桐始結花その四 飛魚丸
恵姫の横で口を開けたまま桐の木を見上げている与太郎。当たり前の事ですがすぐさま怒鳴り声が落ちてきます。
「こりゃ、何を怠けておるのじゃ。さっさと梅干しを取り入れぬか。昼までに終わらねば昼飯は抜きじゃからな」
「あ、は、はい!」
慌てて作業に戻る与太郎。最近はこの時代の食べ物の味が、少しずつ好きになっている与太郎です。一食たりとも食べ逃したくはないのです。
与太郎が梅干しを集め始めても、恵姫は座敷に戻らず桐の木を見上げています。そんな姿を見せられると、なんだか無性に声を掛けたくなってしまう与太郎。手を動かしながらそれとなく恵姫に話し掛けました。
「あの、めぐ様、お尋ねしたい事があるのですが」
「何じゃ、申してみよ」
「島羽の一件で知ったのですが、めぐ様は一度嫁がれ、嫁ぎ先でなにやらやらかし、一月ほどでまたこの城に戻ったそうですが」
恵姫の眉間に深い皺が寄りました。これは一番触れられたくない過去であり、と同時に、志麻の国の者ならば誰もが知っている過去でもありました。
「それが、どうかしたか」
隠したり怒ったりしても仕方がないので素直に受ける恵姫です。思ったより機嫌が悪くなっていないようなので、与太郎も安心して話を進めます。
「それで不思議に思ったのは、どうしてめぐ様をよその家へ嫁がせたのかって事なんです。だってめぐ様は一人娘でしょう。それが出て行ってしまったら比寿家を継ぐ者が居なくなってしまうじゃないですか」
「その事か」
恵姫は顔を伏せると手に持った桐の実を弄び始めました。言おうか言うまいか迷っているような姿に、これもまた恵姫にとっては楽しい思い出ではないのだろうなと、与太郎は感じました。
「お主には話してはおらなんだな。わらわには弟が居ったのじゃ。飛魚丸……愛らしく素直で賢い弟であった」
それから恵姫は弟、飛魚丸の話を与太郎に語って聞かせました。
* * *
江戸屋敷で男子が生まれたとの知らせが間渡矢城にもたらされた時、家臣もそして間渡矢の領民も大変な喜びようじゃった。
幼い頃のわらわの記憶など、今となってはほとんど残ってはおらぬが、それでもこの時の皆の喜びようは、それこそ盆と正月と黒鯛と赤鯛が波に乗って、間渡矢の浜に大量に打ち上げられたかのような大騒ぎじゃった。
わらわの母は側室、飛魚丸の母は正室。腹違いではあるが、わらわの弟に変わりはない。嬉しかったぞ。いつか江戸に行き、飛魚丸と一緒に江戸前で釣り糸を垂らしてみたいものじゃと、そればかりを楽しみにしておったのう。
飛魚丸が生まれて数年経った頃であろうか。わらわは初めて江戸へ旅立った。既にその時にはわらわの嫁ぎ先は決まっておったのじゃ。弱小大名である比寿家にとって、力のある武家と縁を結ぶ事は、お家存続のためにも欠かせぬ手段であるからのう。嫁ぐ前に義理の母上や飛魚丸への挨拶をするために、わざわざ江戸へ向かったのじゃ。
江戸屋敷で初めて対面した飛魚丸の姿は今でもはっきりと覚えておる。くりくりとした瞳と前髪を生やした芥子坊の可愛らしさに、弟ながら惚れ込んでしまいそうになったわい。
「姉上様、飛魚丸でございます。よくぞお越しくだされました」
たどたどしい口調で精一杯挨拶する姿もまた健気でのう。飛魚丸になら黒鯛の刺身を横取りされても、腹が立つような事はなかろうと思えたほどじゃ。
さすがに二人で海釣りに行く事は叶わなんだ。その代わり江戸屋敷滞在中は、間渡矢の城の暮らしや、青く広大な志麻の海について話を聞かせてやった。
「海とはさほどに大きいのでございますか。飛魚丸も志麻の海をこの目に見て、この手に触れてみたいものでございます」
わらわが語る浜辺や釣りや魚たちの話が、飛魚丸は特にお気に入りでのう。それこそ毎日聞かせてやったものじゃ。江戸にも海はあるが、まだ幼い飛魚丸は一歩も江戸屋敷の外には出たことはなかったのじゃな。
