サーカス小屋の怪人
華やかな歓声が去り、闇に包まれたサーカス小屋で繰り広げられる、孤独な怪人の夜の姿を描いた前書きです。
【前書き】
万雷の拍手と眩いスポットライトが消え去り、真夜中の静寂が天幕を包み込むとき、もう一つの興行がひっそりと幕を開ける。
かつて空を舞い、喝采を欲しいままにした一人の男。光の舞台から転がり落ち、闇のヒダへと溶け込んだ彼は、今や誰にも知られぬ「死角の王」としてそこに君臨していた。
昼の華やかさに隠された破滅の匂いと、居場所を失った魂たちの狂宴。静まり返ったサーカス小屋の暗がりで躍動する、美しくも哀しい怪人の物語。
『サーカス小屋の怪人』
真夜中三時、天幕の頂で
月光の脂身を食む影がある
赤い鼻を脱ぎ捨てた男が
誰もいなくなった空中ブランコを揺らしている
昼の拍手は砂利に染み込み
ピエロの笑い顔は仮面の裏で腐敗する
「ようこそ、お客様」
掠れた声が焦げた藁の匂いを撒き散らす
彼はかつて花形の花形であった
命綱なしで虚空を舞い、喝采を呑み干した
けれどある日、足を踏み外し
スポットライトの熱に焼き尽くされたのだ
骨折した影は二度と表舞台へは戻れず
天幕の闇のヒダへと潜り込んだ
いまや彼はサーカスそのものの幽鬼
スポットライトの届かない死角の王
錆びた籠のなかで獅子は低く唸り
怪人の指先からこぼれる炒り豆を食む
猛獣使いすら怯えるその眼光に
檻の鍵は優しく微笑んで開かれる
火吹き男の残り火を煙草に移し
綱渡りの綱に爪を立てて弦を鳴らす
「世界の終わりは、いつもこんなポルカだ」
怪人は破れた天幕の穴から街を見下ろす
街の灯りは行儀よく並び
まともな人間たちが眠りにつく場所
けれどここ、ストライプの布切れの下には
世界のすべての歪みが集まっている
子供たちが捨てていった風船が
天井の梁に引っかかって萎んでいくように
居場所を無くした魂だけが
この怪人の配下となってステップを踏む
さあ、夜明けが近い
興行師の足音が朝露を踏む前に
怪人はピエロの衣装の糸くずとなり
舞台裏の暗がりに溶けて消えていく
客席に残された一輪の枯れた薔薇と
砂に刻まれた、歪んだ足跡だけを残して。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
スポットライトの光が届かない場所でしか息ができない怪人の孤独と、真夜中の天幕に満ちる哀しくも美しい気配を描きました。
昼間の喧騒が去ったあと、静まり返ったサーカス小屋の暗闇で、彼が今もひっそりとブランコを揺らしている……そんな余韻を感じていただけたなら幸いです




