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幻影の天秤は傾かない〜無能な入り婿として妻に尽くしましたが、恩返しは終わったので真の姿に戻ります〜  作者: ひより那


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第3話 狂宴の夜と滑稽なる喜劇

 王都エルディスの中央に位置し、普段は他国の王侯貴族を招く際にのみ使用される壮麗なる王立迎賓館。今宵、その豪奢な建物は、建国以来とも言える異様な熱気と絢爛たる光に包まれていた。

 大陸全土の裏社会と経済を牛耳る秘密結社『幻影の天秤』。その絶対的盟主が主催する大夜会が、まさにこの場所で開かれようとしていたのである。


 迎賓館の正門前には、各国の王族や大商会の会頭たちが乗る最高級の馬車が列を成していた。しかし、組織が発行した『黒曜の招待状』を持たない者や、組織が定めた格に満たない者は、どれほど金や権力を積んで懇願しようとも、黒装束の警備兵たちによって無慈悲に追い返されていく。


 そんな厳格な選別が行われる中、ルクレツィアと第二王子は、誇らしげに胸を張ってエントランスの赤絨毯を歩いていた。


「見なさい、ルクレツィア。あの他国の王族でさえ門前払いだというのに、我々はこうして最上級の歓待を受けている」

「ええ、殿下。それもこれも、殿下の素晴らしい人脈と、私という王国最強の剣が並び立っているからこそですわ。裏社会の絶対者といえど、私たちの真の価値を無視することなどできないのです」


 ルクレツィアは、第二王子の腕に優雅に手を添えながら、鈴を転がすような声で笑った。

 彼女の身を包むのは、この夜会のために王家の国庫から莫大な予算を注ぎ込んで仕立てさせた、燃えるような真紅のドレスである。光を浴びて煌めく最高級の魔石の数々が、彼女の美貌と自信をさらに際立たせていた。


 組織の案内人に招待状を提示し、大広間へと足を踏み入れた瞬間、ルクレツィアの鼓動は歓喜に大きく跳ねた。

 天井から吊るされた巨大な魔力マナのシャンデリア。見たこともない幻の食材ばかりが並ぶ長テーブル。そして、会場にひしめくのは、大陸の歴史を動かすほどの権力者たちばかりである。


 その頂点に立つ『盟主』とは、一体どれほど恐ろしく、強大な力を持った男なのだろうか。

 ルクレツィアは想像する。圧倒的な覇気を纏った、百戦錬磨の偉丈夫。きっと彼も、王国最年少にして最強の魔法騎士団長である自分の美しさと力を見れば、一目で魅了されるに違いない。そうすれば、自分は王国の枠を超え、世界そのものを手中に収めることができるのだ。


「ふふっ……私の人生は、今日この夜からさらなる高みへと昇るのね」


 ルクレツィアは陶酔しきったため息を吐き、勝利の美酒を味わうべく、給仕からグラスを受け取ろうとした。


 その時である。彼女の蒼い瞳が、会場の隅、バルコニーへ続く静かな一角に立つ人物を捉えた。

 一切の装飾を持たない、夜の闇をそのまま切り取ったような漆黒の外套。手には琥珀色の液体が入ったグラス。その男は、狂騒に包まれる会場の中でただ一人、ひどく退屈そうに王都の夜景を見下ろしていた。


