イチゴのアイス
「嘘でしょ……なんで」
家にいてもソワソワと落ち着かないため、いつもより少しだけ早く自宅を出て、店に入るなり冷凍庫に直行した。なぜなら、完成していないのはアイスだけだったから。
逸るまま冷凍庫の扉を開けると、そこには……
いやいや、でもでも、違う、え? でも、これは、なにかの、間違い……だよね!?
脳内で描いていた姿と違うものがそこにあった。現実を直視できず、何度も瞬きを繰り返し、何度も首を振ってみたけれど、夢でも幻でもない“それ”は、変わらず同じ姿で鎮座する。
「実加、ちょっと出掛けてくる。準備始めてくれ」
「っ! あ、は、はーい!」
店長の声が、バックヤードから聞こえた。朝早くから店に来ている店長は、週に三回は開店前に外出している。どこへ行くのか聞いてみたら、『東照宮の階段のぼり』だそうで……
千百五十三段もある石段、年配者がゆっくりと登るなら大体三十分、景色を眺めながら登る私で十五分。ちなみに店長は? と聞いたところ、五分前後とかいって……た。
店長……何を目指しているんだ……
筋肉がガッチリ保たれているのも、このように運動をしているからである。もちろん、これだけじゃなくて自宅ではもっと何かしらの筋力トレーニングをしているらしいけれど、逞しすぎる体が怖い私は、詳しく聞く気にもなれない。ただ、お母さんが筋肉スキーなので、店長の筋肉についてよく聞かれるのがちょっと困る。腕周り何センチとかどうでもいいのに!
そのくせ細身なお父さんと結婚したのはどうしてなんだろうね。筋肉スキーなのに。
とにかく、店からジョギングしながら東照宮まで往復するので、三十分は帰ってこない。今の内にアレをなんとかしなきゃ! アレを!
開店準備を始めながらも、そのことだけで頭がいっぱいになる。きっと何かの間違いで、時間をもう少し置いたら違うかもしれないし、きっとそうに違いないだろうから。しかし、途中何度冷凍庫を確認しても状態は変わらず、頭の中でゲームオーバー、という文字が躍りだした。
これは……
そうこうしている間に店長が戻ってきた。Tシャツに膝下丈のジャージズボンの姿で、汗がびっしりと全身から噴き出している。うおお、迫力ある……初対面がこんな姿だったら、私はきっと悲鳴を上げて脱兎のごとく逃げ出すだろう。店長に見慣れている私は、そこを何とか持ちこたえた。
店長は厨房の冷凍庫前に立っていた私に「今帰った」といい、戸棚からグラスを取り出して水を一杯汲み、ぐっと飲んだ。ごく、ごく、と喉仏が上下する姿は、本当に男くさい。
もう一杯水を飲んだ店長は、汗だくになった服を着替えるため、隣の和室へ向かう。そして靴を脱いで上がり框に足をかけたところで、唐突にTシャツをズバッと脱いだ。割れ割れの腹筋や盛り上がった背筋、逆三角の背中などバッチリ見えてしまい、気を抜いていた私は思わず叫んだ。
「ギャーー! 筋肉ムリーー!!」
店をいつもの時間に開き、徐々にお客様が来店する中、私が一番大好きなテーブル席に予約の札を置く。ここからの景色に惚れこんで押しかけ店員になった、というのを友達たちはよく知っている。だから、ぜひともこの席から私自慢の景色を見せたかったのだ。
来店したお客様から注文を受け、店長にオーダー表を渡す。
「えと、あの……さっきはすみませんでした」
開店前だからまだよかったけれど、あんなに大声で叫ぶ内容じゃない。私は今年で二十一になる大人なのだ。冷静になればなるほど、申し訳なくなってきててしょんぼりと背中を丸めた。
すると店長は、厳つい顔をぷいとあさっての方に向けながらボソボソと言う。
「いや……俺こそ悪かった。つい……いや、とにかくこの件はもう終わりで。着替えは気を付けるし、実加は大声出さないように。以上」
つい? ついってなんだ。
