土脉潤起その一 消えた与太郎
一月十五日は小正月。
太古の日本では満月が月の始まりだったので、この日が元日でした。新月が月の始まりになっても、十五日を祝う風習はなくならず、朝は小豆粥を食べることになっています。
志麻の国の領主にして一万石の大名である比寿家の一人娘、恵姫も、その例に漏れず小豆粥を食べていました。
「はあ~、今朝は小豆粥か。これを食べると正月は本当に終わったという気になるのう」
「いつまでも正月気分では困ります。それに江戸では松の内は七日まで。それに倣って表御殿は八日から普段の生活に戻っております。姫様は二倍も正月を楽しまれたのですよ。いい加減にだらけた生活は改めてくださいませ」
普段の日ならば、午前中の恵姫は、花や茶などのお稽古事、詩歌などの教養、武家の礼儀作法等々、姫として当然身に着けているべきたしなみを、磯島やその筋の師匠からみっちりと躾けられるのです。
それが正月ともなれば、それらは全てお休み。年が明けてからの恵姫は、年始の客を相手にした二日間以外は一日中、遊んだり、釣りをしたり、朝寝をしたりで、磯島の言葉通り極めて自堕落な日々を送っていたのでした。
しかし、それも今日で終わりです。明日からは普段通りの生活が始まるのです。恵姫はすっかり憂鬱になっていました。
「あやつ、今頃どこで何をしているのかのう」
粥の入った椀を置いて、恵姫は遠くを見るような目をしました。七日前、突然出現し、突然去っていた謎の男。
「もう来ることはないのかのう」
「来るわけがございません。可愛いと思い込んでいた姫様が、実は悪奉行のように無慈悲で腹黒かったのですからね。すっかり幻滅してしまったのではないですか。そもそも慎み深い姫ならば、おのこのメダカを覗くような真似はいたしません」
「い、磯島とて、一緒になって白魚を覗き込んでいたであろうが」
「わたくしは姫ではなく女中です。お殿様の下の世話もさせていただいておりますから、メダカを覗くのは当然。姫様の幼少の頃は、私が毎日姫様のお尻を拭いていたではありませぬか。最近は自分で拭くと言って、拭かせてはくれませぬが、本来、姫様の下の世話は私の役目。拭いてさしあげてもよいのですよ」
「ああ、もう、飯の時に尻の話などするでない。少し黙っておれ、磯島」
恵姫は残りの小豆粥を掻き込むようにして食べ終わると、ほっと息を吐いて、七日前の出来事を思い出しました。
* * *
与太郎を仕置き部屋に閉じ込めた後、さて、今日はどう過ごすかと恵姫は考えました。
『腹も減っているだろうから、昼飯くらいは食わせてやるか。そうすれば、与太郎の気も落ち着いて、本当のことを正直に洗いざらい白状するに違いない。ならば、午後はもう一度、与太郎の吟味を執り行うことにしよう。それで当家に対して何らの敵意がないと分かれば、夜まで待って逃がしてやればよいし、敵意ありとみなせば、表に引き渡せばよい。うむ、我ながら名案じゃ。さて、そうなると昼まで暇じゃな。今朝は早く起こされたし、与太郎と組み合って少々疲れたし、眠るとするか』
恵姫は火鉢の側で横になると、そのまま眠ってしまったのでした。
「姫様、姫様」
という声で恵姫は起こされました。朝と同じく磯島が恵姫を揺り動かしています。
「なんじゃ、磯島、昼飯の時間か」
「そうですが、そんな用事で起こしているのではありません。一大事でございます」
「朝だけでなく昼も一大事か。一大事が二度もあるのに一大事とはおかしくはないか。いや、二度あることは三度ある。夜になれば三度目の一大事、つまり鯛の刺身が猫にさらわれる……」
朝と同じく、恵姫はまだ夢うつつの状態です。寝ぼけ眼の表情で、口からはよだれが垂れたまま。自分で何を言っているのか、よく分かっていないようでした。当然、磯島も恵姫の言葉を無視して、本題に入りました。
「与太郎が逃げました」
「な、なんじゃと!」
ここで恵姫はようやく目が覚めました。すっくと立ちあがると、