「……は?」


 ルクレツィアの思考が、一瞬だけ完全に停止した。

 見間違えるはずがない。それは数日前、自分がこの手で屋敷から叩き出し、永遠に視界から消え去ったはずの男だった。剣も振れず、魔力マナの欠片も持たない、底辺の平民。


「ゼーレン……ッ!」


 ルクレツィアの口から、憎悪と嫌悪にまみれた声が漏れた。

 なぜ、あんな寄生虫がここにいるのか。各国の王族ですら入れないこの神聖な最高権力の場に、無能な平民が入り込めるはずがない。


 ルクレツィアの脳内で、一つの都合の良い推論が瞬時に組み上がった。


「あの男……まさか、私にすがりつくために、給仕か何かに紛れ込んで潜り込んだのね……! どこまで見苦しく、浅ましい男なの!」


 己の完璧な栄光の舞台に泥を塗られたと感じたルクレツィアは、怒りでドレスの裾を震わせながら、一直線にゼーレンのもとへ向かって歩き出した。


「ちょっと! そこの貴方!」


 甲高いヒールの音を響かせて背後から怒鳴りつけると、ゼーレンはグラスを持ったまま、ゆっくりと振り返った。

 その瞳は、かつて家で彼女を見つめていた温厚なものではなく、路傍の石ころを見るような、絶対零度の冷たさを帯びていた。しかし、怒りで我を忘れているルクレツィアは、その決定的な空気の違いにすら気づかない。


「やっぱり貴方ね! 一体何のつもり? どうやってこの会場に潜り込んだの! 私から離縁状を叩きつけられて行く当てがなくなったからって、こんな場所まで私をストーカーして、復縁でも迫るつもり!?」

「……ルクレツィアか」


 ゼーレンは一切の感情を交えず、ただ事実を確認するように彼女の名を呼んだ。


「気安く名前を呼ばないでと前にも言ったはずよ! ああ、本当に不愉快だわ。私がこれから、この『幻影の天秤』の盟主様と懇意になり、世界の頂点に立とうというこの素晴らしい夜に、よりにもよって貴方のような底辺のゴミと顔を合わせるなんて!」


 ルクレツィアは扇で口元を覆い、周囲に響き渡る声でゼーレンを徹底的に嘲笑した。

 騒ぎを聞きつけ、第二王子も足早にこちらへ近づいてくる。


「どうした、ルクレツィア。……む? なんだ、この貧相な男は」

「殿下、申し訳ありません。実はこの男、私が数日前に捨てた無能な元夫なのです。どうやら私の後を追いかけて、警備の目を盗んでこの会場に忍び込んだようで……」

「なんと。魔力マナすら持たない平民のネズミが、この夜会に紛れ込んだというのか」


 第二王子は心底見下したような笑みを浮かべ、大仰に肩をすくめた。


「おい、警備の者! 何をしている、ここに不審者がいるぞ! 我々は組織の盟主殿に招かれた大切な客人だ。このような薄汚い平民が視界に入っては、美味い酒も不味くなる。さっさとこ奴をつまみ出して、裏路地にでも放り捨てろ!」


 第二王子が声を張り上げると、会場の四隅に控えていた黒装束の警備兵たちが一斉に動き出した。


 ルクレツィアは勝利を確信し、冷酷な笑みを深める。


「かわいそうに。私に縋り付こうとしたばかりに、組織の人間から半殺しにされるのね。でも、自業自得よ。貴方のような人間は、泥水をすすって惨めに這いつくばっているのがお似合いなの」


 警備兵たちがゼーレンを完全に取り囲む。ルクレツィアも第二王子も、次の瞬間にはこの無能な男が床に引き倒され、無様に命乞いをする姿を想像して疑わなかった。


 しかし、現実は彼らの予想とは全く異なる様相を呈していた。

 周囲を取り囲んだ『幻影の天秤』の暗殺者たちは、誰一人としてゼーレンに指一本触れようとはしなかったのだ。


 否、動けなかったのである。彼らの額には滝のような冷や汗が浮かび、武器の柄を握る手は微かに震えていた。無理もない。今、目の前の愚かな王族と女が「つまみ出せ」と命じた相手は、彼らが絶対の忠誠を誓う恐るべき盟主その人なのだから。一歩でもゼーレンに敵対する素振りを見せれば、自分たちを含めたこの場にいる全員が、次の瞬間には原型をとどめない肉塊に変わる。

 警備兵たちは、この無礼極まりない第二王子の首を即座に刎ねるべきか、それとも盟主の指示を待つべきか、極限の恐怖と緊張の中で完全に硬直していた。


「どうしたの? さっさとその男をつまみ出しなさいよ」


 ルクレツィアは苛立たしげに警備兵たちを急かした。彼女の歪んだ瞳には、暗殺者たちの畏怖と恐怖が、「ゼーレンがあまりにも薄汚くて、触るのすら躊躇われている」という都合の良い解釈にしか映っていなかった。


