02.エムロッド
「こんなに細いつくりのドレスがお似合いになるなんて、さすがは由緒正しい帯剣貴族のエムロッドお嬢様でしたわ」
挨拶の最後、唐突に腰に手を添えられて、エムロッドはひきつりそうになる表情を懸命に笑顔に変えた。
相手の、コルセットをつけたことがなさそうな恰幅の女は、どすんどすんと音を立てて去って行った。
彼女は最後の客人だから、貴族の婦女としては玄関先までお見送りして差し上げなければならない。
けれども、エムロッドの足は動かなかった。
くたびれて、その気力が沸いてこなかったのである。
今日に限った話ではない。
パーティは、いつの、どんなものでも、エムロッドを疲れ果てさせる。
「貴女が法服貴族だから、というわけではないですから」
誰にも聞こえない声で、エムロッドは小さく弁明した。
下層民として生まれても、多額の税金を納めれば、一定の期間、中層民として――つまり貴族として扱われることを決めたのは、先々代の国王クワルツ四世だった。
だから、嫌味を言って去った小太りの淑女も、多額の一時金を納めたために、貴族である。
生まれが貴族なら帯剣貴族、そうでなければ法服貴族という名称の区別はある。
だが、得られる権利に――課税の対象にならない特権階級になれるという権利に、違いはない。
でも、とエムロッドは思う。
さして関わりのない婦女の体に急に触れるなんて、貴族としてはありえない。
どんなに没落貴族と揶揄されたって、私は、最低限の礼節は失わないわ。
まあ、さっきはちょっと、楽をしてしまったけれど……
「ラフィヌモンに、天地の神々のご加護があらんことを!」
別れ際の決まり文句が、どこからか聞こえた。
ディール王国領西方にあるコレール地方、その一部を治めるラフィヌモン家は、国内でもっとも古い貴族のひとつだ。
そう言えば聞こえはいいが、王族が暮らすアヴァール宮殿に招かれた回数は数えるほどしかない。
ただ、長く続いた血筋だというだけだ。
先祖代々政争に疎く、立ち回りが下手で、要職に就いた者はいない。
その先祖代々だという翡翠色の瞳と、夜空色の髪は、お気に入りだ。
エムロッドは、その夜空色の髪を、ずっと伸ばしている。
「下層民は髪を伸ばすべからず」という暗黙の了解があり、翻って、貴族は男女の別なく髪を伸ばすからだ。
「エム」
愛称で呼ばれて振り返ると、くすんだ金色の装飾だらけのジャケットを着た父が立っていた。
「楽しめたかい」
「ええ、とっても」
娘の答えが望んだものだったために、父は満足そうに頷いた。
娘にとっては、慣れ切った展開だった。
「お前が王女様のおつきに選ばれるなんて、本当に名誉なことだよ。それに、そんなお前を祝してこれだけの人が集まってくれたことも、私は本当に誇らしいよ」
「ありがとうございます、お父様」
また父が望むままの答えを口にし、笑みを浮かべながら、「違うのに」と心でつぶやく。
ここに来ている人たちは、お祝いで来てくれたわけじゃないのよ、お父様。
修道院の学校で主席を取ったらしい田舎貴族の女がどんななのか、一目見てやろうと思ってきただけなの。
千年ぶりにユニコーンが見つかったという噂が立てば、すぐさまそこに見に行くような人たちなの。
ここへは、どうやれば王家にお近づきになれるのか、秘密を探りに来ただけ。
ううん、もしかしたら、早々に付き人の座を空けさせられるように、掬える足元を探しに来たのかも。
「でも、暑さでちょっと疲れてしまいました」
「おお、そうだろうとも。中庭で涼んでくるといい」
エムロッドは丁寧に会釈して、古いドレスの裾を引っ張って中庭に出た。
ほつれを隠した腰帯からハンカチを取り出して、ベンチの上をさっと払い、腰を下ろす。
ふぅ、とため息が出た。
エムロッドは、貴族の娘なら誰でもそうするように、修道院の学校に通った。
学校に通う者なら誰でもそうするように、定期的に試験を受けた。
試験を受ける者なら誰でもそうするように、評価を上げるための努力をした。
ただ、評価を上げるための努力の具体は、人それぞれだ。
時間をかけて書物を読み込む人もいる。
両親を通じて試験官を懐柔する人もいる。
三面天神に祈りを捧げる人もいるし、地界双神に祈りを捧げる人もいる。
エムロッドは、違った。
