紅花栄その二 おねだり雀
「やれやれ、朝の稽古事は散々じゃったわい」
昼食を済ませた恵姫は東の木戸を開けて城の外に出ました。これから久しぶりの釣りに出掛けるところなのです。手に持っているのは獲物を持ち帰る為の特製の竹魚籠だけ。その他の道具は浜の秘密の場所に置いてあります。
すっかり雑草に覆われた小道を下りながら、恵姫はあの太々しい雀を思い出さずにはいられませんでした。せっかく雀の世話から解放されたのに、腹が減るたびに縁側にやって来られたのでは、おちおち昼寝もできません。
「いかに懐いておるからと言っても、あそこまで強引に餌をせがまれては、こちらもうんざりじゃ。そもそもお福が甘やかしすぎたのが一番の原因じゃな」
恵姫の推測はある程度的を射ていました。お福は餌を与えるのは勿論のこと、水浴び、砂遊びなどの世話をし、羽根を繕ってあげたり、鳴き声に合わせて鼻唄を鳴らしたり、まるで我が子のように慈しんで育てていたのです。雀を邪険に扱った恵姫の絵草紙を取り上げたことからも、雀に対して半端でない熱の入れようだったことは明らかでした。
「その結果がこの有様じゃ。年端も行かぬ子雀の癖にすっかり傲慢になりおった。まるで島羽城の乗里そっくりじゃな」
ぶつくさと文句を垂れながら山道を下って行く恵姫。しかし浜に出て青く広がる海を目の前にすれば、頭の中の雑事はすっかり忘れてしまいます。
「おお、鯛漁以来十七日ぶりの海じゃ。何という心地良さ。故郷に帰って来たような晴れ晴れとした気分になるわい。さて、まずは釣り餌探しじゃな」
恵姫は岩陰に近寄りました、そこには専用の釣り道具一式が隠してあるのです。釣り具箱から二本鍬と餌箱を取り出し、さっそくイワムシ採集、ある程度集まれば釣り竿と釣り具箱を持って磯釣りの開始です。
既に季節は草木が茂る小満。肌に感じる日差しは暑く、陽光に煌めく海面は眩しく、時折吹いてくる風はすっかり夏を感じさせます。恵姫は胸いっぱいの礒の香りを吸い込みながら糸を垂らしていました。普段過ごしている窮屈な奥御殿では味わえない、大海原と大空の解放感を楽しむこと、これもまた海釣りの醍醐味でもあるのです。
「おっ、もう掛かったか」
始めてから幾ばくも経たぬうちにアタリが来ました。うまく合わせながら引き寄せる恵姫。ここだと思ったところで素早く引き上げ、左手に持った手網に入れます。
「ふむ、鮎魚女か。まずまずじゃな」
幸先の良い出だしです。海水に浸した特製の竹魚籠に最初の獲物を放り込むと、恵姫は餌箱に手を伸ばしました。
「ややっ!」
驚く恵姫。そこに有り得ないモノを見てしまったのです。知らぬ間に餌箱の蓋が開き、入れておいたイワムシが這い出て、いや、這い出てはいません。ほとんど居なくなっているのです。そして餌箱を足で押さえてイワムシを啄んでいるのは、
「ピーピー」
あの雀でした。性懲りもなく浜辺まで恵姫を追って来て、器用にも餌箱の蓋を開け、イワムシを盗み食いしていたのでした。記憶から消えていた忌々しい姿を再び見る羽目になった恵姫の頭が一気に沸騰します。
「こ、此奴こんな所まで餌を漁りに来るとは、どこまで意地汚い鳥なのじゃ。ああ、せっかく集めた餌がほとんど残っておらぬではないか。この馬鹿雀がっ!」
「ピーピー!」
羽をばたつかせながら鳴き喚く雀。その反抗的で不遜な態度に、恵姫の怒りは増すばかりです。
「ピーピーではなくチュンチュンと鳴けと言っておろうが。小癪な奴め。お仕置きをせなば分からぬようじゃな。こうしてくれるわ」
釣り竿を投げ捨て雀に襲い掛かる恵姫。しかしヒナの時とは違って簡単には捕まりません。素早く羽ばたいて舞い上がると、逆に恵姫に襲い掛かりました。
