第63話 獣人族の姫【番外編】
「姫さま! 魔王陛下への輿入れが決まりましたぞ! 姫さま! キサさま!」
遂に決まってしまった……
早く逃げなければ……
キサは魔国の中の獣人族の姫だった。白くて長い髪とピンと立った猫耳、フサフサの豊かな尻尾が美しい。金の瞳をもつ女性だった。
魔国の中のいくつかの部族の長たちが集まり開かれる族長会議で、魔王の后がキサに決まってしまったのだ。
キサは前もって準備していた荷物をアイテムボックスに投げ入れるように詰め込み、屋敷を抜け出した。
何処に逃げれば良いかは分からなかったが、獣人族の領地の森を走り続けた。
キサがどうして魔王の妻になりたくないかは、単純な理由だった。会ったこともない、愛していない男に嫁ぐ事に強い抵抗感があったからだ。
獣人族は元来、情熱的な一族だと言われていた。その証拠に里の大人たちはほぼ全員恋愛を経て結婚相手を見つけていた。キサの父である族長と母も恋愛結婚で、いつも仲睦まじく過ごす様子を見てきたキサは大きくなれば自分もあのようになるのだと信じていたのだ。
キサはキサのささやかな夢が目の前で崩れそうになっている現実を受け入れられなかった。
獣人族なので、脚力には自信があった。
どこまでも走り続けて国を出よう……
走り続ければ、いつかは国を出られるはずだ。
辺りは段々と暗くなり、夜になった。一日走り続けたキサであったが、まだ森を抜けられずにいた。
夜になると森には魔物が出る。身体能力こそ高かったキサだが、族長の娘として蝶よ花よと育てられたので戦うすべなど持ち合わせていなかった。
何か生き物が近くにいる気配を感じたキサは木の蔭に隠れたが、その生き物からは、そんなキサの動きもお見通しだったのであろう。すぐに木の前に回り込まれてしまった。
長い牙を持つ、巨大な虎の魔物だった。腹を空かせているのか、キサを見て口からボタボタと涎を垂らしている。
キサは魔物を見ると震え上がり、腰を抜かしてしまった。走って逃げなければいけないのに体がいうことを聞かない。
魔物がキサの息の根を止めようと前足を高く振り上げ時、黒い影が魔物とキサの間に立ちはだかった。
黒い影の人物は腰に下げていた剣に手を当て、一瞬消えた。再び現れた時には、虎の魔物は真っ二つになり、虎の尾の方にその人は立っていた。
月の光を受けて、先ほどは見えなかった姿がはっきりと見えた。黒髪に山羊のような角が頭から生えた背の高い男だった。
「陛下! 獣人族の姫は見つかりましたか!」
一羽の白い鳥がパタパタと飛んできて、男の腕にとまった。
「あぁ、見つけた。おそらく、この娘だ」
男はキサのことを顎で指して、鳥に伝えた。
キサは震えが止まらなかった。
さっき、あの鳥はこの男のことを陛下と呼んだ。
この国で、陛下と呼ばれる人は一人しかいなかった。
魔王陛下、その人だ。
腰を抜かして立てなくなっていたキサに、魔王は近づき、無理やり腕を引っ張って立たせた。
「痛い!」
強引に立たされたキサは腕に痛みを感じ声を出した。魔王は全く気に留めることなく、キサの腕を引っ張って歩いた。
近くに魔王が乗って来たのであろう角のある黒い馬が一頭草を食んでいた。
「乗れ」
魔王は短く冷たい声でキサに命令した。
キサは鞍に手を当て、鐙に足をかけて馬にまたがった。魔王もキサの後ろに乗り、馬の腹を蹴って走らせた。
しばらくは気まずい無言の時間が流れたが、キサの背中から魔王が話しかけてきた。
「なぜ、逃げた。一族から后が出ることは、一族の誉れのはずだ」
魔王は冷たい、淡々とした口調で話した。
「…………言いたくありません」
魔王は、キサの返事を聞いて舌打ちした。
「お前が私の后になることは、族長会議で決まったこと。逃げられるはずもないのに愚かなことをしたものだな」
魔王は、キサの逃亡を鼻で笑った。
陛下は、私のことが嫌いなんだわ……
魔王の態度を見て、キサはそう感じていた。国の掟に従わず逃げたキサのことを心底軽蔑しているようにキサは感じ、心の中が冷えていくのを感じた。
* * *
「起きろ。ついたぞ」
一日走り続けた疲れと夜だったこともあり、キサは気がつくと寝てしまっていたらしい。魔王はキサが馬から落ちないように片手でキサのことを抱えていた。
キサの眼前には漆黒の石で造られた大きな城がそびえ立っていた。キサにはその恐ろしい佇まいがキサを閉じ込める監獄のように見え、体が震えた。
城の門を馬に跨ったままくぐると、中には広い庭があった。魔王はそこで馬を降りたので、キサもそれに習った。
「ごめんなさい……長い距離を走って疲れたでしょ……」
キサは乗せてくれた馬に声をかけた。馬は気にするなとでも言いたいのか、鼻先でキサの頬をつついた。
「こっちだ。早く来い」
魔王は変わらずキサに冷たかった。
キサは魔王の後ろを何も言わずに歩いた。
しばらく歩き、長い長い階段を登った塔の上にキサの部屋はあった。
「ここがお前の部屋だ。何か困ったことがあれば、ヨーツェンを呼べばなんとかしてくれるだろう」
それだけ言うと魔王は部屋を出ていった。
キサの部屋の扉の鍵が外側から閉められる音がした。どうやら閉じ込められたらしい。
キサは逃げ道はないかと、窓に駆け寄ったが、この部屋は魔王城の一番高いところに位置しているらしく、とてもじゃないが窓から脱出できる高さではなかった。
キサは天蓋付きの豪華のベッドに顔を埋め泣いた。この部屋から、一生出られないのではないかと感じ、自分の人生が終わってしまったような感覚に襲われていた。




