まさかの縁
って、結局店長がどういう経緯でオーナーの店をやることになったの!?
ついでに聞けばよかった……
それに気付いたのは、仕事が終わって自宅に着き、お風呂に入っている時だったので、考えが回らなかった自分に激しく後悔をした。
明日は仕事が休みで、お母さんはもうお風呂に入った後で、お父さんは一泊二日の出張に出ている。だからたまにはゆっくりと湯船に浸かるのもいいと思い、足を延ばしてぼんやりと天井を見ていた。
ゆっくり浸かるのはいいけれど、その間は温まる以外することがなく、そうするとグルグルと余計な事まで考えてしまう。
『店長は、前のお店のこと知っているんですね。どうして働くことになったんですか?』
改めて聞くにも突然すぎるし、その流れにどう持っていったらいいか分からない。
オーナーの奥様が切り盛りしていたという喫茶店。旅行者メインで日中のみの営業……
もしかしたらその客の中の一人だったのかもしれない、という想像はできるけど、それはあくまでも推測。店長はどこの生まれで、どこで育ち、どこであの筋肉を身につけ……どこで、この店に縁を持ったのか。
聞けば答えてくれそうだけれど、どうして聞きたいかと聞かれたら、きっと言葉に詰まる。一年以上の付き合いで、ここまで個人情報を知らないことの方がおかしいのに、それをおかしいと思わなかった自分にもショックを受けた。
だから、知りたい。
でも、なんで?
個人的な興味で?
個人的なってどういうこと?
興味だけでここまで気になる?
店長の見えない壁もそうだけど、私は私で自分に対して見えない壁を作っている気がする。その先を出るのが――怖いから。……怖いから? なんで怖いの? だって――
「実加ー! いつまで入ってんの!!」
「きゃっ! ゴボッ……い、いま……でるっ!」
洗面所からお母さんの声で我に返り、顎まで湯につかっていた私は溺れそうになりながらジタバタとお風呂を出た。
とにかく、オーナーの歴史に触れることができ、また少しOCEAN BERRYの一人として本当の意味で馴染めてきたのかな、と内心嬉しかった。
もちろん、仕事をするうえでちゃんと私の役割もあるし、店長もオーナーも、今では“私がいる”のが当たり前になっているようなので、そのあたりは満足している。だけれど、それよりもっと深い所に入れてくれたんだなと思うと、胸の奥が温かくなってこそばゆい。
ドライヤーを取り出し、熱風を手櫛で髪の根元に送ると、じわりと汗が滲んでくる。もうじき真夏日が連日続くと思うと、ちょっと気が遠くなるけれど、なんとか乗り切りたいな。
一年前と比べ、肩に届くようになった自分の髪を、鏡越しに眺める。
あれから一年――この店に勤める! という決意を込めて、背中の半ばまであった髪をショートカットにした。美容院は、髪形を整えるくらいにしてもらって伸ばしていたので、ようやくまとめ髪ができる長さになったのは嬉しい。……夏って暑いから、縛った方がかえって涼しいのよね。髪を乾かすのは暑くて敵わないけれど、扇風機を併用して少しでも早く乾くように工夫している。
いまだに幼さの残るこの顔。あと一週間で誕生日がやってくるというのに、とても二十二歳になるとは思えない。もうちょっと大人っぽい顔に生まれたかったな。お母さんは年相応だけど、お父さんが若干若く見える面立ちをしていて、「よく姉さん女房に思われるのよね!」と愚痴をこぼしていた。そのお父さんによく似た私は、やはり年齢より若く見られ、それがちょっぴりコンプレックスだったりする。飲み会の席では必ず免許証を携帯したりと自衛しなければいけないほどだ。
花に例えるなら、私は朝顔か向日葵か――元気はあるけど小さい子にも育てられる簡単さ。なれるものなら、百合や胡蝶蘭になってみたい。しとやかさや色気と無縁で来た今日この頃。もう何年かしたら、大人の雰囲気は身に付くのだろうか……
目の前の見慣れた姿は、二年前とそう変わらない姿で私と目を合わせていた。ほんの少し視線を下げても、そこは変わらずで。……揉めば大きくなるって、誰か言ってなかったっけ……?
