表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幻影の天秤は傾かない〜無能な入り婿として妻に尽くしましたが、恩返しは終わったので真の姿に戻ります〜  作者: ひより那


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/7

第6話 愚者たちの進軍と絶対者の遊戯

 エルディス王国の東部国境に広がる、岩と荒野がどこまでも続く不毛の地。普段は魔物すら寄り付かないその荒涼とした平原は、今、大地を揺るがすような恐ろしい地鳴りと共に、土煙で完全に覆い尽くされていた。


 地平線を真っ黒に染め上げて進軍してくるのは、東の巨大国家・ガルディア帝国の正規軍である。その数、実に三十万。小国であるエルディス王国を地図上から完全に消し去るには、あまりにも過剰で圧倒的な暴力の津波であった。


「ガハハハッ! 進め、進めぇ! エルディスの軟弱な豚どもを、一匹残らず蹂躙じゅうりんしてやれ!」


 先陣を切る巨大な装甲馬車の上で、ガルディア帝国の猛将ガングレフが下卑た笑い声を上げていた。身の丈をゆうに超える戦斧を軽々と担ぎ、顔の半分を覆う獣の刺青を歪ませるその姿は、獰猛な肉食獣そのものである。


「将軍閣下。エルディスの国境警備隊は、我が軍の威容を前に完全に萎縮しております。砦に立て籠もってはいますが、あんなものは我が軍の魔導砲を数発撃ち込めば、瓦礫の山と化すでしょう」


 傍らに控える副官が、嗜虐的な笑みを浮かべて報告する。


「当然だ。聞けば、エルディスの中枢を担っていた第二王子派閥が内乱で粛清され、国はガタガタらしいではないか。おまけに、あの国が誇っていた魔法騎士団とやらも、今では満足に魔物すら討伐できない烏合の衆に成り下がっていると聞く」


 ガングレフは戦斧の刃を舌で舐め上げ、国境の砦をねめつけた。


「女が王座に座り、軍は崩壊。まさに天が我らガルディアに『エルディスを食らえ』と与え給うた極上の餌よ。あの程度の薄汚い砦など、今日の昼飯前には落としてみせる。そして三日後には王都の門を打ち破り、あの生意気な第一王女を我が寝所に引きずり込んでやるわ!」


 下劣な野望を隠そうともしない将軍の言葉に、周囲の帝国兵たちも下品な歓声を上げて同調した。

 彼らには微塵も疑いがなかった。自分たちの武力は絶対であり、この進軍は戦争というより、無力な獲物を狩るだけの楽しい遊興に過ぎないのだと。


 一方、ガルディア帝国軍を迎え撃つエルディス王国側の国境守備隊。堅牢な石造りの『アストリア砦』の城壁の上では、絶望という名の重い空気が守備隊員たちを完全に押し潰していた。


「……終わった。こんなもの、どうやって防げと言うんだ」


 守備隊長の中年騎士は、城壁から身を乗り出し、地平線を埋め尽くす黒い軍勢を見て虚ろに呟いた。

 砦に駐留している兵力は、わずか三千。対する敵は三十万。百倍の兵力差を前にしては、どのような戦術も防衛設備も意味を成さない。


「隊長! 王都からの援軍は……魔法騎士団は来ないのですか!?」


 若い兵士が、すがるような目で隊長に詰め寄った。しかし、隊長は力なく首を振るだけだった。


「来るわけがないだろう。お前も知っているはずだ、かつて王国最強と謳われた魔法騎士団が、先日の中級魔物相手に半壊したという話を。今のあの騎士団は、ルクレツィアというお飾りの団長が失脚したことで、完全に機能不全に陥っている。我々を助けに来る余裕などない」

「そ、そんな……! では、我々はこのままここで、帝国の獣どもに嬲り殺しにされるのを待つしかないと言うのですか!?」

「……そうだ。我々は、時間を稼ぐための捨て駒にすらならない。ただの、肉の壁だ」


 隊長の絶望的な宣告に、周囲の兵士たちは次々と膝から崩れ落ちた。武器を取り落とし、顔を覆って泣き出す者すらいる。

 城壁に備え付けられた警鐘が、まるで彼らの死を悼む弔鐘のように、虚しく荒野に鳴り響いていた。

 眼下では、帝国軍の先陣がすでに砦から弓矢の届く距離にまで迫っている。ガングレフ将軍が乗る装甲馬車が止まり、その後方に巨大な攻城用の魔導砲が次々と展開されていくのが見えた。


「撃てぇ! あんなボロ砦、一発で粉々に吹き飛ばしてやれ!」


 将軍の号令と共に、数十門の魔導砲に膨大な魔力マナが充填されていく。砲口が赤黒い光を放ち、周囲の大気が悲鳴を上げるように軋んだ。あれが放たれれば、城壁ごと自分たちの体は蒸発する。