言いかけたその先が気になるけれど、店長の視線につられてその方向に視線を向けた瞬間――
「わーーーーっっ!!」
「言った傍からそれか!」
「ご、ごめんなさいっ!」
店内のお客様も、ぎょっとした顔して厨房を見たので、慌てて表に出て「失礼しました!」と謝り、再び厨房に引っ込んだ。そして、冷凍庫に飛びついて扉を開く。
「あああ……まだ駄目なのぉ……?」
バットを手に持ち、調理台に乗せる。そこにあるのは、ちっとも固まっていない――イチゴのアイスがあった。練習をした時には、そう時間がかからず固まったのに、なぜか今回は一晩冷凍庫に置いても固まらなかった。
やっぱり……致命的に不器用な私なのに、高望みしすぎたのかな……
己の腕は己が良く知っているはずなのに。
店長から教わるにつれ出来ることが増え、上手くなった……と調子に乗り過ぎたのかもしれない。友達に、少しでもできるところを見せたくて、見栄を張ってしまった。ちゃんと身に付いた実力ならいいのに、付け焼刃的な短期間の練習じゃ、上手くいかなかったということだ。それがこのタイミングで……というのは、ある意味当然の報い、なのかも。
「どうした」
店長が、オロオロする私の後ろからひょいと覗き込む。
折角教えてもらったのに、当日になって失敗するなんて……という、店長に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「ごめんなさい……アイス、できませんでした……」
悔しい。悔しい。
下唇をぎゅっと噛んで、感情を表に出さないよう押し殺す。
これまで私が失敗しても、攻める口調じゃなくて、どうしてこうなったかを丁寧に説明し、毎日ずっと練習させてくれた店長の姿が、頭の中をぐるぐる回る。
友達が来るまで、あと一時間もない。
こうなったら、みんなには正直に失敗した、と言おう……。笑って「だと思った」って言われるだけの事だ。悔しさは私だけの感情。それを周りに伝えたところでどうしようもない。
「いまは泣くな」
俯く私の後頭部を大きな手で包まれ、とん、とおでこを店長の厚すぎる胸板に押し付けられた。
いまは……?
どういう意味か分からず顔を上げると、店長の偏屈そうな表情があった。
「営業時間中だ。これはなんとかなるから、実加はちゃんと仕事しろ」
そうだ。いまは仕事中だ! パッと店内を見渡すと、最初に入店した人が椅子から立ち上がって、自分のバッグを手に取るところが見えた。
「店長!」
そう言って、店長からパッと体を離す。そして、目の前の胸板に軽くパンチを入れた。
「私、頑張ります!」
気合いを入れ直し、厨房からレジカウンターへと小走りにいくと、ちょうどそのタイミングでお客様が会計に来たところだった。
「ありがとうございます」
――間に合った。
落ち込んでいる暇はない……というか、落ち込んだ姿を客に見せるべきではないのだ。
『いまは泣くな』とは、店長からの公私を分けろという注意。だから私は気持ちを切り替えて、姿勢を正す。背筋を伸ばせ! 心からの笑顔を浮かべよ! 何度も何度も繰り返し胸の中で呟き、接客にあたった。ファミレスのアルバイトをしていたお陰か、自然と体は動くし、声も出る。もしこの店に社会経験のないまま来ていたら、全く使い物にならなかっただろう。今はむしろ二年の猶予に感謝しているほどだ。
店を出るお客様を見送った後、テーブルの片付けをし、コーヒーの追加注文を受け、いつも通りの仕事をこなしていく。
しかし表向きは努めて平静を装っているけど、内心は焦る気持ちでいっぱいだった。
店長は何とかなるって言ったけど……あれはどうするつもりなんだろう。ドリップの終わったコーヒーをテーブルに届けたあと厨房に入ると、店長が私を手招きした。
「実加、これを使え」
「えっ!?」
そして――