江戸に居たのは一月ほどじゃ。一年間の在府を終えた父と共に、わらわは志麻へ帰る事となった。嫁入りすれば飛魚丸と会う事もほとんどなくなるはず、悲しいと言えば悲しいが別れに涙は禁物じゃ。寂しさを堪えて別れの挨拶をすれば、飛魚丸もまた唇をぎゅっと噛み締め、
「姉上様、いつか志麻の海にて共に釣り糸を垂らしましょうぞ」
などと嬉しい事を申してくれる。わらわは「勿論じゃ。楽しみにしておるぞ」と答え、江戸を去った。
思えば比寿家がもっとも輝いていたのはあの頃であったろうな。それからは辛い出来事ばかりじゃった。飛魚丸の死、わらわの姫の力の覚醒、離縁、母上様の死。もし飛魚丸が生きていれば……いや、今更そんな事を語っても空しいだけじゃのう。
わらわの嫁入りの際、この桐の木を切り倒す事に反対したのは、嫁入りを祝うために間渡矢に来ていた布じゃった。今考えると恐るべき先見の明じゃ。伊瀬の姫衆随一の智者、布姫。わらわがいつか姫の力に目覚め、城に戻される事を予期していたのであろうな。
* * *
恵姫はそこまで話すとまた桐の木を見上げました。これまでの思い出は全てその木に詰まっているかのように、懐かしい目をして見ています。
与太郎は話の途中から梅干し取り入れの手を止め、恵姫の話に聞き入ってしまっていました。いつも明るく、不幸とは全く無縁に見える恵姫にこんな辛い過去があったとは、夢にも思わなかったのです。
「どうじゃ、わらわの嫁入りの理由、納得したか」
そうでした、話はそこから始まっていたのでした。与太郎は我に返ると大きく頷きました。
「はい、納得しました」
「ならば梅干しを集めぬか。昼までに終わらねば飯抜きであるぞ」
「は、はい、直ちに」
慌てて手を動かし始める与太郎。恵姫は木を見上げたまま立ち去ろうとはしません。梅干しを集めながらチラチラと横顔を盗み見ると、どことなく暗い影が漂っています。
『あの底抜けに陽気なめぐ様も少し気分が沈んでいるみたいだなあ。それこもこれも僕が余計な質問をしたせいだ。ここは家来として主を元気付けなくては』
これまた余計な忠誠心なのですが、それに気付いていない与太郎は手を動かしながら話し掛けました。
「でも、めぐ様、その嫁ぎ先の家の人って酷すぎるんじゃないですか。姫の力に目覚めたくらいで離縁なんて。横暴すぎると思いますよ」
与太郎の言葉を聞いた恵姫は鼻先で笑うと、軽い口調で答えました。
「相変わらず知ったかぶりが好きな奴じゃな。武家は姫を嫌っておる。その気になれば徳川の世をひっくり返せるほどの力を持っておるのじゃからな。それに大きな力を持った姫はしばらくの間斎主宮で暮らさねばならん。その暮らしが終わっても、召喚されれば直ちに斎主宮に赴かねばならん。故に、姫であるという事実だけで離縁する事は公儀も認めておる、と言うよりも推奨しておるのじゃ。分かったか」
「……そうなんだ。分かりました。変な事を訊いてごめんなさい」
与太郎は口を閉ざしました。もうこの件に口を差し挟むのはやめた方がいい、黙って梅干しを集めよう、そう心に決めて元の作業に戻りました。
「今日も海は青いのう」
恵姫は城の東に広がる志麻の海を眺めました。見たがっていた海、触れたがっていた海。波もなく穏やかな海は今日の青空の様に青く澄んでいます。
――姉上様、いつか志麻の海にて共に釣り糸を垂らしましょうぞ……
「ああ、釣りをしようぞ、飛魚丸。夢叶わなかったそなたの分まで、わらわは志麻の海に釣り糸を垂らす。今日も明日もこれから先もずっと、わらわと共に釣りを楽しもうぞ」
飛魚丸の最後の言葉に応えながら、どこまでも青く広がる志麻の海を見続ける恵姫ではありました。




