エピローグ
コトコトと鍋の鳴る音。出汁の良い香り。朝から味噌汁を出すとご飯派の夫は嬉しそうな顔をしてくれるのだ。その表情が好きで、今日も彼より早く起きる。
面倒を見られすぎて駄目になる、とへにゃりと笑ってくれるところも好き。だからワイシャツのアイロンがけも済ませる。
彼と結婚してからそろそろ1年になる。不満が出てくるだろう。そう言ってずっと半同棲のような生活をしていた。
確かに慣れない生活の中でいろんなすれ違いはあったが、大きな喧嘩などはなく、彼の傍で息をすることが当たり前になって。
そろそろ起こさなければならない。濡れていた手を拭いて、夫の眠るベッドの方へ向かった。
「御厨、おはよう。昨日の件だが……どうした?」
忠直に挨拶を返した宵人はどこかやつれたような顔をしている。生気を吸い取られたような様子。目を丸くした忠直は一巳の方を見やった。
「残念ながら俺もわかりませんよ、課長。何、どしたん?」
2人に見つめられて宵人は耐えかねたようにぽつりと漏らした。
「俺、離婚するかも……。」
「「はあ!?」」
叫んだのは一巳だけではなかった。こっそりと話を窺っていた杷子や円も思わず声を出した。
「いやいやいや、有り得ねえって。何があったの?」
最も動揺した様子の一巳。宵人の肩を掴んで揺らさんばかりの勢いで迫る。
「……明鈴が、“明鈴さん”に戻った。」
宵人の言葉に怪訝な顔になる一巳はもっと詳しい説明を寄越せ、というふうに顎で示した。
「朝、起こしてくれた瞬間から何か違和感があって、味噌汁よそってくれたことにありがとうって言ったら『はい。』って!」
それがどうした、と言わんばかりの一巳。しかし宵人の方は必死なようだ。
「表情がなかったんだよ。初めて会ったときよりもっと。朝ご飯も一緒に食べてくれなかった。どうしたの?って訊いたら見たことない顔された。……俺、何した?」
いや、知らねえけど。一巳は忠直の方に目配せする。忠直は片眉だけ上げて、悩むような仕草。
「昨日は普通だったのか?」
問われて頷く。自分も妻も至って普通であった。
「じゃ、今朝何かあったな。浮気の証拠でも押さえられた?」
一巳が場をほぐすように揶揄う口調を使う。だけど宵人は神妙な顔で苛立ったように答えた。
「浮気なんてしてねえよ。異性の友達と会うときは絶対に伝えてるし。」
本当に浮気してるかどうかを心配したわけではなかったのだが、軽口に返す余裕もないらしい。これは重症だな。一巳は肩をすくめた。
「親しい人のお誘いの文句が浮気してるように見えた、とか?ほら、携帯の画面に出るじゃないですか。」
杷子の質問にも首を横に振る。今朝方新しい連絡は特に入っていなかったから。
「なら、漫画とかでよくある寝言とか?」
円も心配そうな目を向けてきた。寝言。それなら確かに、共に寝る相手しか知らず、自分がわからないことではあるが。
「やましいことがあるならその線はあるかもしれないけど、ちょっと考えにくいんじゃない?」
一体何が気に障ったのだろう。それも、あんな冷たい感情を悟らせない目に戻ってしまうようなこと。
「もしかすると今朝起きたことがきっかけで蓄積された何かが爆発したのかもしれない。いずれにせよ、今悩んでも仕方ない。明鈴ときちんと話すべきだな。」
そういうこともあるのか。宵人は忠直の言葉に頷いて、業務を開始した。
昼休み。携帯を確認しても明鈴からの返信は来ていなかった。そのことに肩を落としつつ、宵人はぼんやりと外の風景を眺めた。
穏やかな梅雨入り前の6月。そろそろ明鈴と結婚してから。
「ため息つくと、幸せが逃げるんだよ、お兄ちゃん。」
そのとき、背後から投げかけられた声に宵人は顔を綻ばせる。憂鬱な気分だが、彼女に対しては自然と笑顔を作る癖がついているのだ。
「久しぶり、ミカ。元気だった?」
宵人の背後に立っているのは八乙女 未佳。兎美と忠直が出会った事件で関わった少女である。
ギギギ、という音を立てながら未佳は椅子を引いた。その手に残る火傷の跡は未だに痛々しい。
「ミカはいつでも元気だよ。ふふん、身長だって伸びたんだから!」
