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幻影の天秤は傾かない〜無能な入り婿として妻に尽くしましたが、恩返しは終わったので真の姿に戻ります〜  作者: ひより那


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第7話 血塗られた荒野と深淵の玉座

 エルディス王国の東部国境に広がる荒野は、開戦からわずか半刻も経たないうちに、おびただしい血と絶望の臭いに支配されていた。

 圧倒的な質量をもって王国を蹂躙するはずだったガルディア帝国の三十万の軍勢は、今や完全に狩られる側の獲物へと成り下がっていた。


「ひっ、ひぃぃぃっ! 来るな、来るなァァッ!」

「助け……がはっ!」


 戦場に響き渡るのは、誇り高き帝国兵たちの無様な命乞いと、肉が断たれる鈍い音だけである。

 彼らが相対しているのは、ゼーレンが率いる『幻影の天秤』の精鋭一万。三十倍の数的不利など、この化け物たちの前では何の言い訳にもならなかった。


 黒装束の暗殺者たちは、影から影へと音もなく跳躍し、帝国兵の急所を瞬きする間に刈り取っていく。不気味なローブを纏った魔導士たちが詠唱なしに杖を振るえば、荒野に紅蓮の炎と極寒の吹雪が同時に吹き荒れ、数千単位の兵士たちが一瞬にして灰燼に帰した。


「……ば、馬鹿な。何だこいつらは……人間ではない、悪魔の軍団か!」


 巨大な装甲馬車の上で、ガングレフ将軍は顔面を蒼白に引きつらせていた。

 自慢の魔導砲は開戦の初撃で消し飛ばされ、指揮系統は完全に崩壊。ただの一人もエルディス側の砦に到達することなく、一方的な虐殺が目の前で繰り広げられている。


「退け! 全軍撤退だ! 陣形を立て直せ!」


 ガングレフが喉から血が出るほど絶叫するが、逃げ惑う兵士たちにその声は届かない。背後へ逃れようとした者から順に、見えない刃に首を刎ねられていくのだ。

 このままでは、三十万の軍勢が文字通り一人残らず全滅する。追い詰められたガングレフの血走った目が、荒野の中央で退屈そうに惨劇を見下ろしている漆黒の外套の男――ゼーレンを捉えた。


「……そうだ、あの男だ! あの指揮官さえ殺せば、この悪夢は終わる!」


 極限の恐怖は、時に理性を完全に狂わせる。ガングレフは己の身の丈を越える巨大な戦斧を両手で握りしめ、装甲馬車からゼーレンに向かって一直線に跳躍した。


「死ねぇぇぇっ! エルディスの化け物ぉぉっ!」


 猛将の渾身の力が込められた、一撃必殺の斬撃。重装甲の城門すら一刀両断にするその鋼鉄の戦斧が、ゼーレンの頭頂部へと容赦なく振り下ろされた。


 ――キィンッ、という、高く澄んだ音が荒野に響いた。


「……な、に?」


 ガングレフの腕が、それ以上一寸たりとも動かなくなった。

 信じられない光景だった。彼が渾身の力で振り下ろした戦斧の巨大な刃を、ゼーレンが左手の人差し指、たった一本で受け止めていたのだ。

 魔力マナの防壁すらない。ただの素手の指一本が、凶悪な武器の質量と運動エネルギーを完全に停止させている。


「……将軍クラスの武力で、その程度か」


 ゼーレンは冷酷な瞳で、宙で硬直するガングレフを見上げた。


「私を裏切った女の剣撃のほうが、まだ幾分か殺気があったぞ」

「ば、化け物ォォォッ!」


 ガングレフが戦斧を手放し、腰の短剣を抜こうとした瞬間だった。ゼーレンの指先が戦斧の刃を軽く弾く。ただそれだけの無造作な動作で、巨大な鋼鉄の戦斧が粉々に砕け散り、その破片が凶悪な散弾となってガングレフの巨体を容赦なく貫いた。


「ご、ぼぁっ……!」


 全身から血飛沫を上げ、猛将は荒野の砂に力なく崩れ落ちた。痙攣する将軍を一瞥することもなく、ゼーレンは外套の裾を翻す。


「残党狩りは任せる。一匹も生かして帰すな」

「はっ! 盟主様の御心のままに!」


 周囲の影から無数の返答が響く。絶対的な指揮官すらもあっけなく失った帝国軍に、もはや抗う力など微塵も残されていなかった。


 その信じられない光景を、エルディス側の『アストリア砦』の城壁から見下ろしていた守備隊長と兵士たちは、歓声を上げることもできず、ただ沈黙に支配されていた。

 百倍の敵が、ものの半刻で消滅していく。助かった。確かに彼らは、絶対的な死の運命から救われたのだ。しかし、彼らの胸を満たしていたのは生還の安堵ではなく、名伏しがたい根源的な恐怖であった。


「……隊長。あれは、我々の味方なのでしょうか……?」


 若い兵士が、ガタガタと震える手で武器を取り落としながら問いかける。


「……わからん。だが、一つだけ言えるのは」


 守備隊長は、荒野を血の海に変えた黒衣の男の背中を見つめ、ゴクリと生唾を飲み込んだ。


「あれは、我々が逆らっていい存在ではないということだ。ガルディア帝国だろうが、我がエルディス王国だろうが……あの男の機嫌一つで、明日にでも地図から消し飛ぶ」


 彼らは理解した。自分たちが属するこの国が、すでに人間の理解を超えた絶対者の掌の上にあるという残酷な事実を。


 その数時間後。エルディス王都、王城の玉座の間。国境からの早馬がもたらした信じがたい戦果の報告に、第一王女エレオノーラは恍惚とした溜息を漏らしていた。


「……素晴らしい。三十万の帝国軍を、ただの一人も生還させることなく完全殲滅。しかも、自軍の被害は皆無」


 彼女の目の前には、すでに国境から組織の空間転移の魔法陣を通って帰還したゼーレンが、退屈そうに玉座に腰掛けている。


「大袈裟に騒ぐな、エレオノーラ。掃き溜めのゴミを片付けただけだ」

「いいえ、ゼーレン様。これでエルディス王国内の貴族たちも、貴方様という絶対者の力を骨の髄まで理解したはずです。もはや、私と貴方様の統治に異を唱える愚か者は、この国のどこにも存在しません」


 エレオノーラはゼーレンの足元に跪き、その冷たい手に自らの頬をすり寄せた。


「次は、いかがなさいますか? このままエルディスの真の王として、私が献上するすべてを享受してくださいますか?」

「それも悪くないが、少し退屈だな」


 ゼーレンは漆黒の瞳に、獲物を見定めた捕食者のような鋭い光を宿した。


「ガルディア帝国は、愚かにも三十万という主力軍を失った。つまり、広大な領土を持つ帝国の中心地は今、もぬけの殻だということだ」


 その言葉の意味を理解し、エレオノーラの銀糸の髪が歓喜に震えた。


「……まさか、逆侵攻を?」

「私の庭を荒らそうとした代償は、高くつくと教えてやらねばならない。ガルディアの皇帝を引きずり下ろし、あの広大な土地も『幻影の天秤』の新たな拠点とする」


 ゼーレンが立ち上がると、玉座の間に控えていた幹部たちが一斉に平伏した。


「表舞台の戦争ゲームは、まだ始まったばかりだ。世界のすべてを、我が天秤に乗せるとしよう」


 かつて一人の平民の入り婿として無能を演じていた男は、今や一国を飛び越え、大陸全土を飲み込む絶対的な覇王として、新たなる蹂躙への道を歩み始めたのであった。


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