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幻影の天秤は傾かない〜無能な入り婿として妻に尽くしましたが、恩返しは終わったので真の姿に戻ります〜  作者: ひより那


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第1話 虚栄の凱旋と終わる恩返し

 エルディス王国の王都は、建国以来とも言える熱狂的な歓声と熱気に包まれていた。

 抜けるような青空の下、大通りを埋め尽くす民衆の視線の先には、白銀の甲冑に身を包んだ一団が悠然と行進している。王国最強の武力と謳われる魔法騎士団の凱旋であった。


 その先頭で白馬に跨り、誇らしげに民衆の歓声を浴びているのは、若き魔法騎士団長ルクレツィア。彼女の背後に続く何台もの荷馬車には、討伐されたばかりの地竜アース・ドラゴンの巨大なむくろが積まれていた。


 単一の騎士団では到底太刀打ちできないとされる災害級の魔物。それを退けた英雄の帰還に、王都の熱狂は最高潮に達していた。


「見事な戦果だ、ルクレツィア団長。君こそが我がエルディス王国の誇り、最高峰の剣だ」


 王城のバルコニーから彼女を出迎えたのは、豪奢なマントを羽織った第二王子であった。彼は次期国王の座を狙う野心家であり、強大な武力を持つルクレツィアを己の派閥に引き込もうと、かねてより並々ならぬ執着を見せていた男である。


「もったいないお言葉です、殿下。この程度の魔物、私の魔法の敵ではありませんわ」


 ルクレツィアは白馬から降り、優雅に膝を折って臣従の礼をとった。


「頼もしいことだ。君のような本物の天才がいれば、私の王位継承も盤石というもの。……例の件、前向きに考えてくれていると信じているよ」


 第二王子の意味深な囁きに、ルクレツィアは艶やかな笑みを浮かべて頷いた。

 例の件。それは、彼女が「現在の身辺」を整理し、名実ともに第二王子派閥の筆頭として、さらなる高みへと登るための密約であった。

 ルクレツィアの胸は、圧倒的な全能感と優越感で満たされていた。自分の美貌と、血を吐くような努力で手に入れた魔法の才能。それさえあれば、王族ですら自分を欲しがるのだ。自分はこの世界の頂点に立つべくして選ばれた存在なのだと、彼女は一片の疑いもなく信じ込んでいた。



 同じ頃、王都の一等地にそびえ立つルクレツィアの広大な邸宅。その薄暗い執務室で、一人の男が静かに窓の外を見つめていた。

 ゼーレン。強力な魔力マナを持たず、剣を振るう腕力すらない、平民上がりの男。数年前、没落寸前だった彼女の家門に転がり込んできた「無能な入り婿」である。

 遠くから微かに聞こえてくる凱旋の喧騒に、彼は一切の感情を動かすことなく、ただ決められた時間が訪れるのを待っていた。


「……帰還されたか」


 ぽつりとこぼれ落ちた呟きは、誰に向けられたものでもなかった。

 やがて、屋敷の玄関ホールに乱暴な足音が響き渡る。ルクレツィアが、数人の高位騎士たちを引き連れて邸宅へと戻ってきたのだ。

 ゼーレンが静かに階段を下りて出迎えると、それまで談笑していた華やかな空気が、一瞬にして冷え切った。


「お帰りなさい、ルクレツィア。見事な戦果だったね」

「気安く名前を呼ばないで頂きたいわね」


 氷のように冷酷な声が、ゼーレンの労いの言葉を無残に切り捨てた。ルクレツィアは路傍ろぼうの汚物でも見るような目で夫を一瞥すると、すぐに興味を失ったように視線を外した。背後に控えていた副団長の男が、あからさまな嘲笑を浮かべて前に出る。


「相変わらず、安全な家の中で息をしているしか能がない男だ。団長が命がけで凶悪な地竜を討ち果たしたというのに、魔力の欠片も持たない貴様は、埃ひとつ被っていない綺麗な服で出迎えるだけか」


 周囲の騎士たちからも、遠慮のない忍び笑いが漏れる。王国最強の天才ルクレツィアの夫が、ただの寄生虫であるという事実は、彼らにとって格好の優越感の的だった。


 ゼーレンは彼らの侮蔑の言葉に反論することなく、ただ静かに首を垂れた。


「もういいわ。執務室に来なさい。貴方に話があるの」


 吐き捨てるように言い放ち、ルクレツィアは足早に廊下の奥へと歩き去っていく。


 ゼーレンが執務室へと向かった後。誰もいなくなった屋敷の裏庭、陽の当たらない深い暗がりの中で、空間がわずかに歪むと、黒い装束に身を包んだ二つの影が、音もなくそこに現れる。


「……滑稽なものだな。あの女、自分の魔法の力だけで地竜の硬鱗を貫いたと、本気で信じ込んでいるらしい」


 影の一つが、深い嘲りを込めた低い声で囁いた。


「当然だ。我々が数日がかりで地竜の魔力核を破壊し、鱗の強度を限界まで削ぎ落とし、瀕死の状態にまで追い込んでおいたのだからな。あの程度の児戯のような魔法で、万全の地竜に致命傷を与えられるわけがない」


