第2話 深淵の帰還と幻影の夜会
王都エルディスの地下深く、陽の光など永遠に届かないはずの暗黒の領域。そこは無数の魔石が放つ青白い光によって、真昼のように照らし出されていた。大陸全土の経済と裏社会を完全に統べる秘密結社『幻影の天秤』。その巨大な本拠地の中枢である。
大理石で造られた荘厳な宮殿の最奥。黒曜石を削り出して作られた巨大な玉座に、ゼーレンは静かに腰を下ろしていた。
数時間前まで着ていた、平民の入り婿としての質素な服はすでにない。深淵の闇を思わせる漆黒の外套を纏い、足を組んで見下ろすその姿は、まさしく世界を裏から支配する絶対的な王のそれであった。
「盟主様。長きに渡る仮初めの生活、誠にご苦労様でした」
「貴方様が戻られたこと、組織の皆が涙を流して歓喜しております」
玉座の前に平伏しているのは、大陸全土にその名を轟かせる幹部たちである。一騎当千の暗殺ギルドの長、国家の流通を牛耳る大商会の会頭、禁忌の魔法を極めた大魔導士。表の世界であれば王族すら傅かせるほどの権力と力を持つ者たちが、ただ一人の男の前に深く頭を垂れていた。
彼らの中からは、隠しきれない怒りの感情も漏れ出ている。
「……それにしても、あの思い上がった女。あのような恩知らずな小娘のために、盟主様が身をやつし、侮蔑に耐える必要など最初からなかったのです」
「いかがいたしましょうか。我らが指先一つ動かせば、あの女の築き上げたものなど、明日の朝には灰すら残りませんが」
冷酷な殺意を含んだ進言に対し、ゼーレンは表情一つ変えることなく、ただ淡々と口を開いた。
「よい。あれは私自身が課した、ただの取引だ。命の恩を返し終えた今、もはやあの女に一顧の価値もない」
そのひどく平坦で、しかし絶対的な力を持つ声に、幹部たちは一斉に息を呑み、さらに深く頭を下げる。
「報告を。我々の不在の間、表の『舞台』はどう動いている」
「はっ。盟主様の離縁と同時に、予定通りすべての裏口からの支援を断ちました。現在、エルディス王国の魔法騎士団は、完全に自力のみで機能している状態です」
幹部の一人が報告を終えようとしたその時、重厚な扉が静かに開いた。
足音もなく広間へと足を踏み入れたのは、裏社会の澱んだ空気に似つかわしくない、一人の豪奢な女性だった。
月明かりを紡いだような美しい銀糸の髪。深紅のドレスに身を包み、気品と威厳を放ちながら歩を進めるその姿に、幹部たちは誰一人として咎めることなく道を譲る。エルディス王国の第一王女であり、次期女王と目されるこの国で最も高貴な存在、エレオノーラであった。
彼女は玉座の前まで進み出ると、ドレスの裾を優雅に摘み、冷たい石の床に躊躇いなく片膝をついた。王女という立場でありながら、その姿にはゼーレンに対する絶対的な敬意と恭順が示されていた。
「お久しぶりでございます。ゼーレン様。表の世界へのご帰還、心よりお祝い申し上げます」
「久しいな、エレオノーラ。王城の警備を抜けてここまで来るとは、相変わらず手際がいい」
「貴方様にお会いするためです。どのような壁であろうと乗り越えてみせましょう」
エレオノーラは顔を上げ、魅惑的な微笑を浮かべた。その知性を湛えた瞳には、ゼーレンの真の姿を誰よりも正しく理解している者だけが持つ、熱烈な感情が宿っている。
「それにしても、あのルクレツィアという女の愚かさには呆れ果てました。自らの足元を支えていたのが、どのような御方であったのか。それに気づくことすらできず、小手先の魔法で世界を手にしたと錯覚しているのですから」
「彼女の家門を復興させるという契約は終わった。これ以上、私が彼女の人生に干渉することはない」
「ええ、分かっております。……だからこそ、これからは私が、貴方様の隣に立たせていただきます」
エレオノーラは立ち上がり、静かな決意を込めてゼーレンを見つめた。
「ところで、私の愚かな弟である第二王子と、あの勘違い女が、結託してさらなる権力を握ろうと画策しているようですわ。彼らは今、近日中に貴方様が主催される『大夜会』の招待状を手に入れようと、血眼になって王都中を奔走しております」
「そうか」
ゼーレンの反応は、ひどく冷淡で事務的なものだった。
「いかがなさいますか? 招待状など与えず、門前払いにしますか? あの見栄っ張りな女が、会場の外で惨めに追い返される姿を見るのも一興かと存じますが」
「いや、送ってやれ」
「よろしいのですか?」
「ああ。最も高い場所から突き落とさなければ、絶望というものは味気ないからな。彼女が第二王子の庇護を受け、自分は無敵だと完全に錯覚したその瞬間に、すべてが砂上の楼閣であったと思い知らせる。それが、私なりの最後の手向けだ」
ゼーレンは窓のない虚空を見つめ、冷徹な光を瞳に宿した。
「特等席を用意してやれ。あの傲慢な女が、自分がすがりつこうとしている絶対者が誰であるのかを知り、絶望に顔を歪める瞬間を、一番近くで見下ろせる場所にな」
