01.コルボ
989年7月14日の夜、ディール王国のクワルツ六世は疲れ果てていた。
趣味の狩りで、昼から暮れまで馬に乗り続けて―――もある。
「有力な諸侯方と連れ立つのだから」と、衣裳係のジャッド公が用意した服が、普段よりもずっと重かったから―――もある。
だが、国王にもっとも疲労感を与えたのは「一日がかりでなんの成果も得られなかったのですね」という嫌味であった。
同じ言葉を、亡き先王の王妾マラキと、妻である王妃チュルクワーズに時間差で投げつけられたのだから、たまらない。
ふたりは、互いに政敵としていがみ合っているにもかかわらず、自分を責めるときだけは申し合わせたように同じ言葉を選ぶ。
ためいきをひとつついて、王は、日課となっている日誌に「何もなかった」とだけ記した。
豪奢なガウンを重い椅子にかけて、クワルツ六世は国で最も高級な、歴々の国王が使い続けている羽毛のベッドに身を放って、ぐっすりと眠った。
翌朝、寝室で目覚めたクワルツ六世は、衣裳係のジャッド公から、ティミッド監獄で起きた事件について報告を受けた。
一般市民が、街外れにある監獄に集まり、警備に当たっていた軍と衝突した後、数人の囚人を解放してしまったのだという。
囚人が解放されたといっても、たしか、ティミッド監獄には数人の思想犯がいただけだ。
大した問題ではないだろう、とクワルツ六世は思った。
千年前にいたというドラゴンやらグリフォンやらの幻獣の生き残りが見つかったとなれば驚きもするだろうが、と王は心の中で苦笑した。
「それは……つまり、騒乱かね?」
ディール王国を治める国王は、呑気に、欠伸交じりに言った。
いいえ陛下、と公は答え、次いだ。
「騒乱ではございません。革命でございます」
後に『ディール革命』と称される一連の出来事について、7月14日を事の始まりと考える歴史学者は多い。
事実、7月14日はディール共和国の記念日となり、毎年盛大にお祝いが催される。
しかし、名も知れぬ市民たちが成し遂げた、王政打倒の大革命において、どこか一点を以って始まりと定めるのは難しいという意見もある。
ある学者は言う。
「表舞台に名を残さなかった者達こそ、革命の最大の功労者である」
その言葉に従えば、コルボという人物は、まさに革命の功労者だった。
彼はディール革命における主要人物達と悉く関わりをもったが、歴史の表舞台に出ることはついぞなかった。
コルボは、嬌声を聞いて育った。
母と二人で暮らす貧しい貸し部屋の壁は薄かった。
あちこちから商売女と客の―――客は、男の場合も女の場合もあるようだったが―――愛の無い営みの声が響いた。
母は薄給を求めて、日夜、縫製工場に通っていた。
ひとり残されて、少年だったコルボは昼頃になると市場へ行った。
幸運に恵まれた日は、パンが手に入った。
そうでない多くの日は、朝の市で売れ残った野菜くずや、肉からそぎ落とした脂身を安く譲ってもらった。
それらを使って、たいして味のしないスープをつくって、三分の一ほどを食べる。
残りは、母が帰ってきてから一緒に食べた。
「いつもありがとうね、コル」
そう言って、母は優しくコルボの頭を撫でてから、あたたかく抱きしめてくれた。
多くの家庭でそうであるように、母は息子を心から愛していたし、息子も母が大好きだった。
彼が自分の特異な才能に気付いたのは、近所に住む娼婦達が自分を探していた時のことだった。
コルボは、自分の名前が盛んに呼ばれているのに、返事をしなかった。
家から出ていて、大通りのベンチに腰かけていただけで、特別に彼女らを困らせようとしたわけではない。
彼女らはほとんどの場合、ぼろになった服や何かをくれるから、その日もそうだったのだろう。
ただ、子どもながらに、体臭のきつい女達に囲まれるのは気分の良いものではなく、子どもらしい生意気さと、なんとなくの面倒くささで、返事をするのを億劫がっていただけだ。
―――このまま、誰にも見つからないままでいられたら面白いのに。
どうせすぐに見つかるだろうけど、と思いながらも、少年はそんな風に考えていた。
