紅花栄その一 巣立ち
間渡矢城の中庭に注ぐ四月末の日差しは、まだ朝だというのに眩しいくらいでした。新緑を通り越して万緑の木立に囲まれた中庭に立つのは、朝食を済ませた恵姫とお福です。お福は鳥籠を持っています。
梢の葉を揺らして吹き来る薫風に髪を揺らせながら、恵姫は青空を見上げました。
「ようやく晴れたか。今日という日をどれだけ心待ちにしておったか。此奴を拾って早十八日。浜へ行くのを我慢し、手に糞を捻り出されても堪え、雨の中の餌取りにも挫けず、ピーピー喧しく鳴き喚けば風呂敷と座布団をかぶせ、あっ、いや」
お福が険しい目付きで恵姫を睨んでいます。そんな扱いをしていたのかと言わんばかりの表情です。恵姫は慌てて言葉を切ると言い直しました。
「鳴き喚く時には餌を与えて心を落ち着かせ、そうしてようやくここまで大きく育てた此奴も、遂に今日、巣立ちの時を迎えたのじゃ」
お福はコクリと頷きました。それに応えるように鳥籠の雀は羽をばたつかせています。
『長かったのう、実に長かった。此奴のおかげで鯛漁の日から今日まで一度も海を見ておらぬのだからな。昼飯の後は思う存分浜で遊んでやろうぞ』
恵姫はすっかり大きくなった雀を眺めながら思いました。本当はもっと早く巣立たせてやりたかったのです。九日前に筍狩りをした時、ほんの僅かとはいえ空を飛んだことで、子雀の野生本能が目覚めてしまったのでしょう。その日以来、子雀は籠の中で羽ばたくことが多くなっていたからです。
翌日の初物筍料理賞味会が終わってからは、鳥籠から出す時間を徐々に長くしていきました。畳の上に置いたままでは飛び上ることはできませんが、手で持ち上げればそれなりに滑空できます。その距離も日毎に長くなっていきます。
「これならば明日にでも野に放てそうじゃな」
もうヒナでも子雀でもない一人前の雀になった姿を見て、恵姫は肩の荷を降ろしたようにほっとし、お福は立派に育った我が子を見るように顔をほころばせました。
ところが放そうと思っていた日は生憎の雨でした。雨の中へ放つのはさすがに気が引けます。そこで二人は雀を仕置き部屋に放ちました。その頃には雀はとても大きく育っており、小さな鳥籠の中では激しい羽ばたきによって翼を傷める恐れがあったからです。
「まあ、一日伸びたところで構わぬであろう。今日の内に別れを惜しんでおこうぞ」
ところが翌日も雨でした。どうやら走り梅雨がやって来たようで、雨はなかなか降り止みませんでした。そうして雀の巣立ちができないまま数日過ごし、今日、ようやく空に晴れ間が広がったのです。
「さあ、お福、鳥籠の扉を開けるのじゃ」
恵姫に言われて扉を開け、大きく育った雀を手の平に乗せるお福。何かを話し掛けるようにしばらく見つめ合った後、天に届けとばかりに雀を空に放ちました。
「おおー、見事に飛び立ったな」
雀は力強く翼を羽ばたかせ、空高く舞い上がっていきます。恵姫の心は今日の空を吸い込んだように晴れ渡りました。喧しく生意気な雀と過ごした日々、腹の立つことばかりでしたが、今となっては全てが懐かしく思い出されます。雀が飛び去った空を見上げているお福も同じ気持ちなのでしょう。少し目が潤んでいるように見えます。
「子はいつか親を離れ独り立ちするものじゃ。わらわたちは良い経験をさせてもらったのう、お福」
お福は頷くと空になった鳥籠に目を遣りました。寂しそうなお福の表情、しかし同時に、一仕事終えた時の満足感もそこには漂っていたのでした。
雀との別れを終えれば、二人にはいつもの生活が待っています。お福は女中としてのお役目、恵姫は取り敢えず午前のお稽古事です。玄関でお福と別れて座敷に戻ると、既に磯島が待ち構えていました。
「雀とのお別れは終わりましたか、姫様」
