鷹乃学習その一 土用入り
昨日の雨はすっかり上がり、真っ青な空が広がっていました。今日は夏の土用入り。長く続いた間渡矢の梅雨もようやく明けたようです。朝食を終えたばかりの恵姫は今日も今日とて座敷の簟の上でゴロゴロしているのですが、いつもとは少しばかり様子が違います。
チリン、チリン……
縁側から聞こえてくる涼し気な音色、さやかに吹いてくる白南風。夏にしか味わえぬ清々しさを感じながら、恵姫は軒にぶら下がっている風鈴を眺めました。
「蔵に入った甲斐があったのう。実に良き掘り出し物を見付けたものじゃ」
それは七日前、蔵の整理と称して、収納物を散らかしながら遊び回っている時に偶然発見したものでした。何年も前に恵姫の父が江戸から土産として持ち帰った風鈴。それを初めて見せられた幼い恵姫は、よだれを垂らしながら大喜びしたものです。
「ち、父上、これは鯛、鯛でございますな、じゅる」
それは有り触れた鉄製の風鈴、しかし、よく見掛ける釣鐘型ではなく、鯛の形の鋳物でした。しかも音を響かす舌も鯛の形、風を受ける短冊も鯛の形で鯛の柄。ここまで鯛尽くしの風鈴は珍しいと、滅多に土産を買わない殿様もつい買って来てしまったのでした。
「父上、さっそく軒に吊るして味わいましょう、じゅるじゅる」
幼い頃の恵姫は言葉の使い方が変でした。今の様にきちんと使えるようになったのは磯島の尽力によるものです。
それはともかく比寿家が公儀に届け出ている参勤交代の時期は九月。殿様が帰城した時にはもはや晩秋であったため、使うのは来年の夏からにしようという事になり、一度も吊るされずに風鈴は蔵に仕舞われたのです。
ところで人というものは忘れやすい動物で、そもそも比寿家には夏にしのぶ玉をぶら下げる習慣はあっても風鈴をぶら下げる習慣はなかったため、翌年の夏になっても誰も風鈴を思い出さず、結果、蔵に仕舞われた鯛型風鈴はそのまま忘れ去られ、一度も日の目を見る事なく今に至っていたのでした。
「七日前、蔵の中であれを見付けた時、さすがのわらわも驚かずにはおれなんだわ。どれだけの長い年月、あの鯛は暗い蔵の中で孤独を耐えておったのかのう。その心の内を想像するとよだれを、ではなくて、涙を禁じ得ぬわ。安心致すが良い。これからは毎年夏になればそなたを軒に吊るして賞味、ではなくて、観賞してやるからのう、じゅる」
チリン、チリン……
恵姫はにんまりとしました。風鈴の音が自分へのお礼のように思えたのです。七日前、蔵の中で奮闘してようやく得た戦果がこの風鈴ひとつだったのですから、大切にしようと思う気持ちは否応なしに高まります。それはまた得られなかった戦果への口惜しさの裏返しでもありました。
「まさか磯島の吟味があれほど厳しいとは思いもよらなんだわ」
欲張りな恵姫が半刻近くも蔵の中を荒らしまわって、風鈴ひとつで済むはずがありません。実は雁四郎たちが探し出した寛右の忍具に匹敵する量の収納物を持ち出そうとしていたのです。
忍具を探し終えた三人が古い蔵を離れた一瞬の隙をついて、恵姫はお宝満載の木箱を抱えて蔵を出ると、奥御殿の縁側に向かって突進しました。玄関から運び込めば誰かに見つかる危険が増します。中庭から直接座敷の縁側へ運び込み、物入れや納戸に隠す、これが最も安全な方法です。軒に立て掛けてある葦簀の隙間から縁側に上がり、御簾戸を開けて座敷に入る恵姫。
「ふっふ、うまく行ったわい。これで梅雨時の退屈も紛らわせるというものじゃ」
さっそく木箱の蓋を開けようとした恵姫でしたが、その頭の上に聞き覚えのある声が落ちてきました。
「その木箱は何でございますか、恵姫様」
磯島です。お約束通りの出現の仕方です。こうなっては恵姫も観念するより他ありません。木箱の中身は勿論の事、襦袢の裏に隠し持っていた書「合類日用料理抄」や、袂に隠した「三つ折れ鯛人形」まで没収されてしまったのです。