彼の名を呼ぶ女が、彼の目の前を素通りした。
遊ばれているのだろう、と最初は思った。
ところが、遊女たちは次々と自分を無視して走り去り、やがて自分を探す声は好奇の色を失って、次第に不安の響きを帯び始めた。
いよいよ、呼びかける名前が母のものに変わって、これはまずいと思って少年だったコルボは返事をした。
「それで、今日はいったい何があったの?」
帰ってきた母は、ご近所に断片的な話を聞いてきたらしく、いつものように優しく笑った。
息子は自分が体験したことをありのまま伝え、懸命に説明した。
それを頷きながら聞いていた母は、途中から何か得心があったように笑い、愛する一人息子を抱きしめた。
「それはきっと、失われた魔法の力だわ、コルボ」
「魔法の力?」
そうよ、と母は頷いた。
「ずっとずっと昔、言葉を話す獣がいた時代に、人は不思議な力を使えたそうよ。手から水を出したり、遠くのものを動かしたり、声だけで他の人の動きを止めることが出来たんだって」
「僕の手から水は出ないよ」
ほら、と言って手のひらを差し出す息子の頭を、母は優しく撫でた。
「人が銃や大砲を使うようになって、その力は失われてしまったと言われているわ」
「鉄火時代っていうんでしょ。僕、知ってるよ」
おりこうさんね、と母はまた笑った。
「でも、不思議な力を持っている人が、今でもたまに生まれるんですって。コルボのも、きっと、魔法の力なんだと思うわ」
自覚をしてからの変化は著しかった。
少年だったコルボが、少年というには少し大きすぎる体格になる頃には、コルボは不思議な隠形の術を完全にコントロール出来るようになっていた。
コルボが望めば、人前に姿を現したとしても、その場にいる誰も彼の存在に気付けないほどの効果を発した。
ただ、相手に既に認識された後であれば、どんなに望んでも、突然姿を見えなくすることは出来ない。
それは、どんなに成長しても変えられない、純然たる条件と規則らしかった。
だが、ある程度の制約があったにせよ、超常の才能である。
貧しい少年が窃盗に手を染めて、コソ泥人生を歩むには十分すぎる才能である。
もしも彼の母親が悪辣であったならば、コルボの人生は我欲にまみれていただろう。
多くの家庭でそうであるように、親の美徳も悪徳も、大部分が子に受け継がれるものである。
この家の場合、受け継がれたのは『善』という美徳であった。
「善は巡る」
コルボは母の言葉を反復した。
「神様は、この世界を循環するようにお創りになったの。だからセルクル教では、円環がシンボルなのよ」
ほら、と言って、母は首飾りをつまんで見せた。
首飾りには、銀色の小さな輪をかかっている。
「善意も悪意も、巡り巡って還ってくる。もしもあなたがその力で、自分のために盗みを働けば、いつか大切なものを誰かに盗まれることになるわ。だから、神様から授かったその力は、自分のためではなくて、人のため、善いことのために使いなさい」
980年代に活躍した義賊は、こうして誕生した。
当時の警察記録は革命の戦火でその多くが失われている。
だが、盗人の逮捕に熱心だったレンヌという市警が、私的な記録を後世に残している。
「この盗人は、現金だけを盗む。諸侯貴族、聖職者、裕福な市民の家に忍び込み、宝石をはじめとする貴金属類にはまったく手を付けない。現金だけを持ち出している。物を盗んで捌けば足がつくことを警戒しているのだろうが、ここまで徹底して出来るものなのか」
「どうやら、盗んだ金は貧民街に分散させて置いて回るようだ。英雄のように噂され始めているのが腹立たしい。犯罪者は悪だ。なんとしてでも捕らえなければならない」
「まるで足取りが掴めない。目撃者がひとりも見つからないというのはどういうことなのだ。亡霊を相手にしているようだ。だが、金は確かに盗まれている」
「唯一の手掛かりに思えたのは、ラフィヌモン家という貴族の家だった。この家のエムロッドという令嬢に聴取をしたときの様子は、何か違和感があった」
作者の成井です。
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