「ふふっ……承知いたしました、我が盟主様。極上の悲喜劇の舞台を、完璧に整えてみせましょう」
一方、王城の南側に広がる、色とりどりの薔薇が咲き誇る空中庭園。その中央に設えられた白亜の東屋で、ルクレツィアは最高級の茶器を傾けていた。
「……素晴らしい香りですね。やはり、王家の御用達は格別ですわ」
「気に入ってくれたなら何よりだ。美しい君には、常に最高級のものが相応しい」
向かいの席で優雅に微笑むのは、この国の第二王子である。彼の手招き一つで、控えていた侍従たちが次々と色鮮やかな茶菓子をテーブルに並べていく。
ルクレツィアは満足げに目を細めた。あの無能な平民の元夫を屋敷から追い出して数日が経過していたが、彼女の生活は何一つ不自由になることはなかった。それどころか、王国最強の剣である彼女を己の派閥に取り込んだ第二王子の厚遇により、以前よりも遥かに豪奢で権力に満ちた日々を送っている。
足音を響かせて東屋に近づいてきたのは、魔法騎士団の副団長だった。その顔には、隠しきれない焦燥の色が浮かんでいる。
「お茶の席に申し訳ありません。団長、至急のご報告が……」
「何よ、騒々しいわね。殿下の御前であるという自覚がないの?」
「は、はい。大変申し訳ありません。ですが、我が騎士団に武具を卸している銀狼商会が、突如として今後の取引を停止すると通達してきました。他の商会を回りましたが、どこもこれまでの三倍以上の価格を要求してきており、予算が完全に底をつく計算に……」
副団長の悲痛な報告に、ルクレツィアは微かに眉をひそめた。
これまで騎士団の武具や物資は、驚くほど安価で、かつ最高級の品質のものが滞りなく納入されていた。それは彼女の団長としての手腕……と本人は信じ込んでいたが、実際には『幻影の天秤』による裏からの援助があったからこそ成立していた異常な優遇措置である。
その後ろ盾が消滅した今、市場の適正価格に戻っただけで騎士団の運営は瞬く間に破綻の危機を迎えていた。
「ふん、取るに足らない小事だな」
鼻で笑ったのは第二王子だった。彼は扇を優雅に翻し、ルクレツィアに向けて鷹揚に頷いた。
「その商会は、王国最強の魔法騎士団の価値を理解できない愚か者なのだろう。予算が足りないのなら、私が王家の国庫から特別予算を回そう。三倍の価格だろうが五倍だろうが、言い値で買い叩いてやればいい」
「殿下……! よろしいのですか?」
「当然だ。君は次期国王となる私を支える、最も重要な剣だからな。金で解決できる問題など、問題のうちに入らない」
ルクレツィアの胸に、圧倒的な優越感と歓喜が押し寄せた。
そうだ。これが本来あるべき姿なのだ。あの魔力の欠片も持たない平民の夫が横にいた時は、なぜか商会との交渉もうまくいっているような錯覚に陥っていたが、所詮はあんな男、疫病神でしかなかったのだ。
「聞いての通りよ。さっさと新しい商会と契約を交わしてきなさい。殿下のお金でね」
「は、はい! 直ちに!」
安堵した副団長が走り去るのを見送りながら、ルクレツィアは誇らしげに胸を張った。自分の圧倒的な実力と美貌があれば、王家の財力すら自由に行使できる。自分は今、正真正銘の無敵の存在なのだと、彼女は深く、深く錯覚を重ねていた。
「ところで、ルクレツィア団長。君は『幻影の天秤』という名を聞いたことがあるか?」
王子の唐突な問いかけに、彼女は首を傾げた。
「幻影の天秤……王都の裏社会を牛耳っているという、盗賊や暗殺者の集まりのことでしょうか? 噂には聞いておりますが」
「単なる盗賊団ではない。他国の王族すら手を出せないほどの資金力と武力を持った、大陸全土の裏の支配者とも呼べる巨大組織だ。……実は、その組織の盟主が、近々この王都で大規模な夜会を主催するという情報が入った」
第二王子の瞳に、ギラギラとした野心の色が浮かび上がる。
「いいか。その夜会には、近隣諸国の王族や大貴族たちがこぞって参加を希望している。もしその夜会に我々が参加し、あの組織の盟主に気に入られるようなことがあれば……姉上、第一王女のエレオノーラなど、容易く玉座から引きずり下ろせる」
「まあ……! それは素晴らしいことですわ」
「ああ。だが、参加するには組織が発行する『黒曜の招待状』が必要不可欠だ。どれだけ金を積んでも買えない代物だが、私の人脈と君という王国最強の剣の威光を示せば、必ず手に入るはずだ」
ルクレツィアは薔薇色の唇に笑みを浮かべた。
裏社会の絶対的な支配者。もしそのような強大な権力者と繋がりを持つことができれば、もはやエルディス王国の中だけで収まる器ではなくなる。自分の才能は、大陸全土に轟くことになるのだ。
「お任せください、殿下。私の実力と美貌をもってすれば、どのような裏の権力者であろうと、必ずや味方につけてみせましょう」
彼女は自分に与えられた虚構の力を疑うことなく、来るべき夜会に向けて闘志を燃やしていた。自分が擦り寄ろうとしている裏社会の絶対的支配者が、つい先日「無能」と見下して追放した元夫であることなど、夢にも思わずに。