得意げに語る彼女に笑いかけながら目を細める。事件から一年半程度経った。その間に未佳は小学6年生になっていて、来年から中学生になる。
随分と落ち着いたものだ。事件後は暗い表情ばかりだった未佳だが、今では笑顔を取り戻して無邪気に懐いてくれている。
「ほんとだ。前はこんくらいだったのに。」
人差し指と親指の間をちょこっと開けて示すと未佳は頬を膨らませた。
「そんなちっちゃくないもん!」
肩をポカポカと殴られて宵人はけらけら楽しそうに笑う。しかし未佳は彼に対して訝るような視線を向けた。
「……お兄ちゃんは元気ないね。」
痛いところを突かれて言葉に詰まる宵人。取り繕うために笑顔を作ろうとしたが、なんとなくできなくて仕方なく神妙な顔になった。
「ちょっと、奥さんと喧嘩しちゃった。」
結婚したときに未佳には明鈴の話をしている。そろそろ色事にも興味を持ち始めた年齢の未佳はよく2人の話を聞きたがったこともあって、最近の話まで知っていたはず。
その証拠に未佳も特務課のメンバーと同じように目を見開いた。
「えーっ!?なんで!?お兄ちゃん何したの?」
おいおい、俺が悪いことは決定か?眉尻を下げつつ、宵人は悲しそうに首を横に振った。
「その可能性が高いんだけど、わかんないんだ。未佳はどう思う?」
うーん、と顎に手を当てて悩み始める未佳。その様子が可愛くてぼんやり眺めていると彼女の目に暗い輝きが宿った。
「…………すきだからって、明ちゃんのこと、殴っちゃ駄目。」
その輝きを向けられた宵人は真剣な表情で頷いて、安心させるような声色で言った。
「うん。それは絶対にしない。何があってもね。」
未佳がホッとしたのを見て目の前の幼い少女の成長を噛み締める。あのときは暴力を受けることに対して疑問すら持っていなかったから。
「じゃあ、ミカわかんない。でも、たぶん明ちゃんは痛かったんだと思うよ。痛いのは、辛いもん。きっとそうだよ。」
痛かった。その言葉はやけに心にぐさりと刺さった。知らないうちに明鈴を痛めつけるのも暴力と同じだから。
「じゃあそういうとき、どうすればいいんだっけ?」
わからない体で未佳に尋ねてみた。すると彼女はにっこりと笑って、素直に答えてくれた。
「謝る!ごめんなさいは忘れちゃ駄目なんだよね。」
よくできました!と頭を撫でると未佳はそれはそれは嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
その日の夜。家に入るのはなんとなく緊張した。
明鈴が中にいるのを視てホッとする。避けられて話すらしてくれなかったら、1番なす術がない。
「おかえりなさいませ。」
ドアを開けた瞬間、三つ指をつく明鈴の姿が見えて宵人はぎょっとして、同時に悲しくなる。
「明鈴、それやめて。俺はあんたの主じゃないんだから。」
慌ててしゃがんで彼女に顔を上げさせた。無機質な目。
「ただいま。遅くなってごめんなさい。」
それに萎縮しないように微笑みで返すと、明鈴はひどく悲しそうな顔をする。目を伏せた彼女は立ち上がって宵人から鞄を少々強引に受け取って、部屋の中に入っていった。
「いただきます。」
結婚してからは明鈴の方が料理をするようになった。家事の分担はしているのだが、実は明鈴はかなり料理上手で凝り性。それならば無理に均等に家事をするのではなく、彼女に主に炊事を任せる代わりに他のことを宵人がやるようにしているのだが。
「今日、ほとんどの家事をやってくれたんですか?ありがとうございます。だけど……。」
「妻の責務を果たしただけです。お気になさらず。」
遮るように強めに言われてしゅん、と落ち込む宵人。やはりいつもよりもずっと冷たい。誘ったのに同じ食卓にはついてくれなかった。
初期の無機質さに寄せてはいるが、これは。
「あの、明鈴。俺、何した?何があんたをそんなに怒らせたの?」
この質問は余計に彼女を焚き付けるかもしれない。そう思いはしたのだが、訊かずにはいられなかった。さすがに心当たりがなさすぎたのだ。
「何もされておりません。私は私の立場を再認識しただけです。貴方の気にすることでは。」
「気にします。きっと、俺はあんたを傷つけたんだ。……できれば教えて。謝ることもできずに曖昧な気持ちになって自然消滅は嫌だ。」
