思い出のプリン
たぶんこのまま。
ゆったりと同じような時が、このままずっと過ぎていくんだと、そう思っていた。
けれど変化の時は、向こうからやってくる。
* * *
客足は開店からボチボチといった感じで、私は店内を見渡せる位置で通販用の焼菓子のラッピングをしていく。こちらも固定の客が付き、時には結婚式の引き出物にしたいなど、大量注文がはいることもある。そういう時は残業または休日返上となり、店長と二人で黙々と作業を進めていくのだ。しかし店長は私が大丈夫だと言っても、まだ独身だし親御さんが心配するからと、二十二時時には帰らされてしまう。もう大人なのに……と不満を漏らそうものなら、店長は不機嫌オーラを隠さないので大変居心地が悪く、仕方なく帰宅するのだ。
そして、店長は決まって親に電話を一本入れる。今帰りました。遅くまですみませんでした、と……
それこそ子ども扱いだと思うけれど、両親はいい店長さんねーと評価が高い。私の不満なんて言おうものなら膝詰説教二時間コースに入るから、この状況を甘んじて受け入れるしかないのだ。
「それにしても……今日は遅いな」
リボンを括る手を止めて時計を見上げると、時刻は十時半を少し過ぎたあたり。いつもだったらオーナーが十時にコーヒーを飲みにやってくるのに、今日はまだ店に来ていないのだ。
自宅は店から徒歩五分程度だったと思う。朝は畑作業をして、休憩がてらコーヒーを飲みに来るのが日課だった。一人暮らしだし、もしかして何かあったのかなと考えが一瞬過る。そうしたら、なんだかいてもたってもいられなくなってしまい、窓の外を見たりバックヤードに行ったりとソワソワしていたら、店長が「どうした」と声をかけてきた。
「あの……オーナーがまだ来られないんです。もしかしたら病気でも?」
すると店長は、ふっとレジの側に掛けてあったカレンダーに視線を向けた。そして「あぁ……」と喉の奥に何か詰まるような声が漏れた。
「心配ない。じきに来るだろう」
店長は、オーナーの事情を知っているようだ。一抱えもあるボウルを洗い終え、蛇口をひねって水を止めた店長は、今度は壁にかかる時計に視線を向け、店内のカウンターへ向かった。
「店長?」
「そろそろだから準備をする。実加、あのテーブルをもう一度綺麗に拭いて、そこの花瓶に外で咲いている花をいくつか活けてテーブルへ」
あのテーブルとは、私がこの店に来て一目ぼれした、景色が一望できるいつもの場所である。店長の指示に、どういった理由でこうなったのか訳のわからないまま指示に従う。
丁度そのテーブルは空いていたため、台拭きで綺麗に拭いて、メニュー表などを綺麗に並べ、手のひらサイズの花瓶を置いた。何か特別なお客様でも来るのかな? と、首を捻っていたら、ドアベルがチリンと鳴り、お客様の来店を知らせる。
「いらっしゃいま――あ、オーナー?」
「やあ実加ちゃん。ちょっくら遅くなったけぇが、いつもの頼むよ」
「は、はい」
オーナーは、いつもより少し元気がないように見えた。服装も、喪服……ではないけれど、暗い色でまとめられ、どこかいつもと雰囲気が違っていて近寄りがたい。そして何より違ったのは、いつものカウンター席ではなく……たった今店長に指示されて整えたばかりのテーブルに座ったことだ。
その姿を見て、私は唐突に思い出した。去年も、確か同じようなことがあって、でもなんとなく聞けない雰囲気で……そう、確かに去年と同じ日だった。
今度こそ、これはどういうことかと店長に聞こうと意を決した私は、くるりと振り返る。すると店長はトレイにコーヒーを二つ、プリンを一つ載せて、オーナーの所へ運ぶところだった。
「あの……店長?」
「後で」
説明するから、と目で言い残し、オーナーのいるテーブルに着いた。そして一言二言交わしながら、コーヒーをオーナーと、その向かいにも。そしてプリンも、誰も座っていない席の方に置かれた。
特に凝ったつくりではないそれは、型から外して天辺に生クリームをひと絞り、そしてその上に缶詰の真っ赤なさくらんぼを載せた、昭和チックなデザート。
年配のお客様からとても評判がよく、持ち帰り用に注文が入ることもしばしばあった。
二、三会話をしたのち、軽く頭を下げて、店長は調理場に戻ってくる。
「あの、どうして誰もいない席に……?」
トレイを所定の位置に戻し、在庫管理の帳面を開きながら、店長は声を潜ませる。
「――今日は、オーナーの奥さんの命日なんだ。その日は決まってあの席で、コーヒーを二つ用意することになっている」
「え……奥様の……?」
私がこの店に来た当時から、奥様の姿はなかった。勤め始めてから、随分前に亡くなったという話を、お客様の会話から耳にしたことがある。そういう話題ってちょっと出しづらく、店長もオーナーも改めて私に言ってくるというものでもないから、なんとなくそうなんだ、と心の中に置いておいた。
つまりその随分前から店長はオーナー夫妻と面識があって……?