 もう一つの影が、淡々と事実だけを述べる。彼らは王国の裏社会、ひいては大陸全土の経済と裏の権力を支配する秘密結社『幻影の天秤』に所属する暗殺者たちだった。


「すべては、あの方の御心のままに。あの思い上がった女に、望むだけの栄誉と権力を与えるための舞台装置に過ぎない」

「だが、その退屈な遊戯も今日で終わる。ついに我らが盟主様が、あの忌まわしい契約から解放されるのだからな」


 影たちはそれ以上言葉を交わすことなく、再び底なしの闇の中へと溶け込んでいった。


 執務室の重厚な扉が閉められた瞬間、ルクレツィアは机の上に一枚の羊皮紙を無造作に投げ捨てた。


「これにサインなさい。離縁状よ」


 ゼーレンは卓上に滑り込んできた羊皮紙と、革張りの椅子に深く腰掛けた妻の顔を交互に見つめた。


「理由を、聞いてもいいか?」

「理由? そんなもの、自分の惨めな姿を鏡で見てみればわかるでしょう」


 ルクレツィアは苛立たしげに腕を組み、射抜くような冷たい眼差しでゼーレンを睨みつけた。



「私は王国最年少の魔法騎士団長。今や第二王子殿下からも直接の覚えめでたく、この国の実権を握るに等しい立場になったわ。それに引き換え、貴方は何? 剣も振れず、魔法も使えない。ただ私が与えた金と地位で生き長らえているだけの、無能な平民よ」


 彼女の言葉には、一片の迷いも罪悪感もなかった。没落寸前だった自分の家門がここまで復興し、上り詰めることができたのは、ひとえに自分自身の類まれなる才能と努力の結果であると、完全に錯覚しきっていたからだ。


「数年前、路地裏で死にかけていた貴方を拾い、あまつさえ私の夫という立場を与えて養ってあげた恩。……そうね、没落しかけていた当時の私にとって、貴方のような平民でも、厄介な縁談を避けるための『防波堤』程度の役には立ってくれたわ。だから、これまでの不自由のない生活で、その借りは十分に返してあげたはずよ。これ以上の欲をかいて、私の輝かしい栄光の邪魔をしないでちょうだい。これからの私には、第二王子殿下という素晴らしい後ろ盾がいらっしゃるの。貴方のような寄生虫は、もう用済みなのよ」


 ゼーレンは静かに目を伏せた。

 脳裏に浮かぶのは、数年前の古い記憶。敵対組織の強力な呪毒に侵され、泥水に塗れて倒れていた自分に手を差し伸べてくれた、身なりの貧しい少女の姿だった。

 泣きながら不器用に看病してくれた、あの純粋で優しかった少女は、もうここにはいない。彼女が手にした虚構の成功と、権力という甘い毒が、彼女の精神を傲慢な化け物へと完全に作り変えてしまったのだ。


 だが、それでよかった。彼女が望んだ「家門の復興」と「絶対的な地位」は、裏から組織の力を総動員して十分に与え尽くした。そして今、彼女は新たな権力者にすがりつき、自身の明確な意志によって、彼という存在を完全に切り捨てた。


 ゼーレンは卓上の羽ペンを手に取ると、一切の躊躇いをみせることなく離縁状に署名をした。


「……そうか。君がそれを望むなら」


 そこに未練や絶望の響きは一切なく、ただ事実を確認するだけの、ひどく静かで平坦な声だった。


「これでようやく、あの時の恩は返しきったな」

「負け惜しみ? みっともないわね。サインをしたなら、すぐに出て行きなさい。二度と私の視界に入らないで」


 ルクレツィアは冷笑を浮かべ、窓の外へ顔を向けた。それが、彼女がかつての夫に向けた最後の姿だった。


 ゼーレンは一礼すらすることなく、静かに執務室を後にした。

 自室に戻って荷物をまとめることもなく、そのまま屋敷の裏口から外へと出る。夜の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込むと、数年間に及ぶ長く退屈な遊戯が、本当に終わったのだという実感が湧いてきた。


 王都の裏路地に足を踏み入れると、周囲の空間が急速に温度を下げていく。月明かりすら届かない漆黒の闇の中から、無数の気配が音もなく立ち現れた。それは王国最強と謳われる魔法騎士団など束になっても敵わない、絶対的な死と暴力の象徴たち。

『幻影の天秤』の精鋭たちが、一斉に片膝をつき、深く首を垂れた。


「帰ろう。私たちの居場所へ」


 ゼーレンの纏う空気が、無能な平民のそれから、絶対的な支配者のものへと変貌する。温厚な入り婿を演じていた瞳は消え失せ、そこには世界を裏から平定する『絶世』の冷酷な光が宿っていた。


 華やかな屋敷に残されたルクレツィアはまだ知らない。彼女がすべてだと信じて疑わない栄光の土台が今この瞬間に消え去り、やがて取り返しのつかない絶望となって己に降りかかるということを。


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