じっと真剣な表情で見つめてみる。すると明鈴が一瞬苦しそうな顔を見せた。その感情をぶつけてほしいのに。
「……料理が冷めます。」
そう言われて渋々手をつけた夕食は、いつも通りすごく美味しいのに味気ない。明鈴と談笑しながら、美味しいと伝えると覚えておきますと淡々と、でも嬉しそうにするその仕草が惜しい。
一口食べて、そこまで考えた宵人は唸って立ち上がった。
「あんたと一緒じゃないと、味気ない。ちゃんと話して。どんなに理不尽でも、あんたが不快だったなら、最悪離婚まで考えられてても。」
離婚という単語に明鈴がビクッと肩を震わせる。どうやらそれは受け入れ難いらしい。そこを糸口だと思った宵人は明鈴の手を。
「触らないで!」
珍しい彼女の大声に宵人が目を見開く。だけど、やっと明鈴の表情に変化があった。
彼女は険しい表情を浮かべている。見たことのない顔だ。
「……触られるとおかしくなりそうです。つけ上がっていた自分が恥ずかしくなります。貴方が、私を求めてくれていた、だなんて勘違いをし続けます。」
怒っているというよりももっと読み取りにくい感情だ。なんだろう、と宵人は眉間に皺を寄せた。
「貴方は優しいから、浅ましく迫った私に同情しただけだったんです。籍を入れたのも、何もかも。」
違うと叫びたくなるのを堪える。今遮れば本当に喧嘩に発展してしまう。何が彼女にそう思わせたのかを知らなくては。
「……ッ、どうか、他の人に優しくしたその手で、口で、私に優しくしないでください。貴方の傍に置いていただけるだけでいいです。従順で貞淑な妻になります。だから、どうか。」
ぽたぽたと彼女の目から流れる涙を見て、宵人は手を伸ばしていた。抱き締めようとすると胸を思いっきり押されて、でもその抵抗を上回る力で押さえ込んで無理やり抱き込んだ。
「あんたにしか優しくしてない。愛してんのはあんただけだよ。」
腕の中で彼女が震えた。抵抗する力が弱まる。
「嘘なんてついてないから。一巳呼んだっていい。だから、教えて。あんたを不安にさせたのは何?」
力を緩めて明鈴と目を合わせた。少し赤くなってしまった彼女の目尻を拭いながら、口を開いた彼女の言葉を待つ。
「……ミカさんとは、どなたですか。」
ミカ?宵人の目が点になる。その名前を持っている人物で、自分が直近で関わっているのは未佳くらいしかいない。そこで宵人はあることに気づいた。
(あれ?俺、もしかして明鈴に未佳の話してない?)
恐る恐る明鈴の表情を窺う。先ほどよりはマシだが、依然として不機嫌そうだ。
「貴方が朝、『ミカ、まだ寝ててもいいよ。眠れないなら手を繋ごうか。』と。寝ぼけながらおっしゃられていました。だから、閨に連れ込むような女性がいるのでしょう?」
思わず頭を抱える。なんということだ。まさか、円の話が当てはまるなんて。
「……明鈴、誤解です。いや、俺が悪いな。」
宵人は痛む頭を押さえつつ未佳の話を始めた。
数分後、帰宅時と同じような体勢で宵人に向かって頭を下げる明鈴の姿があった。
「申し訳ございませんでした。とんだ早とちりをして、貴方を責めるなんて……。」
「や、そこまで思い詰めないでいいんで。顔上げて。」
明鈴に顔を上げさせて、宵人は自分が頭を下げた。おろおろする明鈴。
「こちらこそごめんなさい。説明不足で1番大切なあんたを傷つけるなんて。」
謝ってから顔を上げたとき、涙目の明鈴と目が合って宵人は思わず笑った。
「あはは、夕鈴さんにそっくりだ。泣かないで、明鈴。」
手を伸ばして引き寄せる。拒絶されないことに心底安堵した。腕の中に収まる彼女はきっとまだ申し訳なさそうな顔をしているのだろうが。
「申し訳ありません。貴方を信じ切れなかったことが、もう。」
優しい言葉に泣きそうになっている明鈴を眺めて愛しくなる。だって、あんなに怒っていたのは。
「別に。普段淡々としてるあんたから、あんなに熱いアプローチ受けるときが来るなんて思ってなかったから俺は嬉しいよ。」
え。宵人に体重を預けていた明鈴が彼の表情を窺うために体を起こした。その仕草にくすくす笑いながら、宵人は逆に彼女の肩に甘えるように顎を乗せた。