ごくり、と喉を鳴らし、そっとそこへ手を触れようとしたところで、「実加!」となかなか出てこない私に、またもお母さんから呼ばれ、心臓が跳ねあがり体は飛び上がって、うっかり柱の角に頭をぶつけて大きなたんこぶを作ってしまった。
「うぅぅ……痛い……」
驚いた理由が理由だけに、本当の事を言えずに、『足が濡れてて床で滑らせて頭をぶつけた』ということにする。お母さんが、いつか使うかもといって集めている、持ち帰りサービスでもらう保冷剤をハンカチタオルで包んでたんこぶに当てた。
「もー、実加っておっちょこちょいなんだから。お店でもしっかりやれてるの?」
「うるさいなー。仕事はちゃんとしてるってば」
「どうだか。また今度店に行ったら、店長さんに聞いてみなきゃ」
「来なくていいってば」
勤め始めた当初、閑古鳥の鳴いていた店に色々なお客様を連れてきてくれたお母さんだけれど、確かに当初は新規開拓の意味もあってありがたかった。ありがたかったけれど……嫌だ。
店に来るたび店長を捕まえ、私の幼い頃の思い出や学生時代の失敗談など、あれもこれもペラペラと話してしまうから、嫌で嫌で仕方がない。
お母さんに、不愛想な店長が怖くないの? と聞いてみたことがあるけれど、筋肉好きなのでそこは問題ないらしい。人として会いたいというより、筋肉を愛でに来るのが一番メインらしいのだ。回数を重ねるごとに店長も慣れたらしく、当初より慣れた表情が見て取れる。ほぼ一方的に会話に引きずり込むお母さんだけど、そんな妻を見て、お父さんは呆れて何も言わないけれど、本心はどう思っているのやら。
冷蔵庫から水出し緑茶の入ったボトルを出し、水切り籠に入っていたコップを取って注ぐ。お風呂に長いこと浸かっていたから思ったより喉が渇いていて、体が求めるまま冷たいお茶を一気に飲み干した。
「あ、これこれ! 実加はこの服お気に入りだったのよねー。やだもうちっちゃいー」
リビングから、はしゃいだ声が聞こえる。
お母さんは、新しくプリントした写真を収めるため、ダイニングテーブルの上にアルバムを広げていた。ついでに昔の写真を見ては、様々な思い出に浸っていたようだ。
……というか、お母さんって結構マメなんだね。ちゃんとプリントしてアルバムに貼るって、いまどきなかなかやらないだろう。私だって、スマホで写真撮ったらそれで満足するタイプだ。データフォルダに管理だけして、見たい時にはスマホのアルバムで見るだけなので、このようなアナログのアルバムを用意しよう、とはなかなか思えない。
と、ここまで自然に考えていたが、よく考えればスマホなんて私が高校生の頃広まったし、お母さんの時代は携帯電話はおろかデジカメだってなかった……らしい。不便だっただろうな、よく知らないけど。
だけど、やっぱり手に取って見るって……いい。
お母さんが見ていた写真を、横からどれどれとのぞき込むと、そこには幼い頃の自分がいた。写真の向こうの家具や衣服が時代を感じさせるけれど、写真に写る自分は満面の笑みを向けていた。お父さんに写真を撮ってもらうのが大好きだったこの頃。精いっぱいの笑顔をファインダー越しに見せていたんだな、となんとなく胸の奥がキュンとした。
お父さんは、本気仕様のカメラを持っているわけではなかったけれど、家族のこういった節目の写真は必ず撮ってくれた。それを、お母さんがアルバムに整理する。家族の歴史だからな、と夫婦で笑いあうのを見ると、なんとなく胸がほっこりする……気恥ずかしくて言えないけど。
他にも、家で誕生会を開いている写真や、卒業証書の筒を持ち、学校の正門でおすまし顔で立っている写真……。当時はなんでわざわざ、と思ったものだけど、今こうしてみるとどういう時に撮った写真か一目で分かるというのはいい、と理解ができる。
ふぅん、とか、やだお父さんこの頃もっと若いー、とか、お母さんと思い出話に花を咲かせながら、昔のアルバムをペラペラと捲る――と。
「実加?」
ぴた、とアルバムのページを捲る手を止めたので、お母さんが顔を上げて私を見た。だけど、私はなぜかアルバムに挟まれた一枚が気になり、その写真から目が離せない。
私の視線の先がその写真だと気付いたお母さんは、「やだー、これも懐かしいわー」と、頬に手を当てながら言う。
「この頃実加は何歳だったかしら……えーと、このお気に入りの帽子してるから……幼稚園の頃ね」
写真の向こうの自分は、しっかりと正面を見てほっぺたに手を当てる、というその当時お気に入りだったポーズで立っていた。お気に入りだった、と言われた帽子の事も、確かに覚えている。麦わら帽子に向日葵のワンポイントがついていて、外へ出るとなったら例え近所へ回覧板を回す時でも被らなければ気が済まないくらいに気に入っていたのだ。
その私は、写真でしか見たことのないおばさんと二人きりで建物の前に立っていた。旅先での一ページだと思って、今まで何一つ気にしたことがなかったのに、今……建物に書かれている文字が目に飛び込んできたのだ。
そこには……
“OCEAN BERRY”
「おかーさん! おかーさん! ここ、どこ? どこなの!?」
「はぁ? ここってどこのことよ?」
写真から目を離さずに震える声で尋ねると、違う写真を見ていたお母さんは、若干面倒くさそうな声で顔だけをむけた。
「だから! この写真撮った場所!!」
ビシッと建物が映る写真を指さすと、お母さんは首を捻りながら頬に手を当てた。
「あら~、そういえばここはどこだったかしらねぇ? 家族旅行でドライブしてた頃だから……場所はお父さんに聞けばわかるかもしれないわ」
しかし、お父さんは出張だから今夜は帰ってこない。電話? メール? と思ったけれど、接待で食事会の後飲みに行くような事を言っていたから、連絡するのも憚られる。
ヤキモキするけれど、明日の帰宅を待って尋ねた方がよさそうだ。
お母さんに許可をもらい、この一枚の写真を借りた私は、自室に引き上げてベッドを背にし、床に座る。
OCEAN BERRY……
もしかして、もしかしたら。
実は私と縁があったんだと思うと、言葉にならない感情が湧き上がって胸いっぱいになり、今にも町内中を駆け回りたいほどだ。もちろんできるはずもなく、持て余した衝動は、仰向けに床へごろんと転がって足をジタバタするだけにとどめた。
私……もっと近付ける。
それを思うと、切ないような苦しいような、そんな気持ちがきゅうっと胸に広がり、そしてなぜか世界中の気配すべてが愛しく感じた。