「痛っ! 頭を突くでない、首から離れぬか、耳はくすぐったいであろう、おのれ、どこまでわらわを愚弄する気じゃ」
遂に我慢の限界に達した恵姫、髪が持ち上がりその先端が発光を始めています。
「チュンチュン」
如何に腕白な雀でも自分の身に危険が迫っていることを感じ取ったのでしょう。急に大人しくなると、餌箱に残っていた三匹のイワムシを咥えて飛び去って行きました。ほっとする恵姫。
「もう来るでないぞ阿呆雀。それにしても何たることじゃ。餌を全て食われてしまったではないか。し、しかも、何じゃこれは。置き土産に糞を垂れて行きおった。どこまで人を馬鹿にしておるのじゃ」
幸先良く一匹釣り上げて良い気分になっていたのに、雀の乱行のおかげですっかり台無しになってしまいました。それでもあれだけ食べれば満腹になったはずです。しばらくはやって来ないでしょう。
「またイワムシを集めるとするか」
恵姫は二本鍬を取り出すと、再びイワムシを取り始めるのでした。
* * *
「それはまた散々な目にお遭いになられましたね」
夕食の膳を挟んで磯島が言いました。その日の釣果はなかなかに満足のいくものだったのですが、雀にしてやられたことで喜びも半減していたのです。夕食を取りながらついつい磯島に愚痴ってしまった恵姫でした。
「まさか浜まで付いてくるとはのう。これでは巣立ちの意味がないわ。お福の所には来なかったか」
「来ました。御殿の外に出た途端、肩に舞い下りました。仕方なくミミズを探して与えていたようです」
「そうか。これは何とかせねばならんのう、このまま放っておく……おや?」
障子の向こうで何やらガソゴソと音がします。小さなピーピー声も聞こえてきます。
「また来おったか」
恵姫はつかつかと歩み寄ると、勢いよく障子を開け放ちました。縁側には小さな雀、いや、雀にしては様子が変です。
「ん、これは何じゃ、椋鳥か」
その鳥の嘴は赤色をしていたのです。体も大きく一見椋鳥にしか見えません。
「ピーピー」
しかし鳴き声と、餌をねだる太々しい態度はあの雀のものでした。正体が分からず困惑する恵姫。後からやって来た磯島がその鳥を手に乗せました。嘴に触れると赤い色がはらりと剥がれます。
「これは芍薬の花びら……どうやら件の雀が芍薬に悪さをして、花びらが嘴にくっ付いてしまったようでございますね」
「花びらか。食いもしないくせに花を弄ぶとは、悪戯好きな雀じゃ」
「ピーピー」
正体はやはりあの雀だったのだと分かり、安心すると共に怒りが込み上げる恵姫。しかし、磯島は別の事を考えているようでした。
「一瞬、嘴に紅を指しているのかと思いました。もう紅花が咲く季節、艶紅で娘たちが装う頃……」
磯島は雀を手に乗せたまま何やら物思いに耽っています。
「磯島、何を考えているのじゃ。それよりもお福を呼んでこの雀をどうにかさせるのじゃ。このまま鳴き続けられては飯が不味くなる」
恵姫の言葉にも磯島は反応しません。雀の嘴から剥がれ落ちた芍薬の花びらをじっと見詰めるばかりです。
「ああ、もう面倒じゃ」
恵姫は中庭に下りると池の近くで餌になりそうなものを探し始めました。雀も磯島の手を離れ、恵姫が餌を見付けると片っ端からそれを啄んでいきます。しばらくすると腹が膨れたのか、またどこかへ飛んでいきました。
「おーい雀、鳥目のくせにこんな日暮れに来るものではないぞ。分かったなー」
雀を見送った恵姫は縁側に上がりました。そこにはまだ磯島が立っていました。沈み行く夕陽を浴び、芍薬の花びらを手に乗せ、雀が消えていった空をぼんやり眺める磯島は、どこか別の世界からやって来た人のように見えました。