「妬いたんでしょ?明鈴。」
彼女のすっきりとした花のような匂い。それに酔いながら言葉を紡ぐ。
「俺が他の女性と浮気してるって考えるだけで、あんな顔してくれるんだね。あんた、そういうのには無関心だと思ってた。」
揶揄うような口調で言うと、明鈴が肩口で口籠ったような気配。それを楽しみつつ彼女の言葉を待った。
「……無関心で済ませるつもりでした。」
顔が見たくて体勢を変えようとすると、彼女は見られたくなかったのかぎゅーっと押さえつけるように抱き締められる。大人しくしていると彼女の口からぽつぽつ言葉が漏れ出した。
「貴方は優しいから私を見捨てられなくて尊重してくれただけだと。そう、思わなくてはならないとずっと思っていました。そうでないと、私の胸のあたりでモヤモヤする何かがあるんです。」
明鈴の頭を撫でつつ耳を傾ける。聞き逃してはいけないことだとどこかで理解していた。
「貴方の口から他の人の名前が飛び出して、今までにないほど動揺しました。すぐに自分は間違っていなかった、と思い直して貴方がいてくれるだけでいいと思おうとしました。平常心を保つために心を殺しました。」
だから朝のあの態度か。明鈴なりにいつも通りを取り戻そうとして行き過ぎてしまったのだろう。
「貴方の手が、全てが好きなんです。それが他の人にも向いていたなんて。いざ、目の前に突き付けられると変な感情で満たされたんです。でも、籍を入れているのは自分だから貴方はその人とは曖昧な関係でいるしかないのだろうと。そう思うと、変な喜びがあって。」
それは、明鈴の独占欲だろう。今まで知らなかったのか。そんなの、こちらはとっくに。
「狭量な女ですみません。……でも、どうか、余所見するなら私が気づかないようになさってください。きっと上手く振る舞うことは不可能です。」
抵抗感がなくなっていたので彼女から体を離す。その顔は複雑そうで。
宵人は明鈴の左手を取った。その薬指には1年前にあげたエンゲージリングがはまっている。
「これ、なんであげたかわかってる?」
その質問に明鈴はきょとんとする。結婚の約束のものだろう。と言わんばかりの表情。
だけど実は自分たちにとっては少し遅れたもので、本来であれば別に必要なかったものだ。渡したときには結婚していたのだから。
「あんたに手を出そう、って考える人間を減らすためです。“ここ”に指輪が嵌まってる女性に手を出せる奴はたくさんはいない。」
エンゲージの意味もあったが、その意味もあった。というか、こんな綺麗な人が東弥の拘束を抜けてしまったら、狙う人間はたくさんいるだろう。
「……貴方は、まだ見ぬ私の浮気相手候補を牽制していらっしゃったのですか?」
その言い草が面白くて笑うと、明鈴の眉間に皺が寄る。ごめん、と謝ってから宵人は頷いた。意味は間違ってはいない。
「嫌?」
明鈴が首を横に振る。それを見てニコニコと笑いながら宵人は彼女にキスした。意表を突かれて目を丸くする明鈴。彼女と額をくっつけながら、彼は言った。
「浮気なんてできない。こんな可愛い奥さんがいるんだから。」
明鈴の顔が真っ赤になる。慣れないのだろう。
「そろそろ1年経ちますね。約束、覚えてますか?」
彼女が頷くのを見届けた宵人は一旦、『ちょっと待ってて』と言い残して部屋を出て行った。
彼はすぐに戻ってきた。その手には花束。
「俺と結婚してください。お試しじゃなくて、この先一生共に生きる仲になりましょう。」
彼の照れ笑いが明鈴の目に焼きついた。その瞬間、彼女はふんわりと微笑んで花束を受け取る。
「はい。そのつもりでした。貴方が誰に目を向けていたとしても、この立場だけは渡したくありません。」
今日のことを引きずっている彼女に満面の笑みを向けながら頬に手を添えて、また唇を重ねた。
「ん。信用ないな。」
拗ねたように言うと、明鈴は申し訳なさそうに目を伏せてしまう。だが、その視界に入った花束に彼女は微笑んだ。
「……これ、貴方が作られたんですか?」
尋ねられるとなんとなく気恥ずかしい。だけど誤魔化さずにちゃんと頷いた。
「はい。久しぶりだったけど、結構いい出来でしょう?」
