幼馴染がそばに居てくれたから立ち上がれそうだ
「だりぃ……」
もう十月も半ばだというのにうだるような暑さは衰えを知らず、高校に登校するだけで生きる気力がごっそりと削られてしまう。どうにか教室に辿り着いた時には物言わぬ屍と化して机の上に体を投げ出すことしかできない。
「おはよう、龍臣」
「ああ……」
「もう、挨拶はちゃんとしないとダメだよ」
「おっす」
幼馴染の女子、丸山 円花に挨拶を返すことすら億劫だ。
何もやる気が出ない。
このまま溶けて空気と一体化してしまいたい。
「それで申し開きは?」
「何のことだ?」
「どうして一人で登校しちゃったのよ」
「一緒に行くなんて約束してないだろ」
「あ、ふ~ん。そういうこと言うんだ」
俺達は別に付き合っている訳では無いのだから、むしろこれまで一緒に登校してたのが変だろ。
今の回答でどうやら円花はお冠のようだし、これからは一人の時間を過ごせるかな。
「帰りは絶対に一緒に帰るからね。勝手に帰ったら本気で怒るよ」
解放してくれなかった。
本気で怒られるのは面倒だな。
でも一緒に帰るのも面倒だ。
何もかもが面倒だ。
「返事!」
「あ~」
「へ・ん・じ!」
「うぃ~」
「もう」
ほれほれ、予鈴が鳴ったからそろそろ自分の教室に戻れ。
幸いにも俺達は教室が別だから授業中は束縛から解放される。
でも休み時間になると毎回必ず来るのが面倒なのでどうにかしたい。
こいつが来なければ俺は一人でまったり出来るのに。
「それじゃ次の休み時間に」
「来なくていい」
「じゃね」
そっちこそ返事をしろよな、まったく。
はいかイエスの二択だろうが。
そのくらい面倒な俺にでも出来るぞ。
「円花」
「何?」
去ろうとする円花の背に声をかけると彼女は振り返ってこっちを見た。
そこでようやく俺は今日はじめて円花の顔を見た。
「いや、何でもない」
「あ、そ」
どうして俺は声をかけてしまったのか、自分でも謎だ。
そういえば円花がうっすらと涙目だったような気がするが、眠かったのだろうか。
――――――――
「あ~! やっぱり先に帰ろうとしてる!」
「げっ」
速攻で帰ろうと思ったら見つかってしまった。
うちのクラスの担任って最近帰りのホームルームが終わるの遅すぎる。
これじゃあ逃げられないじゃないか。
「丸山さんいつもありがとうございます」
「いえこちらこそありがとうございます」
円花は担任とすれ違いざまに意味が分からない挨拶をしてからこっちに来た。
別のクラスなのに交流があるのだろうか。
「さ、帰ろ」
「お疲れ様でした~」
「何で残業するから見送りしますみたいな雰囲気出してるのよ。一緒に帰るの」
「めんどい」
「じゃあその気になるまでここでお話しよ」
「……帰る」
「うん」
どうにも振り回されっぱなしだ。
いっそのことクラスの誰かと遊びに行く約束でもすればついてこなくなるだろうか。
やっぱり面倒だからパスで。
仕方なく鞄を手に帰宅する。
「トイレ」
「待ってる」
「うい」
「逃げたら本気で泣くからね」
「……うい」
窓から逃げるのはダメですかそうですか。
これ以上抵抗するのも面倒だし諦めるか。
昇降口、校門、そして通学路。
右手に持った鞄を右肩にかけながらゆっくり歩いていると、円花がどうでも良い事をひたすら話して来るので適当に『うい』とだけ返すマシーンと化す。
本当に面倒だ。
何もかもが面倒だ。
帰るのも、歩くのも、信号待ちするのも、息をするのも面倒だ。
まるで夢の世界にでも紛れ込んだかのように現実感が無く、ただただ脱力して生きて行く。
「きゃっ!」
「ん?」
しかし円花の声で強制的に意識が現実に引き戻されてしまった。
「な、なんでもないの。ちょっと虫が首に……」
「うい」
確かに円花の傍を小さなアブのようなものが飛んでいた。
鞄でしっしっとやったらどこかに飛んで行った。
「ありがとう」
「うい」
またあの脱力の世界に入り込もうと意識を切り替えよう。
だが遅かった。
「あの子ってこの前の……」
「あぁ、エラーしちゃった子ね」
なんて運が悪いのだろうか。
世の中の全てをシャットアウトして意識を閉じ込めていたというのに、ほんの一瞬クリアになった瞬間に聞こえてしまうだなんて。
「可哀想に」
「気を落としてないと良いけど」
「隣にいるの彼女じゃないかしら」
「そうみたいね。恋愛してるなら平気ってことでしょ」
「あんなことがあってよくそんな気になれるわね」
ダメだ。
聞くな。
意識を閉じろ。
「はぁっ、はぁっ、ぐっ、はぁっ、はぁっ」
思い出すな。
考えるな。
俺は、俺は、俺は……
「……み……おみ……龍臣!」
「かはっ!?」
あ、あれ。
俺一体……?
