第4話 真実の玉座と崩れ落ちる虚栄
王立迎賓館の大広間は、静寂と異様なまでの熱気に包まれていた。
先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返っているのは、今宵の主催者であり、大陸の裏社会を統べる『幻影の天秤』の絶対的盟主が、いよいよ姿を現すという空気が会場全体を満たしていたからだ。
ルクレツィアと第二王子は、広間の中央、最も設えの豪奢な壇上を真ん前に見据える最前列の特等席に陣取っていた。
「素晴らしい位置だ。ここならば、盟主殿が壇上に上がられた際、真っ先に我々の姿が目に入るだろう」
「ええ、殿下。私たちがこの王国でどれほど力を持っているか、すぐに理解していただけるはずですわ」
ルクレツィアは、高鳴る胸を抑えながら、扇の陰で艶やかに微笑んだ。先ほどのバルコニーでの不快な出来事――無能な元夫であるゼーレンが、第一王女エレオノーラのヒモとしてこの夜会に潜り込んでいた一件――など、すでに彼女の頭からは完全に消え去っていた。
今はただ、これから現れるであろう偉大なる盟主に、自分という存在をどう売り込むか。それだけが彼女の思考のすべてを占めていた。
やがて、会場の照明がゆっくりと落とされた。代わりに、大広間の最奥に位置する大理石の階段の上、二階のバルコニーから続く扉へと、いくつもの魔力の光が集中していく。
「――皆様、長らくお待たせいたしました」
壇上に進み出たのは、組織の大幹部であり、各国の王族すら恐れるという稀代の大魔導士であった。その彼が、まるで神を迎える敬虔な信徒のように、深く頭を垂れている。
「我らが主にして、この世界を裏より導く絶対の天秤。盟主様のご入場です!」
その言葉と共に、重厚な扉が静かに開かれた。
会場にいた各国の王族、大貴族、大商会の会頭たちが、一斉にその場に片膝をつき、深く頭を下げた。誰一人として、顔を上げて直視しようとする者はいない。それが、裏社会の絶対者に対する彼らなりの最大限の敬意と畏怖の表れであった。
もちろん、ルクレツィアと第二王子も慌てて膝を折った。だが、ルクレツィアの野心と好奇心は、その畏怖を上回っていた。
ほんの少しだけ。ほんの少しだけ顔を上げて、未来の後ろ盾となる盟主の顔を見ておこう。そう思い、彼女はそっと視線を上に向けた。
魔力の光に照らし出され、階段をゆっくりと下りてくる二つの影。一つは、月明かりを紡いだような銀糸の髪を揺らす第一王女、エレオノーラ。
そしてもう一つ。彼女にエスコートされるようにして、悠然と歩を進める漆黒の外套の男。
その男の顔を見た瞬間、ルクレツィアの心臓は、凍りついたように完全に機能を停止した。
「……え?」
間抜けな声が、彼女の唇から漏れ落ちた。
整った、しかし一切の感情を排した冷酷な顔立ち。先ほどバルコニーで自分が見下し、警備兵につまみ出せと命じた男。そして、数日前まで自分の屋敷で、無能な入り婿として蔑んできた元夫。
ゼーレン。
「……嘘、でしょ」
ルクレツィアは、膝をついたまま小刻みに震え始めた。
理解できない。理解できるはずがない。なぜ、第一王女のヒモに成り下がったはずの無能な平民が、すべての権力者たちが平伏する大階段を、最も尊き者として下りてくるのか。
「……何かの、間違いよ。そうよ、きっとあいつは盟主様の影武者か何かで……」
必死に都合の良い言い訳を脳内で組み立てようとするルクレツィア。しかし、現実は無慈悲に彼女の虚妄を打ち砕いた。
階段を下りきったゼーレンに対し、大幹部である大魔導士が、最も深い最敬礼をとったのだ。
「盟主様。今宵は貴方様の表舞台への御帰還を祝う、素晴らしき夜となりました」
「大儀だ。皆も、面を上げよ」
ゼーレンの低く、しかし絶対的な威圧感を伴った声が響き渡ると、会場に平伏していたすべての権力者たちが一斉に顔を上げた。彼らの瞳にあるのは、疑いようのない狂信的な忠誠と畏怖である。もはや、疑う余地などどこにもなかった。
王国最強だと自惚れていた自分が、必死にすがりつき、顔を覚えてもらおうと這いつくばっていた裏社会の絶対神。それが、つい先日「無能な寄生虫」と罵り、己の手で叩き出した元夫だったのだ。