彼女は物心ついた頃から、相手が自分にどんな言葉を望んでいるのかが分かった。
だから、対面式の試験は楽だった。
成長していくにつれ、どうやらこれは、遠い昔に人間が失ったはずの、魔法の力なのだろうと思い至った。
エムロッドは、これを自分だけの秘密として、両親にも教えず、学校でうまく過ごした、
すべての試験で満点を取ってしまうと怪しまれるから、良い塩梅になるように調整した。
そのつもりが、どうやら同輩たちは、自分と同じようにろくでもなかったらしい。
まともに勉学に励んだ者は一人もいなかったようで、結果的に自分が主席になってしまったのである。
しかもあろうことか、今年の主席になったものは王女の専属の付き人になるというのが宮殿内で密かに決められていたらしく、その栄光の座にエムロッド=ラフィヌモンが収まってしまったというわけだ。
「お嬢様、お風邪を召しますよ」
長いこと勤めている女中が、遠くから声をかけてきた。
秋にはまだ早い。
ドレスの内側で伝う汗は、まだまだ乾きそうになかった。
だから、今すぐに体が冷えてしまうということはないだろう。
もう少し涼んでいたいけれど、声をかけてくれる家中の者に対して笑みをつくり、それに従うのも、中層民たる貴族の務めだ。
ましてや自分は、由緒正しい帯剣貴族の令嬢なのだし。
エムロッドは女中に感謝を告げて、涼しい風に名残惜しさを感じながら屋敷に戻った。
自室に戻り、ドレスを脱いで、身軽な寝間着に着替える。
コルセットを外すときが、人生で一番の瞬間かもしれない――とエムロッドは思う。
ぎぃぎぃ鳴るベッドに腰かけると、よほど疲れがたまっていたのか、まどろんだかと思うとそのまま意識が闇の淵に落ちて行ってしまった。
目が覚めたのは、深夜らしかった。
窓から月明かりが入り込んでいる。
窓を開けたまま、しかも布団をかけないで寝入ったせいで、少し、体が冷えたようだ。
喉に渇きを感じたエムロッドは、何代も使い続けられているつぎはぎのガウンを羽織って、廊下に出た。
古い時代に、当時の高名な建築家が建てたこの屋敷も、もうあちこちにひびが入っている。
2年前にルガルデ公国から独立したエクーテ合衆国なら、こんな古臭い建物なんてひとつもなくて、新しい匂いのする素敵な家ばかりが立ち並んでいるのだろうか。
やれやれとエムロッドが頭を掻きながら歩き始めた、そのときだった。
「ありがとう」
誰かの声が聞こえた気がした。
正確には、誰かが望んでいる言葉が、エムロッドの頭の中に浮かんだ。
その感覚自体は慣れたものだったが、しかし、視界には誰の人影もありはしない。
私のこの力は、近い相手に対してしか働かないはずなのに――
エムロッドは訝しみ、もしかしたらおばけかもと固い唾をのんでから、意を決して言葉を紡いだ。
「誰?」
エムロッドが一言発すると、人が忽然と姿を現した。
確かに、廊下には誰もいなかった。
窓から廊下に躍り出てきたわけではない。
全身に黒装束をまとっている人物が、突如として出現したのだ。
いや、よく見ると、頭は黒い巾をかぶっているわけではなく、艶のある黒い髪か。
「見えてる?」
彼――と言っていいだろうか、まだ少し高い、少年の声だった。
その双眸は、月の光に照らされて、美しい黒だった。
驚きの色が浮かんでいるように見える。
「ええ、見えてる」
盗人なのは、間違いなかった。
しかし、エムロッドの中には恐怖が沸いてこなかった。
それというのも、目の前の人物の雰囲気が、あまりにも穏やかだったためである。
これなら、パーティに足を運んで権謀術数を張り巡らそうとする貴族たちの方が、よほど剣呑だ。
エムロッドははっとした。
そういえば、学校で聞いた話があった。
貴族の家や富豪の家に忍び込んでは財産を盗み、それを下層民のさらに下、貧民と呼ばれる人々に配り歩いている輩がいるのだと。
まさか、とは思ったが、そうと思うと、それにしか見えない。
短いような長いような時間を、両者は見つめあった。
逃げるためか、彼が何か動きをとろうとした瞬間に、エムロッドの口は無自覚に言葉を発していた。
「待って」
作者の成井です。
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