店長は、どういうきっかけでオーナーと知り合い、この店の店長になったんだろう。もう一年ここにいるというのに、なんとなく聞きそびれたままだった。
扉を開けて、チェック項目に数量を書き記している店長は、今年で三十四歳になる。幼い頃や学生時代の事、今に至るまでの過去……
「……実加にまだ言ってなかったか?」
帳面から顔を上げずに続ける店長の声で、ハッと我に返る。
無意識とはいえ、店長の顔を凝視していただなんて!
「え、えっ、ええ。そうですね。えっと、それっぽいことは、お客様から、ちょっとだけ」
――言ってなかったか……か。
そういった事情を、今頃というか、今更教えてもらうのが、なんだか寂しく思った。私にそんな興味ないんだな、とか……わざわざ言う事でもないと判断されてたんだな、とか……
無理矢理意識を戻し、気を使ったわけではないけれど、他から聞いたことを思い出したフリをした。そんな私の動揺など知らない店長は、それ以上話を広げる風もなく、チェックが終わったらさっさと発注をしに調理場に戻ってしまった。
再び客席へ目を向けると、オーナーはただ静かに窓の向こうを眺めている。残暑の光が煌めく、海の向こうへ――
「実加ちゃんやぁ、えらい心配かけたみてぇで、悪ぃっけやぁ」
オーナーが私に声をかけてきたのは、それから暫くしてからだった。朝一の客が引けて、ランチタイム前のちょっとだけ静かな時間。
ちょいちょいと手で招かれ、何かなとオーナーのテーブルへ近づくと、私にプリンを寄越してきた。椅子も勧められて、いや休憩じゃないし……それに奥様を偲ぶためのプリンなら、貰うのも悪い気がして……と、躊躇っていたら、オーナーはハハハと肩を揺らして笑った。
「ちいっとばかじゃ雅も怒らねぇら。それにほれ、このプリンもかえ~そうら? 実加ちゃんに食べてもらえりゃ助かる」
それじゃあお客様が来る前にちょっとだけ……と、お言葉に甘えて席に着く。いつもは一人で座る席に、向かい合ってオーナーがいるという面接以来のシチュエーションだけど、不思議と気持ちは落ち着いていた。
いただきます、と手を合わせ、スプーンを手に取る。目の前には黄金色をしたプリンだ。
このプリンは、昔ながらのいかにも“プリン”といった見た目をしている。丸くて平らな頂上には濃い目に作られたカラメルがあり、そこへホイップクリームがひと絞り。そして真ん中に缶詰の真っ赤なチェリーが一粒ちょこんと置かれている。お店で出されるプリンを想像してと言われて、頭に浮かんだそのままの姿をしているのだ。
もちろん私もプリン作りに挑戦している。が、まずカラメルの焦がし具合で躓き、温度調節で失敗し、液状のプリンか、〝す〟どころではなく、どうやったらこんなにガチガチに出来るのかむしろこちらが知りたいと言いたくなるほど固くなったものしか、今のところ〝成功〟していない。
あとは、その前段階で躓いているからカウントできないのだ。
そんなほろ苦い思い出はともかく、このシンプルなプリンについて、私はちょっぴり不思議に思っていた。
店長ならもっと凝ったプリンが作れるし、デコレーションも完璧なのに、どうしてこんなシンプルなままなんだろう。
何度か店長手作りプリンを食べたことはあるけれど、味はびっくりするほど美味しかった。プリンなんていまどきコンビニスイーツでもかなりレベルが高いのに、このプリンに至っては足元にも及ばない。とろけるタイプではなく、弾力があってスプーンを差し込むとかなりの手ごたえがある。しかし、口の中に入れた途端舌の上でとろりと溶けて、卵と牛乳、そしてバニラの風味がふわっと鼻に抜けていくのが堪らない。それでいて、どこか懐かしい……幼い頃食べた味を思い出すかのように、胸の奥がキュンと切なくなる――
夢中になってスプーンを動かし、気付けばあっという間に平らげてしまった。
オーナーそっちのけでプリンを食べていたので、ニコニコと笑みを浮かべて見られたことに今気づき、顔がボッと燃えるかのように熱くなった。
「あ、あ……すみません! あまりにも美味しくて、つい夢中で食べちゃいました!」
「ええよええよ。雅が同じようにこさえてくれるし、こんなに美味しそうに食べてくれる子がいるなら、うちんのも喜ぶだろうて」
「えっ、このプリンのレシピは奥様のなんですか!? すごく美味しいです!」
うちの――っていうのは、きっと亡くなった奥様の事だろう。そしてプリンは奥様のレシピを再現したもので……。目を細め頬を緩めるオーナーは、奥様の姿を私の座るこの席に偲んでいるのかもしれない。