 守備隊長は静かに目を閉じ、愛する家族の顔を思い浮かべながら、避けられない死の瞬間を待った。


 しかし。どれだけ待っても、死をもたらすはずの閃光と爆音は訪れなかった。


「……?」


 不思議に思い、隊長が恐る恐る目を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。

 砦と帝国軍の間に広がる、何もないはずの荒野のど真ん中。そこに、一人の男が立っていたのだ。

 夜の闇をそのまま切り取ったような、漆黒の外套に身を包んだ男。丸腰で、防具一つ身につけていないその男は、三十万の帝国軍を前にして、まるで自宅の庭でも散歩しているかのような悠然とした足取りで歩を進めていた。


「な、何だあいつは……? 狂人か?」


 城壁の上の兵士たちがざわめく。

 それは、帝国軍側も同じであった。突如として射線上に現れた丸腰の男に、充填を終えていた魔導砲の砲兵たちも困惑して動きを止めていた。


「おい、どうした! なぜ撃たん!」


 ガングレフ将軍が苛立たしげに怒鳴りつける。


「は、将軍閣下! 射線上に、エルディス側の人間と思われる男が一人立っておりまして……!」

「一人だと? そんな狂人の一人や二人、砦ごとまとめて吹き飛ばせばよかろうが!」


 将軍がそう叫んだ、次の瞬間。男――ゼーレンが、ゆっくりと右腕を横に薙いだ。

 魔法の詠唱などない。魔力マナの収束という予備動作すらない。ただ、鬱陶しい虫を払うかのような、ひどく無造作な動作だった。だが、その直後に起きた現象は、そこにいたすべての者の理解を凌駕していた。


 ――ズゴオォォォォォォンッ!! 大気が悲鳴を上げたのではない。空間そのものが断裂するような、おぞましい轟音が荒野に響き渡った。ゼーレンの右腕が薙がれた軌跡に沿って、不可視の『何か』が荒野を薙ぎ払ったのだ。

 最前列に展開されていた数十門の巨大な魔導砲が、まるで飴細工のようにぐにゃりと歪み、次の瞬間には音を立てて粉々に爆散した。

 それだけではない。魔導砲を操作していた数百人の砲兵、そして周囲を固めていた重装歩兵たちが、悲鳴を上げる間もなく、不可視の暴風に巻き込まれて文字通り『塵』となって空の彼方へ吹き飛ばされていった。


「……は?」


 ガングレフ将軍の顔から、獰猛な笑みが完全に剥げ落ちた。目の前で何が起きたのか、彼の脳は全く処理できていなかった。たった一人の丸腰の男が手を振っただけで、帝国の誇る最新鋭の兵器と数百の兵士が、跡形もなく消滅したのだ。


「何だ……? 今、何をした……魔法か!? いや、詠唱も魔力の光もなかったぞ!」


 城壁の上でその光景を見ていたエルディスの守備隊も、恐怖と驚愕に完全に硬直していた。百倍の敵を前にした絶望すら吹き飛ぶほどの、あまりにも規格外の暴力。ゼーレンは、自らが引き起こした惨状に一瞥すら与えることなく、ただ退屈そうに首を鳴らした。


「……やはり、表舞台の戦争ゲームというものは大味で退屈だな。盤面を整える楽しみすらない」


 ゼーレンの呟きは、誰の耳にも届かないほど小さかったが、その存在が放つ絶対的な覇気は、三十万の軍勢すべてに重くのしかかっていた。


「き、貴様ぁ! 何者だ! どこの魔法使いだかは知らんが、たかが一人で我が三十万の軍勢を止められると思うなよ!」


 ガングレフ将軍が戦斧を振り上げ、泡を飛ばして怒鳴りつける。それはもはや威嚇ではなく、未知の怪物に対する恐怖を誤魔化すための虚勢に過ぎなかった。


 ゼーレンはゆっくりと将軍の方へ視線を向けると、冷酷な弧を唇に描いた。


「たかが一人、か」


 その言葉を合図にするかのように、ゼーレンの背後の空間が、陽炎のようにゆらゆらと歪み始めた。そして、歪んだ空間が黒い亀裂となって弾け、その中から無数の影が音もなく立ち現れる。

 黒装束を纏った暗殺者。不気味なローブを目深に被った魔導士。全身に無数の呪具を提げた異形の戦士。そのどれもが、一人で一国を落とせるほどの実力を持った、『幻影の天秤』の精鋭部隊であった。


 その数は、およそ一万。三十万の帝国軍からすれば微々たる数だが、彼らが放つ濃密な死の気配は、帝国軍の士気を瞬く間に恐怖の底へと叩き落としていた。


「誰が一人だと言った。私が率いるのは、世界を天秤に掛ける深淵の刃だ」


 ゼーレンが右腕を天に掲げ、ゆっくりと振り下ろした。


「蹂躙しろ。愚か者たちに、絶対的な死の格差というものを教えてやれ」


 その冷徹な宣告と共に、一万の怪物が、三十万の獲物に向かって歓喜の咆哮を上げながら雪崩れ込んでいく。

 荒野に響き渡るのは、もはや進軍の足音ではなく、驕り高ぶっていた帝国兵たちの絶望の悲鳴と、肉が断たれる凄惨な音だけとなった。

 エルディス王国の国境を舞台にした、ゼーレンによる真の無双の宴が、今まさに幕を開けたのである。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