ても受験勉強に勤しんでいれば問題はないのですが、与太郎にそんな勤勉さがある訳がありません。結局朝寝、昼寝、夕涼みと、雨の日は釣りに行かない恵姫と大差ない暮らしをしていたのでした。
「え~っと、それは暑さのせいだよ。図書館、じゃなくて道場に行くまでが凄く疲れるんだよ。疲れた体で受験勉強、じゃなくて稽古したところで身に付かないでしょ。だからこの時期は外に出ず自分の部屋で稽古しているんだ。磯島さんから聞いたよ。めぐ様は暑くなるとお稽古事を真面目にやろうとしなくなるから、お盆が明けるまではお休みする事になっているって。まあ、それと同じようなものさ」
「ぬぬ、磯島め。余計な事を喋りおって」
与太郎の怠慢を責めるつもりが、逆に自分のぐうたらを指摘されてしまいました。恵姫はお茶を飲み干すと湯呑を置いて、不機嫌な顔で言い付けます。
「この話はもうよい。それよりも与太郎、もっと楽しくなるような話をせよ」
「え~、楽しい話って言われてもなあ」
いつもの事ですがそんな気の利いた話を即興で考え付く優秀な頭を、与太郎が持っているはずがありません。いつもの様にぼや~とした顔のまま黙りこくるだけです。
「ああ、何と嘆かわしい家来じゃ。献上品も持たず手ぶらでやって来た上に、主を楽しませる芸事ひとつできぬとは。ならばこちらから話を振ってやろう。お主たちの世ではこの暑い夏にはどのような楽しみがあるのじゃ。日陰で寝てばかりおるのか」
「うん、それなら話せるよ。夏は子供たちにとっては一番楽しいんじゃないかな、学校、じゃなくて寺子屋が休みになるから、海や山や遊園地も人で一杯になるよ。僕は海が好きで、夏休みには千鳥ヶ浜まで自転車で行って、海水浴場で泳いだり、浜で遊んだりするんだ」
「ほう、海で遊ぶ、とな」
恵姫にとって水遊びと言えば川でするものでした。海でも泳ぐことはありますが、それはあくまで海に落ちてしまった時や、海女のように目的を持って潜る時だけで、海で遊ぶ、という考え自体がとても珍しく感じたのです。
「それはなかなか面白そうじゃのう」
「面白いよ。スイカ割りをしたり、ビーチバレーをしたり、浮き輪でプカプカ浮いたり。そうだ、今度、黒様やお福さんを誘って、みんなで浜へ遊びに行こうよ。僕が泳ぎ方を教えてあげる。これでも泳ぎは得意でクロール、平泳ぎ、バタフライ、背泳ぎ、全部できるんだ」
与太郎はいつになく自慢げな顔をしています。何をやっても駄目でうまくいかない与太郎にも、ひとつくらいは取り柄があるようです。
「ふむ、聞いているだけでは今一つ分かりにくいな。三百年後の海の遊び、少々興味が湧いてきたわい。では、家来の与太郎、次に来た時には黒たちを引き連れて浜へ行き、お主の世の海の遊びをわらわに披露致せ。そのための準備、怠るでないぞ」
「はい、承知致しました。あ、でも水着、海に入る時に着る装束とかはどうしよう」
「それならば滝行の時に着る行衣でよかろう。夏になると雁四郎を始めとする表の若衆たちが、避暑も兼ねて滝に打たれに行くのじゃ。それを貸してもらえばよい」
「了解。それじゃ水着はそちらで用意してね。わ~、次に来るのが楽しみだあ。この時代の海って凄く綺麗だからね。一度泳いでみたかったんだ」
与太郎は大はしゃぎです。無理もありません。これまで夏は欠かさず海で遊んできましたが、連れはいつでも男子だけ。女子と海で遊ぶなどという経験は一度もなかったのです。
『海で女の子と、それもお福さんみたいなカワイイ子と遊べるなんて夢みたいだ!』
湧き上がる喜びを押さえられない与太郎ではありました。




