蓮始開その四 二つの蔵
朝日はすっかり海の上に顔を出し、眩しい陽光が浜辺に満ちていました。気が付けば恵姫は道具箱に釣り具を仕舞っています。どうやら今日の朝釣りは終わったようです。
「おう、毘沙、目が覚めたか。良い夢が見られたか」
「ん、ああ、五日前の夢を見ていた……ふあ~」
毘沙姫は大きく伸びをして両手を空へ突き上げました。鯛焼き味見の会で寛右を問い詰めてから、これと言った動きはありません。やはり毘沙姫が間渡矢に留まっている限り、相手側も手を出しにくいのでしょう。瀬津姫もあれ以来姿を見せてはいないのです。
「わざわざ浜で寝るくらいなら座敷で寝ておればよいものを。昨晩いきなりやって来たと思ったら、『明日の蔵の片付けを手伝わせろ』と言い出して泊まって行くし、今朝、釣りに出ようと思ったら、『一人で行くな、連れて行け』と言って付いて来る。釣りの手助けでもしてくれるのかと思いきや、岩に腰掛けて眠りこけてしまいおる。毘沙とはこれほどまでに気紛れなおなごであったかのう」
恵姫の愚痴とも独り言も分からぬ言葉を聞いているうちに、毘沙姫は笑いが込み上げてきました。自分の行動ながら確かに奇妙すぎると思えたからです。
「本当だな。それは間違いなく変な奴だ、ははは」
「何を他人事みたいに笑っておるのじゃ。そなたの事じゃぞ、毘沙」
釣りの後片付けをする恵姫の呆れた顔。どうやら何事もなく釣りが済んだようだと、毘沙姫はひとまず安心しました。眠いのを我慢して朝釣りに付いて来たのは恵姫の護衛が目的だったからです。
蔵を管理しているのは寛右です。厳左は主に番方を、寛右は逆に役方を束ねていました。二つある蔵には武具の類はなく、宝物や調度品、骨董、書などが納められていたので寛右が蔵の鍵を持ち管理しているのです。
そのまま蔵の整理を言い出しても寛右が了承しないかもしれないと考えた厳左は、勘定役に訳を話して寛右の説得に当たらせました。比寿家の財政困難は勘定方の最も頭を悩ませる事柄だったため、依頼を受けた勘定役は厳左も驚く程の熱心さで寛右を説き伏せ、蔵の整理を認めさせてくれました。それが昨夕の事。すぐに鍵を預かり蔵の前には番を立たせました。翌日の整理の前に収納物が持ち出される事を防ぐためです。
更に、蔵の整理は城の役人ではなく恵姫を始めとする奥の者で行う事にしました。寛右の息の掛かった者に行わせては意味がないし、かと言って本来の役目ではない厳左が指揮を執るのも不自然すぎます。しかし恵姫が行うとなれば誰も文句は言えません。
「有り得ぬ事とは思うが、明日の整理までに寛右殿が恵姫様に何かを仕掛ける可能性がないとは言えぬ。毘沙姫様、蔵の整理が終わるまで姫様の警護をお願いしたい」
昨夕、厳左にこう言われて、毘沙姫は昨晩も今朝も、こうして恵姫に付いて回ることになったのです。
「さすがに海の近くで恵を襲うような命知らずな真似はせぬか」
先達ての島羽の一件で海に出た時の恵姫の無敵さ、凶暴さは寛右だけでなく記伊の姫衆すらも震え上がらせたはずです。浜辺に居ればそれだけで恵姫の安全は約束されていると言えましょう。
「おい、毘沙。そろそろ帰るぞ」
釣り具箱をいつもの岩陰に隠した恵姫は、竹製の魚籠を毘沙姫に突き出しました。
「ほれ、せっかく朝釣りに付いて来たのじゃ。これでも運んでくれ。少しはわらわを手伝ってくれても罰は当たらんじゃろう」
「心得た」
受け取った魚籠はずっしりと重く魚が跳ねる音もします。なかなかの釣果のようです。
二人は浜を出て東の木戸口へ通じる山道を登り始めました。先を行く恵姫に毘沙姫が話し掛けます。
「恵、おまえは次席家老の寛右をどう思っている」
「寛右か。良き家臣じゃ。間渡矢の領民を何より大事に思っておる。そなたも鯛焼きの件で与太郎に答えておった寛右の言葉を聞いたであろう。あれほどまでに領民を第一に考え、善政を敷こうと力を尽くす家臣など滅多に居らぬ。大切にせねばな」
