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元禄・マジカル・プリンセス  作者: 沢田和早
第三十二話 はす はじめてひらく
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蓮始開その二 昔語り

 毘沙姫は酒徳利を持つと、空になった厳左の盃に酒を注いでやりました。それに僅かに口を付け、厳左は話し始めました。


「寛右殿が江戸家老の職に就いたのは恵姫様の弟御が生まれる数年前。殿は勿論のこと、正室の奥方様からの信頼も厚く、国元の我らも何の口出しもせずに、江戸の事は全て寛右殿に任せっきりであった。長らくお子に恵まれなかった奥方様が身籠り、しかもお世継ぎたる男児を無事お産みなされた時には、これも寛右殿の深き忠義心の賜物よと、皆、褒めそやしていたものだ。今思えばあの頃が比寿家の最も輝かしい時であったのだろうな」


 厳左の話を聞きながら毘沙姫は今から十年以上前の自分を振り返っていました。間渡矢を訪れるたびに受ける温かい持て成し。それは辛く苦しい旅の日々を忘れさせてくれる我が家のような場所でした。確かにあの頃の間渡矢城は今とは違い、比寿家の行く末に不安を抱く者など一人も居なかったのです。


「飛魚丸様はすくすくと成長なされた。そして五つになられた時、恵姫様の輿入れが決まった。世継ぎが決まった以上、姫は早く嫁がせた方が良いとの理由であったがそれは表向き。本音は有力大名と縁を結びたかったのだ。一万石程度の弱小大名である比寿家にとって力のある大名と縁続きになることは、願ってもない生き残りの手段のひとつ。我らもそれはよく承知しておったゆえ、寛右殿の決断に口を挟む者はひとりも居なかった。あの出来事さえなければな」


 厳左は口を閉ざしました。盃を置き、顔を伏せ、両拳を握りしめたまま身じろぎひとつしません。それは長い沈黙でした。黙って待っていた毘沙姫は話しを促すように口を開きました。


「世の中とは分からぬものだ。時に誰一人として想像していなかった事が起きる。飛魚丸の急死。そしてそのたった一人の死が、多くの人の運命を狂わせる」


 厳左は顔を上げました。険しく苦渋に満ちた表情。当時の記憶は今も厳左にこれだけの苦痛を与えるのでしょう。拳を握りしめたまま、厳左は話を続けました。


「江戸から一報がもたらされた時、間渡矢には落胆と喧騒の渦が巻き起こった。折しも一年ぶりに殿が江戸へ出立する日が間近に迫っていた。予定を繰り上げ、殿は直ちに江戸へ向かわれた。寛右殿を非難する者も居た。江戸での全責任は江戸家老にある。世継ぎを死なせたとなればもはやただでは済むまい。が、飛魚丸様の死因が病と分かり、更には寛右殿が腹を切ろうとして未遂に終わったとの報が入り、非難の声は一気に収束した。さりとて全く責任を取らぬ訳にはいかぬ。寛右殿は江戸家老の職を解かれ国元へ送り返された。数年ぶりに見る寛右殿の姿に間渡矢の城の者は皆我が目を疑った。恰幅の良い体躯は衰え、肌の色艶は浅黒くなり、頬はこけ、黒髪は白髪に変わり、ただ眼光のみが鋭い別人のような姿。如何に寛右殿の心労が激しかったか、誰の目にも明らかだった。そして寛右殿は諦めてはいなかった。比寿家の行く末を誰よりも案じていたのは寛右殿であったのだからな。だが、運命の輪は一度道を外れると、簡単には戻ってはくれぬ。まるで坂を転げ落ちるように比寿家は転落していった」


 眉間に皺を寄せる厳左。そして毘沙姫の顔にも暗い影が差しました。辛い思い出である事は毘沙姫にとっても同じだったのです。


「覚えている。あの年に起こった出来事は生涯忘れる事はできぬ」


 そう言って酒を飲み干した毘沙姫は、自分で湯呑に酒を注ぎました。とても素面では聞いていられないのでしょう。厳左もまた自分で酒を注ぎ、飲み干すと話を続けました。


「毘沙姫様の言葉通り、あれは本当に酷い年であった。世継ぎの飛魚丸様の急死、そして嫁ぎ先でそれを知った恵姫様の暴走」

「暴走は言い過ぎだ。姫の力が一挙に覚醒した、それだけの話だ」

「失礼。しかし世間はそのように受け取ってはくれぬ。姫の力を持たぬ者として嫁に出した以上、その条件が崩れれば離縁されても仕方がない。恵姫様はたった一月で嫁ぎ先から追い返された。そして領地と領民へ多大な損害を与えた見舞金として、間渡矢は多大な額の負担を強いられた。更にその一月後、元々病弱であった恵姫様の母上が亡くなられた。一連の出来事に心を痛め、それが体にも障ったのであろうな。お労しい事であった」


