OCEAN BERRYって?
静岡県駿河区から清水区に掛けて海沿いに走る久能街道。通称いちごライン。
ここは徳川家康公が祀られた久能山東照宮があり、近年国宝に認定された。
日光など全国にある東照宮のモデルとなった社殿は極彩色の総漆塗りをされた権現造りで、当時の建築技術や芸術が結集された見事な造りとなっている。
参拝は山の麓の石鳥居から千百五十九段もあり、なかなか大変な思いをする石段だ。しかし、大体の参拝客は、自家用車や大型バスで日本平を観光しながら、山頂で富士山を背に写真を撮り、東照宮がある隣の山と繋がれたロープウェイで訪れるのが定番となっている。
麓の門前には、イチゴ栽培をする農家があり、その多くの店でイチゴ狩りを楽しむことができる。観光イチゴ狩りの発祥の地らしく、一月初めから五月末までのシーズン中は、多くの観光客が訪れ、久能山東照宮とイチゴ狩りを楽しむのだ。
近くには、富士山が世界文化遺産として登録され、その構成資産となった三保の松原もある。それらを含め、この界隈は観光地として賑わうようになった。
そんな風光明媚な場所でのお話。
* * *
初めてこの店に来たときから、私の心は決まっていたのかもしれない。
ゴールデンウィークが終わり、イチゴ狩りシーズンもそろそろお終いといった頃。
高校三年生になったばかりの私――寺田実加とお母さんは、一年ぶりにイチゴ狩りにやってきた。
毎年同じ農園に行き、ビニールハウスを一つ貸し切って、石垣から零れ落ちそうなほどのイチゴをたらふく食べる。そして一年振りの体力測定とばかりに石段を登り、ふうふうと息を吐きながら参拝するのが恒例だ。
高校三年生ともなれば進学がかかっているから、学業成就のお守りを購入し、再び石段を降りる。
「いち、いち、ごくろーさん! っと」
千百五十九段の語呂合わせに合わせて、とんとん弾むように降りていくと、玉のような汗をかいているお母さんが、ぜぇぜぇと呼吸を乱しながら声を上げた。
「実加-、ちょっと、待って……!」
「もー、お母さんてば去年より遅いよ。毎日のウォーキング、もっと距離伸ばしたらいいんじゃない?」
「だってお父さんがすぐ疲れたっていうから」
夫婦で、夕方近所の土手沿いを歩いているけれど、お父さんはお母さんのお喋りが疲れるらしくて、だから早く切り上げたい、という本当の理由を私は知っている。
石段を降りながら、夏が来る前の爽やかな風と、眼前に広がる門前町と、その先に延びる駿河湾の美しさを、深呼吸と共に胸いっぱい堪能した。
往復するだけでもかなり体力を使ったため、イチゴでいっぱいだったお腹がぐーっと鳴る。親子だけに、お母さんも同じくお腹が空いたといった。そこで、軽く食べられるようなお店がないか、お母さんの運転する車で探しながら街道沿いを走っていると、一軒のお店が目に飛び込んできた。
「あっ! お母さんここ!」
「えっ? どこどこ??」
「あーもう行きすぎちゃったよ!」
「ちょっと待ってね――と。あら~、良さそうなお店ね」
何度もこの道を通ったことがあるのに、景色の一部としてしか認識していなかったお店。けれど、その時の私は何かを感じ取っていたのかもしれない。
通り過ぎたものの、ちょっと先で車をUターンさせて戻る。駐車スペースは店舗の奥にあり、交通量がそこそこある道沿いじゃないから、出入りが楽そうだ。
店の佇まいは、古くも新しくもないといった目立たない洋風な造りをしている。道路に面した窓が大きくとられているのが特徴的だ。よく見れば、植栽された木々や下草も、色の変化があり、よく手入れされているのが分かる。ガーデニングが趣味の母親は、いちいち「まあ」「あら」とうるさい。
「もーいいから。早くお店入ろ」
そういって、さっさと店の扉に手をかける。イチゴのステンドグラスがはめ込まれた重厚なドアを開けると、真鍮で作られたドアベルが、チリチリンと澄んだ音を立てて鳴った。そして板張りの店内に一歩踏み入れた私は、思わず息を呑むほどの美しさに心を奪われた。
「わ、あ……!」
