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場違いなところに来てしまったと、その若者は充分に自覚していた。
今自分のいる場所は北方で最も栄えている国の王が開いている宴の席で、周りにはこの国の重鎮たちやそれに連なる有力者、そしてこの国に関係している他の大国の王族や貴族たち。
そんな中でぽつりと、他に知り合いなどいない若者は佇んでいた。
はぁっと小さな溜息をついて手に持つグラスに注がれた度数の強いアルコールをちびりと舐めるように飲む。
このアーリヤという大国は主に貿易で栄えている。
北方の大陸で作られる絹や酒の類は品質がよく、短い春と夏の間に採れるという果物は糖度が高く頬が落ちるほどの甘味で、某国の王は愛する王妃の為にこれらを買い占めたと言われるほどだ。
貿易が盛んに行われれば商人たちが台頭してくるのが当然だが、この国の王はそれを上手く押さえ込み操っている。
当然、国が栄えると周りの国々もそれにあやかろうとする。
他の大国が決して戦を仕掛けて力づくでねじ伏せようとしないのは、ここが北方の地で攻め入るには色々と不利なことが多いということに加えて、この国に住む人々の気質も大きな理由だろう。
普段は穏やかな気質なのに、争いごととなると一致団結し敵を完膚なきまでやり込める。
たとえ戦に負けたとしても、最後の1人になるまで抵抗をやめないであろう意思の強さ。
敵に回せば厄介なことこの上ない。
その頂点にいるのが、今王座の上でゆったりと果物を口へと運ぶ男。アーリヤ国国王・シュザナ。
がっしりといた体つきに口元にたくわえた髭がなんともいえない貫禄を漂わせている。
その隣で穏やかな笑みを浮かべているのが、シュザナ王の妻・アマル王妃。
ふっくらとした体型からどこか母性を感じさせる。皇子と皇女を合わせて7人も産んだことを納得させるには充分なほどの。
「果物はいかがですか?」
給仕の娘に声をかけられて若者は慌てて手に持ったグラスを傍にあったテーブルに置こうとした。
―――ガシャンッ
何かにぶつかり、その衝撃で若者の手からグラスが離れ、床の上に落ちて粉々に砕けた。
赤い液体が綺麗に磨き上げられた床の上にゆっくりと広がって行く。
「あぁ...!」
若者は割れたグラスに視線を落とし情けない声を上げた。
今若者が落として割ったグラスはこの国の特産のひとつで、匠の手によりひとつひとつに丁寧に細工が施されているものだ。
このグラスひとつがどれだけの価値があるのか、若者は充分過ぎるほど理解していた。
自分のポケットマネーで易々と買える代物ではない、と。
「す、すみません...!」
給仕の娘が謝るよりも先に若者は頭を下げて膝をつくとグラスの破片に手を伸ばした。
「イッ...!」
ぷつり、と皮膚が裂ける感覚が指先に走る。
みるみるうちに赤い血がぷくりと傷口から膨れ上がり指先から滴り落ちる。
「怪我、したのかえ?」
目の前にかかる影の正体を見上げようと若者が顔を上げると、そこには大きな黒い瞳を興味津々に輝かせて若者の顔を見下ろしている少女の姿があった。
「黒曜石...」
思わず呟いてしまったのは、少女の黒い瞳の輝きがあまりにも綺麗だと感じたからだった。
黒曜石はアーリヤ国の高山でのみ掘り出される稀少な宝石で、若者は過去に一度だけそれを見たことがある。
普段は宝石などには微塵も興味を持たない若者だったが、黒曜石の輝きと美しさには心奪われたのをよく覚えている。
「お主、なんとも面白い顔をしておるな。」
「は?」
「間の抜けた顔をしておる。」
「はい...?」
アーリヤ国の民族衣装に身を包んだ少女は瞳と同じ色の小さな黒曜石で作られた耳飾をシャラリと軽やかに揺らしながら若者に手を差し伸べた。
「手当てが必要であろ?」
白く細い指先を視界に捕らえ、若者はその手に自分の手を重ねることを酷く躊躇った。
今自分の目の前にいる少女は身なりからしてアーリヤ国のそれなりに身分の高い貴族の娘に違いなかった。
「血が...出ていますから。」
少女の手をやんわりと押し戻し、若者はゆっくりと立ち上がった。
少女はぽかんと若者の顔を見上げた。
傍で見てみれば、若者は思いのほか長身でひょろりと細長い印象だったが威圧感は微塵もなく、平凡を少し上回る顔立ちは柔らかい印象を与える。
少女はちらりと傍に控えている給仕の娘に目配せすると、娘は慌ててグラスの破片を片付け始めた。
給仕の娘に対してすまなさそうな視線を向ける若者をじっと見つめ、少女は持っていた扇を開き口元を隠した。
「...お主、見慣れぬ顔じゃな。」
「はい。アーリヤ国にはこのたび初めて訪れました。」
少女は値踏みするように若者の足先から頭のてっぺんまでくまなく観察してフっと大人びた薄い笑みを浮かべた。
質は良いが飾り気のない身なりに緊張感のない表情。
大方周辺国の貴族の次男坊か三男坊であろうと思われる若者に対し、少女は興味を抱くと同時にそれを悟られぬよう慎重に言葉を選んだ。
「宴を楽しまれておられるか?」
「はぁ、えぇ。まぁ。」
若者は気の抜けるような返事を返し、気まずそうに視線を逸らした。
嘘のつけない奴じゃ、と少女は心の中で呟いた。
グラスを落とすかなり前から少女は若者を見ていた。
誰と会話するでもなく、所在なさげに手に持ったグラスの酒をちびりちびりと飲んでは小さく溜息を吐く姿は、遠目から見ても憐れも思えた。
あと少しでも顔が良ければ貴婦人たちがこぞって話しかけただろうが、それすら期待出来ない微妙な容姿の若者。
それでも、何故か少女の瞳は若者を捉えた。
「わらわはとても退屈しておった。お主、少し付き合ってくれぬか?」
「はい?」
「傷の手当もしてやる故。」
付いて来いと言わんばかりに少女は豪華な民族衣装の裾を翻し歩き始めた。
若者は少女の後を着いていくべきかどうか迷ったが、いつのまにか集まった周りの人々の痛いほどの視線に背中を押されるように歩き始めた。
誤字脱字ありましたらご容赦ください。