「うむ。犬も三日飼えば情が移ると言うが雀も同じじゃな。あれほど鬱陶しかったのに、いざ別れとなると寂しいものじゃ。しかしこれで何もかも元通り。昼からは浜へも行ける。そちらの喜びの方が勝っておるのう」
「それはようございましたね。今日からは今まで以上にお稽古事に励んでくださいませ。本日はお茶のお稽古でございます」
座敷には風炉や茶道具が運び込まれています。勿論、高価な名物などではありません。あくまでお稽古用の普通の茶器です。
「それでは始めましょう」
恵姫はお茶のお稽古が好きでした。茶道の侘び寂びの精神に共感しているとか、茶を服すと心身が落ち着くとか、そんな高尚な理由ではなく、単純に飲み食いできるからです。
先ずは磯島が茶を淹れます。恵姫はその仕草をぼんやり眺めていました。
「おや?」
障子の向こうから音がします。縁側に何かが居るようです。
「姫様、よそ見はおやめください」
磯島が注意しますが、恵姫は気になってたまりません。ガサガサゴソゴソと障子に何かを擦り付けるような音がするのです。茶筅で抹茶を点てている磯島は放っておいて、恵姫は障子を見詰めました。
「ややっ!」
大声を上げる恵姫。磯島も何事かと障子に目を遣れば、下の桟に近い部分に穴が開いています。恵姫は立ち上がると障子を開けました。
「ピーピー」
そこに居たのは雀です。この大きさ、この鳴き方、ほんのつい先刻、中庭で放したあの雀に間違いありません。どうやらこの雀が嘴で障子を突いて穴を開けたようです。
「こ、此奴。一体どのような料簡で障子に穴など開けたのじゃ」
「ピーピー」
「ピーピーではない。雀ならばチュンチュンと言わぬか」
この雀は鳴き方に特徴がありました。平常時は普通の雀と同じようにチュンチュンと鳴くのですが、腹が減ると甘えるようにピーピーと鳴くのです。つまりこの雀は今、腹が減っているという事になります。
「思っていた通りでございます」
いつの間にか縁側に来ていた磯島が冷めた口調で言いました。
「それはどのような意味じゃ、磯島。雀が戻ってくることが分かっていたとでも言いたいのか」
「どのような獣も鳥も、一旦人に育てられると野に帰るのは難しいと聞いております。この雀はお福に人一倍懐いておりましたから、すぐには離れられないのでしょう。餌をねだっているようですし、ミミズでも食べさせれば如何ですか。腹が膨れればまたどこぞへと飛んでいくでしょう」
「冗談ではないぞ。これだけでかい図体をして一人前に空も飛べるのじゃぞ。何が悲しくてこんな奴に餌を食わしてやらねばならぬのじゃ。放っておけ」
恵姫は座敷に戻って障子を閉めると、元通りに座布団に座りました。それでも雀は鳴き止みません。むしろ以前より一層大きな声で鳴き、翼をばたつかせ、ガソゴソ物音を立て、障子を突いて穴を開けまくります。しばらくの間は我慢していた恵姫も遂に堪忍袋の緒が切れました。再び障子を開けると雀に向かって怒鳴りたてます。
「いい加減にせぬか、この阿呆雀が。餌くらい己の力で捕まえたらどうなのじゃ。いつまでもわらわに頼って……あ、こら、何をしておるのじゃ」
恵姫に怒鳴られて雀も頭にきたのでしょう。縁側に特大の糞を捻り出しています。
「な、なんという恩知らずな雀なのじゃ。犬は三日飼えば三年恩を忘れぬと言うのに。ああ、もうよい。磯島、お福を呼んでくれ。これでは稽古にも身が入らぬ」
「分かりました」
磯島は座敷を出ていきました。しばらくしてやって来たお福は中庭でミミズを取って雀に与えています。やがて満腹になった雀は空に舞い上がってどこかへ飛んでいきました。
「これは、何とかせねばいかんのう」
雀が消えた青空を見上げながら、腕組みをする恵姫ではありました。