「そんな……嘘、嘘よ! あいつが、あの無能が、盟主様だなんて!」
パニックに陥ったルクレツィアが、思わず悲鳴のような声を上げた。
静まり返った大広間に、その甲高い声はあまりにも無様に響き渡った。
ゼーレンの冷酷な瞳が、ゆっくりとルクレツィアと第二王子を見下ろす。
「……ああ。先ほどのバルコニーでの余興の続きか」
ゼーレンは淡々と口を開いた。その声には怒りすらなく、ただ路傍の虫を観察するような絶対的な冷たさだけがあった。
「エルディスの第二王子よ。先ほど貴様は、私をつまみ出し、裏路地に放り捨てろと命じたな」
「ひっ……!」
事態を正確に理解した第二王子は、顔面を土気色に変え、ガチガチと歯の根を鳴らして震え始めた。
「ま、待ってくれ! 誤解だ、盟主殿! 私は、貴方がそのようなお方だとは知らず……! そうだ、すべてはこの女が! このルクレツィアという愚かな女が、貴方のことを無能な元夫だと私に吹き込んだのだ!」
第二王子は、先ほどまで「私の大切な剣」と呼んでいたルクレツィアを乱暴に突き飛ばし、床に額を擦りつけた。
「私は騙されていたのだ! どうか、どうかお許しを!」
「で、殿下!? 何を……!」
突き飛ばされたルクレツィアは、床に這いつくばったまま、信じられないものを見る目で第二王子を見つめた。
絶対的な権力者だと思っていた男が、今や自分の元夫の前に泥水をすする勢いで命乞いをしている。その光景は、彼女の強固なプライドを根底から粉々に砕いていくには十分すぎた。
「許す、許さないの話ではない。私は貴様らに、全く興味がないのだからな」
ゼーレンはグラスを手にしたまま、見下ろす視線すら外した。
「ルクレツィア。君は、自分が王国最強の魔法騎士だと本気で信じていたな」
「……え?」
「単独では魔法防御を貫けない地竜。それを君があっさりと倒せたのは、すべて事前に我が組織の暗殺者たちが、魔物を瀕死の極限状態まで削り落としていたからだ。君の放った魔法など、ただの派手な舞台装置に過ぎなかった」
「なっ……!?」
「騎士団の武具や物資も同じだ。市場価格の三分の一以下で最高級品が納入されていたのは、君の手腕ではない。私が組織の資金と流通網を使い、裏から損失を補填していたからだ」
淡々と告げられる真実に、ルクレツィアの顔から血の気が完全に引いていく。
嘘だ。嘘だと言ってほしかった。自分の才能と努力が、すべてこの男が裏で操っていた精巧な人形芝居に過ぎなかったなどと、認めるわけにはいかなかった。しかし、彼女の脳裏に最近の出来事がフラッシュバックする。
ゼーレンを追い出した直後、突如として取引を停止し、三倍以上の価格を要求してきた商会。第二王子の財力にすがりつかなければ、すぐにでも破綻していた騎士団の無残な現状。
すべてが、ゼーレンの言葉が完璧な真実であることを証明していた。
「あ……ああ……」
「命の恩を返し終えた君に、もはや私が与える舞台はない。その見え透いた虚栄と共に、私が抜けた後の自分の本当の無力さを、存分に味わうがいい」
ゼーレンの宣告は、彼女の人生の完全なる終焉を意味していた。
「ゼーレン様」
隣に立つエレオノーラが、扇で口元を隠しながら冷酷に微笑む。
「我が国に無礼な振る舞いをした者がいること、第一王女として深くお詫び申し上げます。この愚かな弟と、己の分を弁えない女騎士は、王家の名において直ちに捕縛し、国家反逆罪に等しい罪として裁きましょう」
「任せる。私の視界から消してくれ」
ゼーレンが背を向けると同時に、周囲に控えていた黒装束の暗殺者たち、そして王家の近衛兵たちが一斉にルクレツィアたちに飛びかかった。
「や、やめて! 離して! 私は王国最強の魔法騎士団長よ! ゼーレン、ゼーレン! 私が悪かったわ! だから、もう一度私を助けて! お願い!」
腕を拘束され、床に引きずり倒されながら、ルクレツィアは髪を振り乱して絶叫した。しかし、その無様な命乞いの声が、ゼーレンに届くことは二度となかった。
大広間に響き渡る彼女の泣き叫ぶ声は、狂騒の夜会における、極上の滑稽な余興として、ただ虚しく消費されていくだけであった。