 毘沙姫は最後に会った恵姫の母を思い出していました。嫁ぐ娘を誇らし気に、そしてまた寂し気に見詰めていた恵姫の母、それが毘沙姫の記憶に残る最後の姿でした。あの時が恵姫にとってもその母にとっても、生涯で一番輝いていた瞬間に違いないのです。


「恵の母か……あれだけ世話になっておきながら死に目にも会えなかった。恩知らずもいいところだな」

「いや、むしろそれで良かったのだ。死を見ておらねば心の中には生の姿しか残らぬ。残される者にとってはその方が有難い」

「ほう、ならば厳左の葬式には顔を出さぬぞ。それでも構わぬのだな」

「無論」


 互いに見詰め合いながら笑顔を浮かべる二人。話を始めてから初めての和やかな雰囲気。が、声を上げて笑うまでにはいかず、二人はまた元の険しい表情に戻ってしまいました。


「寛右殿が養子縁組に力を注ぎ始めたのはその時からであった。高齢で病弱の殿に次のお子は期待できぬ。姫の力に目覚めた恵姫様に婿養子は望めぬ。養子を取る以外に道はないと思い込んでおるのだ。それもこれも寛右殿の生真面目さゆえ。比寿家の行く末を閉ざしてしまった責任を己一人で背負い込み、己一人だけで解決しようとしておる。表向きの主導者は今の江戸家老であるが、実際には寛右殿の独断で進められているのだ。その生真面目さに記伊の姫衆が付け込んだのであろう」


 厳左は深く嘆息しました。そして話すべき事は話したと言わんばかりに目を閉じました。これ以上話を促したとしても、もう何も出て来そうにありません。


「寛右の生真面目さか……」


 毘沙姫の胸中は複雑でした。過去の寛右の話を聞いて、現在の寛右の気持ちや行動もそれなりに理解できました。しかし未来の寛右の行動には賛同できかねるのです。恵姫を危機に陥れるような真似を許す事はできません。それは比寿家の行く末よりも、姫である仲間の安全を優先する、伊瀬の姫衆として当然の考え方でした。


「恵が婿養子を取れば容易に解決する話なのだがな。磯島があれだけ頑張っても難しいのか」

「かつて斎主様より神器を賜った姫の中で、大名の正室になった姫は一人も居らぬ。側室さえも居らぬ。それは姫の特殊性に寄るもの。徳川家に仕えると同時に斎主様にも仕えているのだからな。伊瀬への召喚状が来れば必ず参らねばならぬ。ゆえに姫の力を持つ者が正室になっても江戸在住の義務はない。むしろ公儀は姫が江戸に近付くことを恐れている」


「恐れているは言い過ぎだ、厳左。伊瀬の斎主様は徳川家への恭順の証しとしてろく姫と寿ことぶき姫を人質同然に江戸に住まわせているのだ。大名以下の扱いを受けても文句も言わず従っているのだぞ」

「公儀にとってはその二姫すら、徳川家を監視する斎主様の手先と感じておるのだろう。この泰平の世にあって姫の存在は目の上のたんこぶ。今は二分されている姫の力。仮に伊瀬と記伊の姫衆が手を取り合えば、徳川家など容易く倒す事ができよう。ふたつの姫衆の対立は公儀にとっては願ったり叶ったりなのだ。そのように公儀から疎んじられている姫をわざわざ正室に据える物好きな者など、居るはずがなかろうな」


 厳左に言われるまでもなく、毘沙姫も磯島も、そして間渡矢の城の者も、恵姫の婿養子については誰もが諦めていたのです。それでもこだわり続けるのはそれが皆の願望だったからです。姫の力を持つ者を正室にしてはいけないという掟はありません。その一縷の望みに誰もが賭けていたのです、現実主義の寛右とその一派以外の者は。


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