第5話 泥濘の末路と新たなる覇道
エルディス王城の最奥。かつては王家の人間と限られた重鎮しか立ち入ることの許されなかった神聖なる玉座の間は、今や全く異なる空気に支配されていた。
国を蝕んでいた第二王子派閥は完全に一掃され、病床に伏した父王に代わり、第一王女エレオノーラが実質的な女王として国政の全権を掌握したのである。しかし、その彼女ですら、今はこの玉座の「主」ではなかった。
豪奢な装飾が施された玉座に深く腰を下ろしているのは、漆黒の外套に身を包んだ一人の男。裏社会の絶対的盟主にして、表舞台においても王国の最高権力者となったゼーレンである。
「――以上が、第二王子派閥に与していた貴族たちの財産没収と、領地再編の報告となります」
玉座の前で恭しく書類を読み上げているのは、『幻影の天秤』の幹部たちであった。もはや王国の中枢は、完全に彼ら裏社会の組織によって掌握され、かつてないほどの強固な統治体制が敷かれようとしている。
「ご苦労様。引き続き、国内の不穏分子の排除を徹底しなさい」
ゼーレンの隣に寄り添うように立つエレオノーラが、優雅な微笑を浮かべて指示を出す。彼女の瞳は玉座に座るゼーレンに向けられており、そこには絶対的な敬愛と熱情が隠すことなく溢れていた。
「ゼーレン様。これでこの国は、名実ともに貴方様のものですわ。あの愚かな弟と、己の分を弁えなかった女の残党たちも、すべて処分が終わりました」
「そうか」
ゼーレンは退屈そうに目を伏せ、短く応じた。
「彼らには、ふさわしい末路を用意してやれたのだろうな」
「ええ、もちろん。極上の絶望と泥濘を、骨の髄まで味わっていただいております」
エレオノーラの美しい唇が、冷酷な弧を描いた。
王都から遠く離れた、北方の極寒の地に位置する『死の鉱山』。
国家反逆罪に問われた重罪人だけが送られるその場所で、一人の女が泥水にまみれて倒れ込んでいた。
「立て! 休む暇など与えられていないぞ、この罪人め!」
容赦なく振り下ろされた看守の鞭が、女の背中を鋭く打ち据える。
「ああっ……!」
悲鳴を上げて身悶えしたのは、かつて王国最強の魔法騎士団長と謳われたルクレツィアであった。燃えるような真紅のドレスは見る影もなく、ボロボロの粗末な麻布を纏い、艶やかだった金糸の髪は泥と埃にまみれて無残に固まっている。
何よりも彼女を絶望させているのは、首に嵌められた分厚い鉄の首輪――魔力の流動を完全に封じ込める『封魔の枷』であった。
「お、お願い……もう、許して……私を、誰だと思っているの……私は、魔法騎士団長の……」
「まだそんな寝言をほざいているのか。お前たちの騎士団など、とうの昔に壊滅したわ!」
看守は鼻で笑い、ルクレツィアの顔の横に汚水を蹴りかけた。
「お前が捕まった直後にな、残された騎士団の連中が名誉挽回とばかりに魔物の討伐に向かったんだ。だが、ただの中級魔物の群れ相手に手も足も出ず、半数が死んで逃げ帰ってきた。今まで王国最強とイキり散らしていたくせに、蓋を開けてみればただの張り子の虎だったってわけだ。今じゃ生き残った連中も、ただの衛兵からやり直しだぞ」
「嘘……嘘よ……」
ルクレツィアは泥水をすすりながら、ただ震えることしかできなかった。
ゼーレンが言っていたことは、すべて真実だったのだ。自分が天才だと思っていた魔法の力も、部下たちの強さも、すべてはあの男の『見えざる手』が裏で完璧なお膳立てをしてくれていただけの、精巧な人形芝居だった。
自分は最強でも何でもない。ただの、魔力が少しばかり使えるだけの、傲慢で愚かな小娘に過ぎなかったのだ。
「おい、そっちの男もさっさと岩を砕け! 次期国王を騙っていた口で、泥の味でも堪能するんだな!」
