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英雄の地味な顔

作者: jin kawasaki
掲載日:2026/05/14

スタジオの空気は、いつだって少しだけ現実から浮いている。

 過剰なほどに明るい照明。どこまでも作り込まれた笑顔。計算された間。そこに流れているのは、事実ではなく「見せ方」だ。

 俺はモニターの横に立ち、腕を組んでいた。フロアディレクターでもなければ、タレントでもない。ただの構成作家。画面の向こうで何が起きるかを、誰よりも冷めた目で見ている役回りだ。

「はい、再現VTR明けまーす!」

 スタッフの声が飛ぶ。

 モニターには、緊迫した機内の様子が映し出されていた。乗客たちの悲鳴、怒号、そして銃を持った犯人。画面の中心には、ひとりの男――パイロットがいた。

 背筋は真っ直ぐで、顎のラインは鋭く、声は低く落ち着いている。いかにも「頼れる男」という顔つき。再現VTRのためにキャスティングされた俳優だ。

「やっぱり、かっこいいですね……」

 隣で小さく呟いたのは、今日のゲストの一人である若いアイドルだった。黒髪を肩で揃え、どこかあどけなさの残る顔立ち。まだ十代の終わりか、二十歳そこそこだろう。

 彼女はモニターに釘付けになっていた。

 その目は、完全に物語を信じている目だった。

 無理もない。番組はそういうふうに作られている。英雄は美しく、勇敢で、誰からも愛される存在として描かれる。

 俺は、わずかに口の端を歪めた。

 ――違うんだけどな。

 この事件は十数年前、日本中を騒がせた大きなハイジャック事件だった。連日ニュースで取り上げられ、犯人の動機や交渉の経緯、そして最終的に全員が無事だった奇跡のような結末まで、細かく報じられた。

