感吃の汁
筋は剝かずに食べる派です。
そこに蜜柑があるとする。
橙色に熟れた蜜柑だ。
それを食うと思うとき、人は何を思うだろうか。
冬、あるいはどの季節でも、蜜柑を食うとなれば、人はまず皮を剝く。
少しづつ、親指で中の実を傷付けぬよう、また剝く皮と途切れさせぬよう、ゆっくりと剝くだろう。
そうして生まれた白い筋に囲まれたこの薄橙の物体を、人はまた蜜柑と呼ぶ。
このとき剝離された皮のほうは、ここで役目を終え、「蜜柑の皮」ではなく唯の「皮」となる。
そしてそこに再び蜜柑が誕生する。
その後、それは周りの筋を剥がされ、橙が濃く見ゆるようになる時、人の手により口へと運ばれる。
そして白い歯と舌によって、潰されるのだ。
ひとつひとつの房の中にある粒は、汁と化して喉を蔦る。
そしてやがて消えてしまう。
ここで改めて飲み込まれた蜜柑と、剥がされた蜜柑について考える。
人の手により剥がされた蜜柑は、ただの皮となりその場所で放置される。
その後人が手を加えるとすれば、袋の中に入れられるときくらいだろう。
人の手により飲み込まれた蜜柑は、形をすぐに失せ消えてゆく。
そう、こちらのほうを大事に扱った人は、簡単に裏切り潰して汁にしてしまうのだ。
言うなれば矛盾である。
結果としては粗末に扱った方を無意識に大事にし、懇切丁寧に扱った方を殺してしまうのだ。
客観視してみれば恐ろしい情景である。
あなたならどう思うか。
丁寧に触られてから素早く地獄へ落とされる方か。
粗暴に扱われたとしても前者よりは長く生きることを許されたものか。
どちらの生の味が良いか。
無論、筆者は残された皮に成る方が、良いと思う。
喩え吃る人生を生きるとしても、噛み続ければいつか必ず消える汁よりかはマシな生を送ることができると信じよう。
地獄に落ちるよりは、苦しみながらも自分を信じ生きることが、最適解だろう。