「……そうか」
恵姫の答えを聞いて毘沙姫はそう返事をしただけでした。
『どうやら恵は寛右に関して何も気付いていないようだな』
この答えを聞いた毘沙姫がそう考えるのは当然でしょう。けれども毘沙姫は敢えてそれを正す気にはなれませんでした。
『恵がそう思っているのなら、そう思わせておけばいい』
要らぬ考えを吹き込み余計な心配をさせるよりも、今のお気楽な状態の方が恵姫にとっては遥かに良いはずです。何も知らぬまま、何も起こらぬまま事を終わらせてしまえば、それまでの無用な心配は全く意味を持たなくなるのですから。
「毘沙はどうなのじゃ。寛右をどう思っておる」
「そうだな、領民と比寿家の行く末にあれほど心を砕く者は、この城には寛右以外居ないだろうな」
これは毘沙姫の本心でした。その意味では寛右ほど領主としての資質に優れた者は居なかったのです。それだけに此度の寛右のやり方が、惜しくて堪らなく思えるのでした。恵姫を犠牲にしても領民と比寿家を守ろうとする寛右を、同じ姫衆のひとりである毘沙姫が許せるはすがないのです。
「なんじゃ、わらわと同じではないか。てっきりくそ真面目で、腕も立たぬ、無愛想な奴じゃと、糞味噌に扱き下ろすと思っておったのにのう。これでは詰まらぬではないか、毘沙」
「詰まる、詰まらないの問題ではないだろう。そう思うからそう言っただけの事だ。ほら、無駄口叩かず歩け。すっかり腹が減ったぞ。飯だ飯だ」
空腹になると機嫌が悪くなるのは恵姫も毘沙姫も同じです。後は無言で帰城を急ぐ二人でした。
遅めの朝食を腹いっぱい堪能した恵姫と毘沙姫は、早起きの疲れもあり、食後すぐに簟に横になって眠ってしまいました。一仕事終えた後の食事と睡眠ほど心地良いものはありません。誰にも邪魔されず惰眠を貪りたい二人なのですが、そうは問屋が卸さないのが世の常です。眠り始めて幾ばくも経たない内に中庭から声が掛かりました。
「恵姫様ー、毘沙姫様ー、居られますかー」
雁四郎です。朝から元気な声です。縁側の御簾戸は開けっ放しなので殊更座敷に響き渡ります。さすがの恵姫も眠りから覚めてしまいました。
「う~む、誰じゃ。わらわの安眠を妨げる者は……」
「恵姫様―、雁四郎でございます。本日、蔵の整理をお手伝いするようにとご家老様より言い付かり参上致しました」
本日の蔵の整理は奥の者の仕事のはず。なのに何故雁四郎が手伝いをする事になったか、それには理由があるのです、昨日、磯島に蔵の整理に関して申し渡したところ、たちまち渋い顔をされてしまったのです。
「前日の、しかもこんな遅くにそのような役目を押し付けられても困ります。ただでさえ少ない人手で遣り繰りしているのです。表の仕事に手を貸すほどの余裕はございません。恵姫様一人にやらせればよいのではないですか」
磯島の言い分はもっともです。しかし恵姫一人に任せるのはどう考えても無理があります。お稽古事も梅の実集めも満足にできない恵姫に蔵の整理など任せたら、それこそ蔵の中で遊び呆けて三日経っても「まだ終わらぬ」と言って出て来ないでしょう。
「そこを何とかならぬか、磯島殿。毘沙姫様には手を貸してくれるよう頼んでおる。女中も数名でよい、都合を付けてくれ。頼む、お願いだ」
厳左にお願いだと言われては無下に断ることもできません。結局、お福だけを手伝わせる事にしました。
「お福、一人だけか……」
厳左は顔をしかめました。恵姫は頼りにならず、毘沙姫も大雑把な仕事しかできないはず。つまりお福一人だけで蔵の整理をする羽目になるでしょう。それでは余りにも不憫と感じ、仕方なく雁四郎を手伝わせる事にしたのです。
「恵姫様―、聞こえておりますかー、毘沙姫様―。起きておられますかー」
馬鹿でかい雁四郎の声が座敷中に響きます。のそのそと身を起こし、まだ眠っている毘沙姫の耳に、「起きよ、飯じゃぞ」と囁いて、大きく欠伸をする恵姫ではありました。