「おや、これは……」
それ程までに鬼のような磯島でも、この鯛型風鈴だけは見逃してくれたのでした。実際、これは夏に使う物なのですから、今、使わなくては本当にただの我楽多になってしまいます。当然の判断と言えましょう。
チリン、チリン……
「なんと心地よい音じゃ。聞いているだけで暑さが遠のいていく気持ちになるのう」
「恵姫様、よろしいですか」
せっかく遠のいていた暑さが戻ってきました。寝転がったまま振り向けば磯島がすぐ傍に立って見下ろしています。仕方なく夏座布団に座ると恵姫は不機嫌そうに答えました。
「何か用か、磯島。朝釣りの疲れを癒すためにこれから朝寝をするつもりなのじゃが」
「それは失礼致しました。ですが、その朝寝、昼過ぎまで待っていただけませぬか」
「昼過ぎまで待っておったら昼寝になってしまおうが。朝に寝るから朝寝なのじゃ」
「では、昼寝と一緒に朝寝をお取りください。そんな事よりも手伝っていただきたい事がございます。本日から土用の入り。しばらく晴天が続きそうですので、一月前に漬けました梅の実を天日に干したいのです。手を貸してくださいませ」
梅の実と聞いて恵姫の頭に浮かぶのは木の下に埋まっていた赤本「鮒鯉合戦」です。幼子向けに書かれた本だったのでさすがに読み返す気にはなれませんでしたが、取り上げられたままだった事実を思い出して、随分と腹が立ったものです。その時の怒りがふつふつと蘇ってきました。
「天日干しなど女中の仕事であろう。何故わらわが手を貸さねばならぬのじゃ」
「そうでございますね。私もお福にさせるつもりでしたのです。ところが今朝になって厳左殿がどうしてもお福を貸して欲しいと言い張り、半ば強引に連れて行ってしまわれたのです。そこでお福と仲の良い姫様にお願いしている次第です」
「厳左がお福に何の用があると言うのじゃ」
「鳥とか、鳩とか申しておりましたが、詳しくは存じません」
恵姫は磯島の顔をじっと見据えました。何か隠し事をしている様には見えません。急にお福が居なくなって困っている事も、厳左がお福を必要とする理由が分からない事も、どうやら本当のようです。
「ふ~む……」
恵姫は考えています。手を貸そうかどうか考えているのではありません。手を貸さざるを得ない状況にある事は理解できているのです。問題は、手を貸すにしても無条件で磯島の頼みを聞くのは癪に障るという点です。当然何らかの報酬を要求しなければなりません。それを何にしようかと考えているのです。
「分かっておりますよ。見返りが欲しいのでしょう」
磯島も恵姫の考えはとっくにお見通しだったのでしょう。懐からなにやら取り出しました。
「お、おお、それは!」
恵姫の顔に花が咲いたような喜色が浮かびました。磯島が取り出したのは先日蔵から持ち出し、敢え無く取り上げられた「合類日用料理抄」だったのです。
「実は姫様が持ち出した木箱、蔵に戻さず奥御殿のとある場所にて保管してございます。これから恵姫様が良き行いを積み重ねれば、木箱の中身をひとつずつ差し上げましょう。手始めはこの書です。中を拝見しましたが実に興味深い内容でございますね。料理術のみならず食材吟味、取り合わせの妙、更にはこの城では滅多に食べぬ焼き鳥などにも話が及んでおります。恵姫様がお読みになる時には必ず手拭いを用意なされませ。でなければよだれでぐちょぐちょになってしまうでしょう。もし梅の実をひとつ残らず天日干しにしていただければ、手間賃代わりにこの書をお渡ししましょう。如何ですか」
「やる。全て並べてやる。中庭一杯に梅の実を並べてやるわい!」
にっこりと笑う磯島、そして恵姫。二人の利害が一致した、誠にめでたい土用入りの朝でございました。