海そのものが壁に、と思ったけれどそれは違い、東に大きくとられた窓から、キラキラと光る海面がまるで一枚の絵画のように店の壁に収まっている。これから初夏を迎える太陽の日差しは眩しい程で、より鮮明に景色が映りこむ。雲一つない青空の下、駿河湾を挟んだ向こう左半分に伊豆半島、右半分は太平洋を望むことができた。
「実加、早く座りましょう。お母さん疲れちゃったわ」
「あ、うん」
その景色が一望できる席に着き、メニューを開く。軽食やデザートが充実していて、平日はランチメニューもあるようだ。私はパフェと紅茶を、お母さんはチーズケーキとコーヒーに決めた。
「あら、誰もいないのかしら?」
表の看板は〝open〟となっていたから営業中に間違いないはずだけど、店員の姿が見えない……。外の景色ばかりに注意がいっていたから分からなかったけれど、客はよく見ればひとりもいなかった。きょろきょろと店内を見回すと、テーブル席とカウンターテーブル、その奥に厨房があるようだ。しかし、柱の陰になってあまりよく見えない。
「すみませーん」
痺れを切らしたお母さんが声をかけると、そのキッチンから返事があった。男の人の声? と思っただけで別に気にしていなかったけれど、メニュー表に視線を落としてもう一度顔を上げたら、そこには山があった――
「わっ!」
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか」
「あ、あ……と……え、実加! ほら、あなた注文して」
「え、うっそ、お母さんてば……。ゴホン。じゃ、じゃあ、このパフェとこのチーズケーキ。それと、この紅茶とコーヒー。以上で」
「少々お待ちください」
メニューを指さしながら注文すると、大男は伝票をエプロンのポケットから取り出した。大きな手で持つと、やたら小さく見えてしまう伝票に、これまた小さく見えるペンでオーダーを書きつけ、のしのしと厨房に戻っていく。その背中を見送りながら、母親と額を突き合わせた。
「ちょっと……大丈夫なのここ」
「うーん……凄い筋肉だったわね」
「おかーさん、見るとこ違う!」
「何か運動やっているのかしら。粗削りだけど男らしい顔もポイント高いわ」
「だーかーらーっ!」
お母さんは昔から細い男よりがっしりタイプが好きだった。今の男は厚みがなくてつまらないのよね、とテレビを見てぼやく位だから相当だ。だからここのお店の人に好感を持ったのかもしれないけれど、私は巨体が怖かった。熊のように大きくて、私なんて片手でひねられてしまいそうだ。
暫く母親の筋肉談義に適当な相槌を打っているうち、「お待たせしました」と大男がトレーを持って現れた。喉まで出かかった二度目の悲鳴を何とか抑え、テーブルへ視線を固定させる。
しかし……なんというか……これは! これは!!
「すごく美味しそうね! いただきます」
ニコニコと大男に声をかけ、お母さんはフォークを手に取った。
私も、スプーンを持ち上げる。
目の前に置かれたイチゴパフェ。グラスはどこにでもある形だけれど、その上に盛られた美しい盛り付けに心が奪われる。イチゴはキラキラ光って見えるほど瑞々しく、グラスの周囲や真ん中へふんだんに飾りつけられていた。頂点に刺さっている、繊細な模様が描かれたチョコプレートと棒状のパイを口に運べば、サクサクしていてこれだけでも充分美味しい。スプーンでバニラアイスの部分を掬うと、滑らかでとろりと蕩ける濃厚なミルクの味。それに、イチゴそのものの素朴な味のソースがかかっていて、その甘酸っぱさが何とも言えない。
「ねー、実加、ここのお店……当たりじゃない?」
お母さんのチーズケーキも、生のイチゴが添えられるといったレベルじゃなく、こんもりと盛られ、チーズケーキもどっしりとしている。コーヒーにぴったりだと、お母さんは幸せそうな顔をしてケーキを口に運ぶ。
何より、この景色と一緒に味わうことができるって……なんて最高なの。
お母さんとデザートを半分ずつ交換して、存分に堪能してから席を立つ。
レジには再びあの大男が来た。強面で無愛想とくれば、どんなに頑張ってもいい感情は持てない。
お母さんは気にしないらしく、「とても美味しかったわ。また来ます」と声をかけ、それをただお辞儀で返した大男。
美味しかったけれど、次はないな……と、この時はそう思っていた。