「ひいっ! や、やめてくれ! 私は王族だぞ!」
ルクレツィアのすぐ横で、同じように泥まみれになって鞭打たれているのは、かつての第二王子であった。彼はもはや王族としての威厳など微塵も残しておらず、泣き喚きながらただ石にツルハシを振り下ろしている。
「お前のせいだ……!」
第二王子は血走った目でルクレツィアを睨みつけ、恨み言を吐き捨てた。
「お前がっ……お前があの盟主殿を無能だなどと吹き込まなければ! 私がこんな地獄を見ることはなかったんだ! この疫病神め!」
「な、何を言うのよ! 貴方だって、私の力を過信して利用しようとしただけじゃない! ゼーレンを裏路地に捨てろと言ったのは貴方でしょう!」
「うるさい、この無能女が!」
かつては互いに利益を求めて結託し、栄華の頂点に立とうとしていた二人は、今や泥濘の中で醜く責任をなすりつけ合い、互いを罵倒し合うだけの哀れな存在へと成り果てていた。
ルクレツィアは、ひび割れた手で冷たい岩肌を撫でながら、とめどなく涙をこぼした。もし、あの時。自分を救ってくれたゼーレンへの恩を忘れず、入り婿としてではなく、一人の伴侶として彼を愛し、寄り添い続けていたなら。
今頃自分は、この世界の絶対的支配者の隣で、誰もが羨む真の栄光を手にしていたはずなのだ。
だが、後悔したところでもう遅い。彼女の虚栄心と傲慢さがすべてを壊した。彼女の人生に残されているのは、死ぬまでこの泥濘の中で石を砕き続ける、終わりのない絶望だけだった。
同じ頃、王都の玉座の間。沈黙を保っていたゼーレンの下に、大魔導士の幹部が足早に歩み寄り、膝をついた。
「盟主様、至急のご報告が。……東の国境に動きがありました」
「ほう」
ゼーレンの目が、微かに興味を惹かれたように細められる。
「我がエルディス王国内部の政変……第二王子派閥の失脚と、指導部の混乱を嗅ぎつけたのでしょう。東の強国、ガルディア帝国が、数十万の軍勢を国境付近に集結させつつあるとのことです。明らかに、この機に乗じて我が国を侵略し、併呑する腹積もりかと」
その報告を聞き、エレオノーラが不快そうに顔を顰めた。
「野蛮な狼どもが。私が国を掌握したこの絶好の機会に、水を差そうというのですか」
「……いや、丁度いい」
ゼーレンはゆっくりと玉座から立ち上がり、窓の外――はるか東の空へと視線を向けた。その口元には、これまでの退屈そうな無表情とは異なる、獰猛で冷酷な支配者の笑みが浮かんでいた。
「妻への恩返しという、箱庭の中での退屈な遊戯は完全に終わった。ならば次は、世界を舞台にした戦争でも始めるとしよう」
ゼーレンが外套を翻すと、玉座の間に控えていたすべての幹部たちが、雷に打たれたように一斉に平伏した。彼らの背筋を、武者震いにも似た歓喜が駆け抜ける。
絶対的な力を持つ彼らの主が、ついにその圧倒的な無双の力を、世界そのものに向けて解き放とうとしているのだ。
「行け、天秤の刃どもよ。ガルディア帝国の愚か者たちに教えてやれ。彼らが足を踏み入れようとしているこの国に、どのような怪物が眠っていたかを」
「「「ははっ!!」」」
大広間を震わせるほどの忠誠の叫びが響き渡る。エレオノーラは恍惚とした表情でゼーレンの腕に抱きつき、その肩に頬を寄せた。
「ああ、ゼーレン様……。貴方様の覇道、このエレオノーラが一番近くで、最後までお供させていただきますわ」
一人の傲慢な女の没落と引き換えに、呪縛から解き放たれた『絶世』の存在。彼が真の実力を表舞台で振るう時、大陸の歴史は新たな血と絶望、そして絶対的な支配によって塗り替えられようとしていた。
真の無双劇は、ここから始まるのである。
ここで一区切りとなります。
全12話+番外編、今後ともよろしくお願いします!!




