09.アルエ
コルボがカフェ『クポル』に出入りするようになってひと月が経とうとしていた。
『クー・デール』としての活動、つまり子供達への教育活動は継続的に行われ、コルボも週の半分はそれに参加した。
食事にありつけるという生活上の理由もあれば、誰かの役に立っているという信念上の理由もあったが、なによりも、フォコンやオトゥー、あるいはエーグルが語る内容に、コルボ自身の学びが大きかった。
一月末、コルボは月末の大市の人出として夕方まで働いた帰りに、カフェ『クポル』に寄った。
既にいつもの慈善活動が終わっているのは分かっていたが、冷えた体に、あの店のシチューを口にしたいという思いが募ったからである。
幸い、年初めの大市ということで、普段よりも銀貨が三枚多く支払われた。
普段はパンか、野菜くずのスープだけで間に合わせるところだが、少し色を付けても問題ないだろう。
「いらっしゃ……コルボ! 珍しいね」
はじけるようなイルの笑顔に、コルボは小さく笑った。
魅力的な笑顔だと思う。
前にオトゥーが、イルに手を出すなという類のことを言っていたのを思い出す。
あれは、半分は冗句だったのだろうが、半分は本気だったのだろう。
もしかすると、どこぞの貴族が手籠めにしようとした経緯でもあるのかもしれない。
「クポルのシチューが食べたくなって。席、あいてるかな」
「こっちだ、こっち!」
奥から聞こえてきたのは、オトゥーの大声だった。
「いつもの顔ぶれが揃ってるよ。あ、でも、最近はコルボが加わらないと、いつもの面子にならないか」
イルはにこっと笑って他の客の案内をしに行った。
招かれてコルボは店内を進み、大きな円卓に着いた。
「遅い時間に、珍しいな。初めてここに来た時以来か」
エーグルが笑って言った。
彼とも何度か、慈善活動で同行した。
そのせいか、彼の方でもコルボに心を開いているような、そんな表情を見せるようになっていた。
ただ、エーグルと話しているときに湧き上がってくる「この人のために何かをしなければ」という衝動は、慣れることはあっても、無くなるということはなさそうだった。
魔法の類なのだろう、とコルボは考えるようになっていた。
「歌姫の噂を聞きつけたか。まぁ、男なら、女の評判に右往左往して当然か」
ダンドンが顎を上げて言う。
エーグル、あるいはフォコン、オトゥーとは異なり、ダンドンが例の活動に参加したのは、コルボの知る限り一度だけだった。
しかもそのただ一度のときも、有名な商家の所有する館に着くや否や、恰幅の良い持ち主と別室に消えたきり、学びを求める者たちの前に姿を見せなかった。
コルボの心持として、正直な部分は、このダンドンという男に対して嫌悪感だけがあった
そのダンドンに返事をしようとしたとき、店の中に美しい声が流れた。
声は節をつけて、曲を奏で、聴くものたちを次々と恍惚とさせていく。
視界の端で、匙を手に持ちながら、口の前で静止させている客の姿が見えた。
「口を閉じるのを忘れているぞ、『善人』」
ダンドンの声にハッとしながら、コルボはそちらに視線を向けなかった。
ただ、その歌を披露している女性を見た。
艶のある黒髪は肩の高さくらいで切り揃えられ、切れ長な目つきによく似合っている。
女性としては身長も高く、目を引く立ち姿だった。
一曲が歌い終えられると、店中から拍手が巻き起こった。
オトゥーが指で輪をつくって口に添え、甲高く笛の音を響かせた。
「アルエちゃーん! 今日も最高だぜ!」
歌姫は、五人がかける円卓に向かって片目をつぶってみせてから、唇に手を当て、ふっと投げる仕草をした。
ぎゃあっ、とオトゥーが胸に手を当てて、銃で打ち抜かれたようにのけ反った。
それを見て、歌姫が笑い、客もおおいに笑った。
「あれは?」
「アルエ。あちこちの酒場で歌い歩いている、まさに歌姫だよ」
フォコンが微笑んで教えた。
「あちこちの貴族から声をかけられても、私は私を売り物にしませんと突き返し、市民に歌を届け続けている。立派な人だよね」
詳しいな、とコルボが感心すると、ダンドンが鼻で笑った。
「誰でも知っていることだ。まぁ、文化に興味があればだが」
顔をしかめそうになるのをぐっとこらえるコルボだったが、フォコンは眉間に皺を寄せていた。
「僕が知っているのは、僕の父も彼女に声をかけてふられたからだよ。いつも言っているけれど、知らないことは責められない。ましてや、コルボくんを侮辱するのは、やめなよ」
「まぁまぁ、熱くなりなさんな、フォコン。このダンドンから嫌味、皮肉、悪口をとったら服しか残らんって。あ、潤沢な活動資金は残るか」
今度は、ダンドンの眉間に皺が寄った。
なるほど。
このダンドンという男は、つまるところ、パトロンなのか。
てっきりエーグルやフォコンが貴族だから、彼らの金回りがいいのかと思っていたが、ダンドン――おそらく豪商の家の人間――の資金力が後ろ盾としてあるのだ。
今度、お宅の場所を教えてもらうとしよう。
「仲間を侮辱するな、は今の発言にも言えることだ」
エーグルが言うと、オトゥーは頭を搔いて笑った。
「主義や思想が違っても、手を取り合わなければ変革は成し遂げられん。言い争うなとは言わんが、仲間内でいちいち火種をつくるな」
眼光鋭く睨まれたダンドンは、目を閉じ、無言で数回頷いて応えた。
「あら、今日は、なんだか雰囲気が悪いのかしら」
いつの間に近くに来たのか、声を発したのはアルエだった。
鳥が囀るような、美しい声。
コルボは、エーグルの声から感じるのはまた別種の昂揚を感じた。
オトゥーが銀貨を一枚放り投げ、アルエがそれを片手で受け取った。
「俺らが言い合うのはいつものことで、健全の証そのものさ。なぁ、エーグル」
まぁな、と呟いてから、エーグルは盃をあおる。
「あなたたち、『クー・デール』だったかしら。あちこちで評判になってるわよ」
「本当かい。で、どんな?」
ふふ、と歌姫が笑う。
「貴族の道楽、金持ちの偽善、市民の扇動……あとは何があったかしら」
フォコンが顔をしかめる。
「同じような活動をしている青年集団は他にもいくつもあるのだから、話題になるだけいいと思うわよ」
それじゃ、と言ってアルエは店の中央に戻り、また唄を始めた。
エーグルが目を閉じて満足そうに頷いているのを見て、コルボは首を傾げた。
「エーグル、嬉しそうだな」
「歌姫に声をかけられて喜んでるのさ」
「ダンドンじゃあるまいし、エーグルが女に色めき立つかよ。で、どういう心境だ?」
言われて、エーグルは店の客をぐるりと見渡した。
「今、ここに集っている人々は、少なからず現状に不満を抱いている者たちが多い。別の店では別の集団が集い、そこにはやはり、現状を打破しようという機運があるだろう。こうしてレゾン中に意志が募っていけば、市民の側から大きなことをけしかけ、成し遂げることができるはずだ」
エーグルの言葉に、フォコンが口を尖らせた。
「僕たちがその中心でありたいとは思わないの?」
「その必要はない。重要なのは、この国に自由と平等をもたらすことだ。過程は問題ではない」
エーグルはまた、盃をあおった。
その両目はいつものように、猛る炎を静かにたたえているようだった。
作者の成井です。
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それでは、また次のエピソードで。