「――騒々しいですね。私の大切な『同伴者』に対して、無礼千万ではありませんか?」


 極限まで張り詰めた空気を切り裂くように、凛とした、しかし絶対的な威圧感を伴う女性の声が響き渡った。

 警備兵たちが安堵の息を吐きながら一斉に道を空け、深々と頭を下げる。その奥から現れたのは、月明かりを紡いだような銀糸の髪を揺らす、エルディス王国第一王女・エレオノーラであった。


「あ、姉上……!? なぜ、貴女がここに!」

「私がどこにいようと勝手でしょう、愚かな弟よ」


 エレオノーラは第二王子を一瞥すらせず、ルクレツィアを冷ややかに見下ろした。


「ルクレツィア団長。貴女は今、このゼーレン様を不審者と呼び、つまみ出せと言いましたね。この御方が、どれほど尊き方であるかも知らずに」

「と、尊き方、ですって……?」


 ルクレツィアは目を丸くした。王国で最も高貴な血筋である第一王女が、あろうことか、平民の入り婿であったゼーレンに対して『様』をつけ、恭しく頭を下げているのである。

 エレオノーラはゼーレンの隣に並び立つと、その腕にそっと手を添え、魅惑的な微笑を浮かべた。


「ゼーレン様。最上階の貴賓室の準備が整いました。このような無知で騒がしい猿どもの相手などなさらなくて結構です。さあ、私と共に参りましょう」

「ああ。ひどく退屈な余興だった」


 ゼーレンはルクレツィアに一瞥すら与えることなく、エレオノーラにエスコートされる形で、悠然とその場から歩き去っていった。警備兵たちもすぐに彼らの後を追い、ルクレツィアと第二王子の前には、ただの分厚い人垣だけが残された。


 静寂が戻ったバルコニーで、ルクレツィアは呆然と立ち尽くしていた。

 今の光景は一体何だったのか。なぜ、あの無能な男が、第一王女からあそこまで特別扱いを受けていたのか。


「……なるほど、そういうことか」


 先に口を開いたのは、不快そうに顔を歪めた第二王子だった。


「姉上は昔から、変わった男を拾ってきては愛玩する悪癖があったからな。どうやらあの平民は、君から追い出された後、今度は第一王女のヒモとして潜り込み、夜会に同伴させてもらったということだろう。顔立ちだけは整っていたからな」


 その言葉を聞いた瞬間、ルクレツィアの心に広がっていた僅かな混乱は、瞬く間に「安堵」と「圧倒的な見下し」へと変換された。


「まあ! そういうことでしたのね。フフッ、あはははっ!」


 ルクレツィアは扇で口元を隠し、堪えきれないといった様子で吹き出した。


「本当に、どこまでも寄生することしか能のない男だこと! 私という宿主を失ったから、今度は第一王女殿下を色仕掛けで誑かしたというわけね。第一王女殿下も随分と趣味が悪いこと。あんな魔力マナの欠片もない男のどこが良いのかしら」

「全くだ。姉上もあのような平民を貴賓室に連れ込むとは、王家の恥さらしも甚だしい。所詮は女の浅知恵よ」


 第二王子は鼻で笑い、ルクレツィアの肩を抱き寄せた。


「放っておけ。我々の真の目的は、あの男ではなく『盟主』殿だ。姉上が平民のヒモにうつつを抜かしている間に、我々が盟主殿の歓心を買えば、あの二人はまとめて破滅だ」

「ええ、その通りですわ、殿下! あんな惨めな男のことなど、もうどうでもよくなりました。さあ、私たちが真の頂点に立つための挨拶に参りましょう!」


 二人は上機嫌に笑い合いながら、再び狂騒の大広間へと戻っていく。自分たちが嘲笑した相手こそが、この世界を統べる絶対者であることにも気づかず。ルクレツィアはまたしても真実から目を逸らし、自らの手で破滅への階段を最上段まで駆け上がっていた。


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