「龍臣。大丈夫だよ。龍臣」
「まど……か?」
「龍臣。龍臣。龍臣」
「…………」
おいおい、何がどうなってるんだ。
往来のど真ん中だってのに、円花がめっちゃ抱き着いて来てるんだが。
俺達ってそういう関係じゃないだろ。
だからさ、そんな泣きそうな顔で笑わないでくれよ。
「落ち着いた?」
「……ああ、ありがとう」
まだ体が震えている。
嫌な汗が止まらず体中がぐっしょりと濡れている。
呼吸もまだ荒いし心臓がバクバク鳴っている。
でもこれ以上ここには居たくなかった。
俺は円花に支えられるようにしてこの場からフラフラと逃げ出した。
――――――――
なんてことはない。
夏の高校野球、甲子園一回戦。
初出場で地元の熱狂的な期待に後押しされて挑んだ野球部は、最終回ツーアウトまで一点リードしていたものの、最後の最後で簡単なフライを落球してサヨナラ負けを喫してしまった。
そのエラーをしたのが俺で、まだ立ち直れていないと言うだけの話。
気が付いたら俺は人気の無い公園のベンチに座っていた。
街中でパニックになりかけた俺を円花が連れて来たのだろう。
「…………」
まだ調子が戻らない。
吐きそうで、眩暈がして、罪悪感で死にたくなる。
でも隣に座る円花の体温を肩越しに感じると少しだけ心が落ち着いた。
分かっていたさ。
円花が俺を心配してずっと付き添ってくれていたってことくらいな。
それが申し訳なくて今朝は一人で学校に行ったが、途中で車道に飛び出てしまいたくなる衝動にかられて危なかった。円花が居なかったら俺はもしかしたらもう……
「龍臣」
円花が立ち上がり、俺の前に立った。
そして俺の頭を両手で優しく包み、胸に抱いた。
「ま……円花?」
制服越しだけれど、柔らかな感触がはっきりとわかる。
俺を落ち着かせるためにしては大胆過ぎやしませんか。
「私は龍臣の格好良い姿も情けない姿もたくさん見て来たよ」
円花は俺をあやすためにこうしてくれているんだ。
慈愛に満ちた心を温めてくれるような声でそれが分かった。
「小学生の時、先生を『お母さん』って呼んじゃったね。中学生の時、お祭りで迷子になって放送で呼び出されて恥ずかしくて涙目になってたね。野球の練習試合の時、ユニフォームが破けて下着が見えちゃって照れてたね。全部知ってるよ」
めっちゃ恥ずかしいから思い出させないでくれませんか。
「だから私にだけは何を言っても良いんだよ。嬉しい事も楽しい事も辛い事も悲しい事も、ずっと共有してきたじゃない」
そうだ。
俺達はずっと一緒に歩んできた。
円花が俺の事を知っているように、俺も円花のことを知っている。
だって俺達は幼馴染だから。
「ここには私達しか居ないよ。だから我慢しなくて良いんだよ」
円花の手に少し力が籠められ、俺の顔は更に円花の胸に押し付けられる。
ああ、なんて温かいんだ。
円花が俺を想う気持ちがじんわりと伝わって来る。
つぎはぎだらけで今にもバラバラになってしまいそうな俺の心に、温もりが染み込んでくる。
「どうしたら良いか……分からないんだ」
気付けば俺は自分の気持ちを口にしていた。
「俺のせいでチームが負けて、皆の期待を裏切って、どんな顔をすれば良いのか分からない」
もちろん謝った。
チームにもクラスメイトにも応援してくれた人達にも謝った。
大丈夫。お前は悪くない。こんなこともあるよ。もっと点を取らなかった俺達が悪いんだ。気に病まないで。
直接俺を責めるような人はいなかった。
でもやらかしてしまったミスが大きすぎるが故に、決して許されはしないとしか思えない。
