台風が、きた!
九月に入り暑さは少しだけ和らいだものの、やってくるのは台風のシーズンである。
轟々とうねりを上げた波がテトラポットに打ち付け、激しく飛沫を上げた。そのたびに、ドーン、ドーン、と下腹に響く大きな波の音がする。
ううっ、怖いよぅ……
私は、いつもと違う雰囲気に、ただ身をすくめるしかなかった。
大型の台風は、日本列島どこにも立ち寄らず、天気予報によれば静岡の西寄りに上陸するだろうとのことだ。つまり、南からやってくる反時計回りの渦は、駿河湾からここ久能の陸地へモロに直撃する。
もちろん対策はしていて、一番景色がよく見える大きなガラス窓は、外側から木を打ち付けて頑丈な壁を作り、バックヤードでは風で転がりそうなものを屋内にしまった。
おそらくこちらに接近する頃には、海沿いを走る久能街道は通行止めになるだろう。
こんな大荒れの日は客も来ないため、早々に臨時休業と決め、店のホームページにもお知らせを入れる。明日は定休日である水曜日だから、珍しくも連休となった。
けれど、どうして私も店長も店にいるのかというと、大量注文を受けていた焼菓子の納期があったからだ。いつもご利用いただいているお得意様が店のイベントで配るらしく、焼き菓子の詰め合わせを三百個、木曜日までにお届けすることになっている。
店長には帰れと言われていたけれど、詰め合わせ三百……つまり、マドレーヌやフィナンシェなど、五種類の焼き菓子を一つに詰めるので、単純に考えて千五百個焼かないといけないのだ。
通販でもそれなりに数を出しているため、その作業は別に無理ではないのだけど、今は状況が異なる。
台風が来たからといって私が帰ってしまうと、店長が一人で作業をすることになってしまうのだ。頑張ればどうにかなるわけではなく、仕込み、焼き時間、冷ます時間、パッキングする時間、ラッピングする時間が必要で……一人じゃ徹夜でも間に合うかどうか、といったところだ。
私は、菓子作りの腕は悪いけれど、計量したり、洗浄したり、ラッピングしたりならちゃんとできる。とても店長だけでこなせる量じゃないのはわかっているから、反対されようが無理矢理残った。
「店長、これ」
「そうだ」
ようやくすべての菓子が焼き上がり、一つずつ私が脱酸素剤を入れ、店長がシーラーで圧着していく。
手分けして黙々とこなしていく間にも、風はどんどん強くなり、建物が軋むほどだった。ちゃんと対策したとはいえ、この音は不安をあおる。
単調作業だけど気が急くのは、この徐々に台風が近づいてくるという焦燥感だ。
夜の九時頃に静岡を通過すると言っていたが、ネットの天気予報を確認すると、速度が上がっていて夕方からより激しくなるようだ。
「台風、思ったより早く来そうですね」
「中心気圧がまた下がっているな……ここまで大きいのは久しぶりだ」
店長がラジオをつけると、緊迫したアナウンサーの声で、「台風接近に伴い雨風が強くなっております。外出を控え、河川の増水など注意してください」と繰り返していた。
続いて道路交通情報に移ると、県内各地の通行止めの情報が、淡々と読み上げられていく。その中でやはりというか、久能街道も例にもれず、雨量通行規制による通行止めになったようだ。
となると、裏の旧街道しか車で走れない。しかしあの道は自分にとって鬼門で、運転技術がイマイチな私泣かせの道幅の狭さだ。
しかも表が通行止めになったということは、当然裏に回ってくる車も多いということで……
うーん、いっそ台風が過ぎるまでここにいさせてもらって、それから車で帰ればいいかな?
台風さえ過ぎてしまえば雨も風も収まるし、夜中ならば交通量も少ないないだろう。夜中の運転は苦手だけど、背に腹は代えられぬ! 家に帰るのが遅くなっても、明日は定休日だから問題ない。
よし、そうしようと思考を切り替え、店長に申し出た。
「あの、店長?」
「なんだ」
「今日、雨や風が弱くなるまでここにいていいですか? ちょっと運転怖いんで……」
ハイトワゴンタイプの私の車は、車高が私の背くらいあるので、風を受けるとハンドルを持っていかれやすい。運転技術が未熟の私が旧道を通るのは無謀なので、安全策を取りたいのだ。
「すまん、もっと早く帰してやれば良かったんだが」
店長は店長で、私が仕事に来てしまったことを申し訳ないと思っていたようだ。
「いえいえいえ! 私が勝手に押し掛けたようなもんですし!」
本当に言葉のままだけど、最初からここに来るのを反対されていたのだから、自己責任だ。
「それに、この仕事もうちょっとかかりそうですよね。どのみち遅くなるなら、その方がいいと思って」
焼き菓子の詰め合わせは、ただ袋に入れるだけじゃなくて、リボンを巻いたりするところで時間が取られてしまうのだ。数が数だけに、少なく見積もってもあと三時間は必要と思われる。
「さあ、早くやっつけちゃいましょ!」
自分に喝をいれるために、元気よく声を上げる。でも、店長は何故か手を止めて難しい顔をしていた。
「てんちょ?」
「……実加、お前今夜ここに泊まっていけ」
「へっ?」
思いもよらない提案に、声がひっくり返った。
「通行止めや道路の水没などあるようだから、そのような状況で帰すには危険だ。台風一過の明朝なら規制解除で表の道も行けるから、そうした方が親御さんも安心だろろう」
確かに……。得意ではない夜の道を、運転しなくていいのならぜひぜひ泊まりたい。
「じゃあ、そうしようかな」
頭の中で、メイク落としはないけど何とかなるかな、着替えは……一日ぐらいなら我慢しよう、シャワールームがあるから汗だけ流そう、など泊まるための段取りを考えながら答える。
そして、スマートフォンを取り出して台風情報を見ると、勢力拡大しながら御前崎の方に近づきつつあるけれど、もう少し東に進路を変えながらこちらに向かってくるらしい。
九時過ぎには上陸するだろう、というところまで見て、店長に「電話かけますね」と断りを入れた。
「あ、もしもしお母さん?」
家に電話を掛ければ、やはり心配をしていた母親がすぐに出た。泊まると伝えたら、少しほっとした声が聞こえた。心配な道中より、職場にいた方が安心できるらしい。
「――うん、わかった。大丈夫だよ、明日休みだからゆっくりできるし。――うん、じゃあね」
ひとまず、これで帰ることを気にしなくてよくなった。小上がりの押し入れには、一組の布団があるので、それを借りて寝ることができる。
――店長がたまに使ってるのよね……
仕事が遅くなった時など、ここで寝泊まりしているのは知っている。もちろんシーツは洗濯をしているし、天気のいい日など店から見えないところで布団を干したりもする。
その布団を私は借りるんだ、と思ったら、なんだかドキドキしてしまった。
だって、店長の布団で寝る……布団で……
「実加、なにか親御さんに言われたのか? 顔が溶けてるぞ」
「びゃっ! いいいいいえ、なにも、なにもないです!」
気持ちが表情に出てしまったらしく、店長に指摘されて慌てて頬をパンパンと叩き、「仕事しましょ! ね!」と空回りの元気を振りまいた。