 当然、パイロットの顔も世に出ている。

 そしてそれは――

 目の前の俳優とは、似ても似つかない。

 ずんぐりとした体型。丸い顔。眠たげな目。決して不快ではないが、少なくとも「精悍」という言葉とは縁遠い男だった。

 俺はその顔をはっきり覚えている。

 当時、学生だった俺は、ニュースを食い入るように見ていたからだ。

「こんな状況で、あんな冷静な判断ができるなんて……すごいですよね」

 アイドルが言う。

「自分だったら絶対パニックになっちゃう」

 共演のタレントが相槌を打つ。

 スタジオの空気は、完全に「英雄を称える流れ」に乗っていた。

 そして、ディレクターが合図を出す。

「それでは――この奇跡のフライトを実際に操縦していたパイロットに、スタジオに来ていただいています!」

 歓声のSEが流れる。

 アイドルの目が一層輝いた。

 期待しているのだろう。

 きっと、今モニターに映っていた俳優のような男が、いや、それ以上に魅力的な人物が現れると信じている。

 その純粋さは、少し眩しかった。

 同時に――

 少しだけ、残酷だとも思った。

 俺は無意識に、彼女の横顔を見た。

 この瞬間のために。

「どうぞ!」

 拍手。

 スポットライト。

 そして、スタジオの奥から、一人の男が歩いてくる。

 ――来た。

 記憶と寸分違わぬ姿だった。

 小柄で、やや猫背気味。スーツはきちんと着ているが、どこか体に馴染んでいない。顔は丸く、髪は短く整えられているものの、華やかさはない。

 言葉を選ばなければ、地味な男。

 どこにでもいそうな、会社員のような風貌。

 それが、数百人の命を背負い、極限状態で判断を下したパイロットの現実だった。

 スタジオの拍手が、ほんの一瞬だけ、わずかに揺らいだ。

 気づかない者もいるだろう。

 だが、俺のように裏側にいる人間には分かる。

 「想像とのズレ」が生まれた瞬間の、あの微かな空気の歪み。

 そして――

 隣のアイドルの表情。

 彼女は、笑っていた。

 笑ってはいるが、その頬はわずかに引きつっている。

 目が、一瞬だけ泳いだ。

 ほんの刹那。だが確かに、「あれ?」という戸惑いが浮かんだ。

 俺はそれを見逃さなかった。

 胸の奥で、どこか意地の悪い満足感が広がる。

 ――ほらな。

 これが現実だ。

 英雄は、必ずしも絵になる顔をしているわけじゃない。

 だがその感情は、すぐに別のものに上書きされていく。

「本日はお越しいただきありがとうございます」

 司会者が頭を下げる。

 男もまた、少しぎこちなく頭を下げた。

「いえ……こちらこそ」

 声は、思っていたよりも柔らかかった。

 再現VTRの俳優のような低く響く声ではない。どこか頼りなくも聞こえる、普通の声。

 だが、不思議と耳に残る。

「当時のこと、覚えていらっしゃいますか?」

「ええ……忘れられるものではありませんね」

 男はそう言って、少しだけ笑った。

 その笑みには、作られたものではない疲れが滲んでいた。

「正直に言うと、怖かったです」

 スタジオが静まり返る。

「乗客の方々も、クルーも、みんな不安で……私も同じでした」

 アイドルが、ゆっくりと瞬きをした。

 さっきまでの違和感が、少しずつ別の形に変わっていくのが分かる。

「ただ……怖いままではいけないと思ったんです」

 男は言葉を選びながら続ける。

「私が一番冷静でいないと、誰も安心できないから」

 その言葉は、飾り気がなかった。

 演技でもなければ、脚本でもない。

 ただ、実際にそこにいた人間の言葉。

 俺はふと、モニターの中の俳優の姿を思い出した。

 あれは「理想」だ。

 そして今、目の前にいるのは「現実」。

 どちらが優れているか、という話ではない。

 ただ――

 重さが違う。

「最終的に、犯人との交渉も成功して……本当にすごい判断だったと思います」

 司会者が言う。

 男は首を横に振った。

「いえ……あれは、たまたまです」

「たまたま?」

「はい。あの時、ああするしかなかっただけで……後から考えれば、もっといい方法もあったかもしれません」

 スタジオの誰もが、言葉を失った。

 英雄が、自分を英雄だと思っていない。

 それどころか、正解だったかどうかすら分からないと言う。

 その不確かさが、かえって真実味を帯びていた。

 隣を見る。

 アイドルの表情は、もう引きつってはいなかった。

 代わりに、じっと男を見つめている。

 最初に抱いたであろう「理想のパイロット像」は、もうそこにはない。

 だが――

 別の何かが、確かにそこに生まれていた。

 尊敬とも、理解ともつかない感情。

 少なくとも、先ほどまでの軽やかな憧れとは違う。

 俺は、ふっと息を吐いた。

 さっき感じたあの意地の悪い期待は、もうどこにもなかった。

 代わりに、少しだけ気まずいような、居心地の悪さが残る。

 自分が何を楽しみにしていたのか、分かってしまったからだ。

 ――人の落差だ。

 勝手に作り上げた理想と、現実のギャップ。

 それを見て、優越感のようなものを覚えようとしていた。

 だが、目の前にあるのは、そんな単純な話ではなかった。

 この男は、確かに「普通」だ。

 だが、その普通の男が、あの日、あの状況でやったことは――

 決して普通ではない。

「今日は本当にありがとうございました」

 収録が締めに入る。

 拍手が起こる。

 男はまた、少しぎこちなく頭を下げた。

 その姿は、やはりどこにでもいそうな中年男性にしか見えない。

 だが俺には、もう違って見えていた。

 収録が終わり、照明が少し落ちる。

 アイドルが小さく呟いた。

「……かっこよかったですね」

 その声には、さっきまでの軽さはなかった。

 俺は何も言わず、ただ頷いた。

 現実は、確かにドラマチックではない。

 期待を裏切ることも多い。

 だが――

 だからといって、価値が劣るわけではない。

 むしろその逆だと、ようやく少しだけ理解した気がした。

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