「プロを目指していた先輩たちの夢を閉ざしてしまったかもしれない。せっかく勝てそうだったのにって応援してくれた人達をがっかりさせてしまった。あいつがミスしなければ勝ってたのにって本当は誰もが思ってる! 俺のせいだって皆思ってるんだ! 俺が全てをぶち壊しにしてしまった!」
学校中の人達が、街中の人達が俺を見つけると心の中で指を指しているんだ。
お前のせいで負けたんだ。
お前がミスしたから負けたんだ。
「どうやって詫びたら良いか分からない。どうやって償えば良いか分からない。生きているだけで申し訳なくなってくる」
決して誇張ではない。
SNSで俺のミスについて議論されているのを偶然見つけた時、日本中から責められているような気がして本気で死のうと思った。俺の異変に気付いた両親が必死で止めてくれなかったらどうなっていたことか。
「俺は……取り返しのつかないことを……うっ……ううっ……」
俺はあの日の呆然自失の状態から何も変わっていない。
自責の念と他者の視線から逃げて心を守るためにそうするしかなかった。
でも今日、自分の気持ちを口にしたことで俺の中での時が動き、涙が溢れ出た。
「ううううっ……ああああっ……うあああああ!」
動き出した時は止まらず、激しい嗚咽と共に子供のように泣きじゃくる。
円花の体にしがみつき、顔を胸に強く押し付けて気持ちを吐き出す。
円花がいてくれて本当に良かった。
円花が傍で支えてくれなければ、俺はとっくに壊れていただろう。
――――――――
「…………」
どれくらい経っただろうか。
円花の制服をぐしょぐしょにするくらいに泣き続けた俺は、照れくさくて顔を離せないでいた。
「ありがとう龍臣」
「え?」
いきなりお礼を言われたんだが、むしろ俺の方が話を聞いてくれたお礼を言うべきなのではなかろうか。
「私を信じて教えてくれて嬉しい」
なるほどそういうことか。
「そりゃあ信じるだろ」
「どうして?」
「だって幼馴染じゃないか」
「……ふふ、そうだね」
最初にそう言ったのは円花じゃないか。
俺達はどんなことでも共有して成長して来たってさ。
円花だからこそ言えたんだ。
円花以外には言えるわけが無い。
「ねぇ龍臣」
「うい」
「私には龍臣に答えをあげられない」
そりゃあ当然だ。
そんなにパッと答えが出るような話であれば、俺はこんなにも苦悩していない。
「でも傍に居てあげることは出来る」
「…………」
「たとえ龍臣が自暴自棄になっても、私に苛立ちをぶつけたくなったとしても、傍に居て全部受け止めてあげる。だからお願い」
「…………」
「生きて」
はっとして俺は顔を上げて円花を見た。
その顔は女神とでも思えるくらいに愛に満ち溢れていたが、瞳から大粒の涙が零れていた。
「円花……ごめん……」
「謝らないで。私は龍臣がこうしてここに居てくれるだけで……」
円花は俺が自殺するかもしれないと察していたのだろう。
そして心を激しく痛めてくれていたのだ。
そのことに気付かなかっただなんて、いや、気付いていたはずなのに俺は自分のことばかりでスルーしていた。最低だ。
「自分を責めないで。龍臣の負担にはなりたくないの。龍臣の助けになりたいの」
「ああ……ああ……」
「でもどうしても気になるなら、私が将来困っていたら助けてね」
「もちろんだ!」
絶対に。
それこそ全身全霊をかけて助ける。
傍で寄り添って支えてやる。
「ありがとう円花。おかげで力が湧いて来たよ」
「え?」
「円花を助けられるようになるには、元気にならないとダメだからな」
「龍臣……」
「わ、わわ。もうハグは良いって!」
感極まって円花がまた俺の頭を抱いて来たけれど、彼女の制服は俺の涙でかなり濡れているから少し嫌だった。
SNSが普及したこともあって、高校野球で致命的なエラーをした生徒が心を病んで悲しい結末になる事件がそろそろ起きそうで心配です。