青天の霹靂
やがて食事も終わり、席を立つ。賭けに勝った梅原の分は、私を抜かした四人で飲み代を奢ることになっているようだ。
私も参加する飲み会は夜の七時から。それまでまだ時間があるので、女友達二人は近くの久能山東照宮の階段を上ってカロリー消費するぜ! と、店を出ていった。少しだけでも、という乙女心なのである。
梅原だけは残ったので、コーヒーのお代わりを飲みながら景色を楽しみ、私も仕事の合間を見て懐かしい話に花を咲かせる。そうして、ゆったりと時間が過ぎていった。
これ以上歩けないよ……と女友達からのメールで、梅原は麓にある鳥居近くまで車で迎えに行くことになった。ランチとコーヒー代をレジで支払い、他の客がいなかったこともあって、私は店の外まで見送りに出る。日が傾き、抜けるような青空は、徐々に赤みがじわりと滲んでいくようだった。
「えーと、七時に駅の改札だっけ」
「おー。仕事の後だけど大丈夫か?」
「ぜんっぜんヨユー!」
梅原の家で飼っている犬の話や、放課後よく立ち寄っていた駄菓子屋さんにお孫さんが産まれたという話をしながら、駐車場に連れ立って歩く。梅原はポケットから車の鍵を取り出し……そこでふと、手に持った鍵に視線が落ちて、それからゆっくりと顔を上げて私を正面から見つめた。
「なあ……」
「ん? なに」
「デート、しないか」
梅原から飛び出したのは、全く予想もしていなかった言葉だった。
デート? デートって何だ。突然の単語に意識がついていかず、ただ口だけが動く。
「なんで」
「うるせえ。行くか行かないか、どっちだ」
「……休みは平日だし、土日休むんだったら店長に言わないといけないから……」
「じゃあ土曜日で休み取ってくれると助かる。んー、なるべく早めがいいな。日が決まったら電話しろよ。いいか、メールじゃ駄目だからな」
だって、お前ってばメールだと逃げようとするし、と梅原は笑う。
梅原の視線を外せなかった。口元は笑っているのに、瞳の奥にあるのは決意だったから。
それをまっすぐに受け止めた私は、ぎゅっと全身を縛られた気がする。
「わかっ……た。電話する」
壊れた機械仕掛けの人形のように、ぎこちなく頷くと、梅原はそこでようやく頬を赤らめて「じゃ、じゃあな! またあとで!」と車に乗り込み、あっという間に行ってしまった。
その場に残された私は――
デート?
デート??
急にその単語が全身を駆け巡り、ようやくデートと言う言葉の意味を理解をした途端、足はくるりと回れ右をして店に飛び込んだ。
「てんちょーーーーーー!!」
「なんだ騒々しい」
「デートを申し込まれました!!」
ガシャーーン!
「うわ店長! ちょっとそれ大丈夫ですかーー!?」
私の声に驚いたのか、店長は大きな天板を派手な音を立ててひっくり返してしまった。
幸いにも、オーブンから取り出して暫く時間が経っていた天板だから、怪我もなくてよかったけれど、落とすだなんて店長らしくない。
「何やってるんですか。危ないでしょ」
「お前が急に大声を出すからだ!」
よいしょと、一抱えもある大きな天板を、店長は掛け声の割に軽々と持ち上げて棚に戻した。腕まくりされた前腕部の筋肉が、スジッと浮き出て、それを見てどきりとする。……朝に見た店長の裸体(上半身のみ)を見たせいか、どうも筋肉に対して過剰に反応してしまう。私はどうかしちゃったのかもしれない。少し前は隆々の筋肉に対して嫌悪感しかなかったのに、どういうわけか視線が吸い寄せられてしまうのだ。
それを無理矢理引きはがし、明後日の方向を見る。
「店長も驚くことあるんですね」
「お前が大声を出すからだろ!」
客がいないのをいいことに、動揺した心を鎮めるため、厨房に面した小上がりに腰掛けた。
店長は、倉庫に置いてある二十五キロもある小麦粉を軽々と二袋運び、大きなボウルなど片付け、細々と厨房内を動き回る。あんな大きな体をしているのに、よくもまあ体をぶつけずにいられるものだと、足をぶらぶらさせながら、ぼーっと眺めた。
しかし、じわじわと先程の衝撃が脳内を浸食してくる。
……友情以上の感情を持っていない相手に、どう返事をしていいものか。
一緒にいて気楽な相手だけれど、それが恋愛に発展するとか想像もつかないのに。
「てーんちょー」
「……」
「ねー、店長」
「……」
「私……デートした方がいいんですかね」
気付いたら口から滑るように出た。小さな呟きにもかかわらず、その声は店長の耳に届いたらしい。憮然とした表情で口をへの字に曲げて私に顔を向けた。
「俺に聞くな」
「ですよね……」
店長に聞いたところで関係がないのに。
もしかしたら、選択の責任を店長に丸投げしようとしたのかもしれない。無意識の上だとしても逃げようとした自分がとても恥ずかしくなった。
俯いた目の前にある自分の足先を見ながら、ふう、と溜息を一つ吐き、足にぐっと力を入れて立ち上がる。考えても答えはすぐでないし、いまサボっちゃった分、仕事しなきゃ。
「補充行ってきまーす」
紙ナプキンや砂糖など、細々したものを揃えたりしようと、厨房から出ようとしたところ、後ろから声をかけられた。
「行って来い」
「……え?」
「デートだかなんだか知らんが、行って来いと言っているんだ」
思わず振り返ると、店長は背中を向けていて、何かをタワシでガシュガシュと洗っていた。背中が広いから手元に何があるのかこちらからは見えないのだ。
店長からの、まさかの後押しで、嬉しいよりも先に戸惑いの方が強く胸に刺さった。
「で、でも……」
「休みならいつでも構わん」
こちらに背を向けたまま、店長は休みの許可をくれた。大変ありがたい申し出なはずなのに、私は何故か心が重くなり、素直に喜べなかった。