「仕置き部屋へ行く」
と言って、座敷を飛び出しました。磯島もすぐさま後を追いました。
仕置き部屋は二畳ほどの小さな部屋で、出入口の頑丈な開き戸には、中を覗けるように格子窓が付いています。奥で働く女中が不始末を仕出かした時に、反省と懲罰を兼ねてここに閉じこめておくのが主な目的です。
目に余る程重大な無作法ならば、表御殿の牢屋に放り込まれますが、罰する程ではないがお咎めなしでは示しが付かない軽微な場合のみ、使われることになっています。ただ、ここに放り込まれる女中は滅多にいませんでした。これまで一番多く放り込まれたのは恵姫です。
我が強く、行儀が悪く、淑女という言葉が全く似合わない恵姫ですが、昔に比べればこれでもかなりお淑やかになったのです。幼少の頃は人ではなく野獣かと思わせるほど、手が付けられないやんちゃ童女で、十日に一度は仕置き部屋に放り込まれていました。その野獣をここまでの姫に育て上げたのですから、磯島の手腕は賞賛に値すると言えましょう。
そんな話はともかく、恵姫は放り込まれると必ず脱走を試みました。しかし一度として成功したことがなかったのです。ですから、仕置き部屋から与太郎が脱走したという話が、真実だとはとても思えなかったのでした。
「おらぬ、本当におらぬ……」
もぬけの殻になった仕置き部屋を見て、恵姫は愕然となりました。
「有り得ぬ、信じられぬ。このわらわですら、一度も抜け出せたことがなかったのじゃぞ。磯島、どういうことじゃ、詳しく話してみよ」
「はい。姫様の御言い付け通り、四半刻に一回、仕置き部屋を見回っておりました。格子窓から見ると、与太郎は寝転んだり座ったりして静かにしておりました。やがて昼が近付くと『腹が減った、喉が渇いた』と言い始めました。水や食物を与えてよいか、姫様に伺おうと思いましたが、気持ちよさそうに眠っておられるので、昼食時に伺おうと、そのまま放置しておりました。そして昼九つの太鼓が打たれた時、中を覗いてみると……」
「与太郎は消えていた、というのじゃな」
青い顔で頷く磯島。磯島自身も与太郎の逃亡が、まだ信じられないようでした。
「鍵は、間違いなく掛かっていたのじゃな」
「はい」
「壊された形跡もなかったのじゃな」
「はい」
恵姫は顔の前に指を三本立ててつぶやきました。
「ふ~む……実に興味深い」
部屋の外側は異常ないようです。磯島と恵姫は仕置き部屋の中に入りました。かび臭い匂いがします。最後にここに入ったのはいつだったろうか。久しぶりに我が家に戻ったような懐かしさを恵姫は感じました。
「いかん、いかん、郷愁に浸っている場合ではない」
さっそく調査の開始です。畳、その下の床、天井、壁。叩いたり踏んだり殴りつけたりしながら恵姫は調べていきます。けれども何の異常もありません。幼少の頃に脱走を試みた時と変わらぬ、堅牢で強固な仕置き部屋です。しかも見回りは四半刻に一回。そんな短時間でこの部屋を突破できる気力と体力を、あの腑抜けた与太郎が持ち合わせているとは到底思えませんでした。となると、
「外部から手助けしたものがおるのか、あるいは城内の誰かが……」
「ま、まさか、そんな……」
それは恵姫にとっても磯島にとっても最悪の推理でした。けれども、もっとも理に適った推理でもありました。二人はしばらく無言で立ち尽くしていました。
「もうやめよう、磯島」
恵姫は仕置き部屋を出ると、元通りに錠を掛けました。
「あれこれ考えても仕方のないことじゃ。それに根拠のない推理は真実を遠ざける。考えてみれば与太郎がどうやってこの屋敷に忍び込んだのかも分からなかったのじゃ。どうやって抜け出しのか分からぬのも当然ではないか」
「それは、そうですが」
「分かる時が来ればいずれ分かるじゃろう。さあ、与太郎のことはきっぱり忘れて昼飯にしよう」
こうして与太郎騒動は、後味の悪さを残したままで終結してしまったのでした。