以前は母親の仕事を手伝うことも少なくなかったので、花束くらいは作れる。上手い下手は置いておくことになるが。
明鈴はすごく嬉しそうだった。そんな笑顔が見られるならいくらでも。
「では今度は私が。」
む、と固まった宵人の手を取った明鈴は、左手の薬指をぐにぐにといじくる。
「貴方の未来の浮気相手を牽制しなくては。私という妻がいるんですよ、って示します。」
ふんす、と意気込む姿が可愛くて宵人は吹き出した。これは一緒に選びに行くことになりそうだ。
「俺もあんたに正式な結婚指輪贈りたい。約束じゃなくて、明鈴が俺の奥さんって証。」
こちら側は指輪のサイズはもう把握している。明鈴が嬉しそうに宵人の指を触るのを眺めながら、きっとこういうふうに喧嘩や揉め事を重ねながら夫婦になっていくのだろう、と1人考えるのだった。
その年の12月。クリスマスイブの日。
忠直が必ず休みをとるこの日は少々慌ただしい。忙しかった、とため息をつきながら宵人は家に灯りがついていることに幸せを覚えた。
数ヶ月前に明鈴と正式な同居生活が始まった。そもそも半同棲のような生活形態だったので、そう揉めることもなく穏やかに日々は過ぎている。
「ただいま。」
靴を脱ぎながらそう言うが、返事はなかった。聞こえなかったのだろうか。
リビングに入っても珍しく料理の良い匂いがしない。あれ?と思いながらソファの方に目を向けるとそこで寝落ちている明鈴の姿が。
(……このところ、疲れてるって言ってた。)
忙しくはないのだが、疲れが溜まりやすい状態らしい。心配で家事を変わることも少なくなかったのだが、彼女はそれを気にしてしまうから。
寝落ちているなら都合がいい。こっそり今のうちに全て済ませてしまおう。
(……ん?あれ?)
しかし、そのときチラつく何か。妻の方向から。目を凝らしてよく視ると、誰かの微かな気配。
誰か呼ぶなんて言ってたっけ?そう訝りながらブランケットをかける。そこではたと気づいた。もしかして。
宵人は慌てて家を後にした。
いい匂いが家を満たしていた。トントン、と野菜を刻むような音。その心地よさに微睡んで、でもしばらくしてハッとする。今日の炊事当番は自分のはず。
「宵人さん、申し訳ございません!」
焦ってキッチンを覗き込むと、予想通り夫がサラダを作っていた。コトコトと揺れている鍋に洗われた食器類。ほとんど済ませた後のようだ。申し訳なさに肩を落とす。
「ただいま、明鈴。おはよう。」
だけど夫はニコニコしている。いや、この人がそういうことで怒ったことなどない。
おはようございます、と返して項垂れると宵人は手を拭きながら近づいてきた。そして、額に触れる手。
「やっぱり少し熱いかな。あの、変なこと訊いていい?」
何を。不思議に思いながら頷いた明鈴に対して、宵人は少々恥ずかしそうに尋ねた。
「先月、生理来た?」
その質問で明鈴はハッとした。忙しさと疲労感で意識していなかったが来ていない。首を横に振ると、宵人がパッと笑みを浮かべた。自分も似たような表情をしたはず。
彼はリビングの方からレジ袋を持ってきた。中には2つ、入っている。明鈴は走り出した心臓を押さえながらトイレに向かった。
リビングに戻ると、晩御飯の支度を済ませた宵人が緊張した面持ちで待っていた。
「ど、どうだった?」
彼の見たことのない表情にくすくす笑いながら明鈴は隣に腰掛けた。
「2本とも陽性でした。紛れもなく、貴方との子どもです。」
告げた瞬間に抱き締められる。明鈴は驚いて目を見開いて、恐る恐る自分の肩に顔を埋めた夫の様子を窺った。
「ああ、どうしよう。嬉しくて何言えばいいのかわかんねえ。」
すごく嬉しそうな声。それに安堵して明鈴も彼を抱き締め返した。
「私もです。不思議な感じですね。」
離れて視線を合わせて笑い合う。これ以上なく幸せだった。
「明日、病院に行きましょう。俺、休み取らないと。あ、あんまり浮かれるとあれですよね。安定期もまだなんだし。でも産休申請とかもしないと。」
「落ち着いてください。病院は逃げませんし、私も逃げませんから。」
淡々と嗜めると、不安げな顔をされる。おや、と思って明鈴が首を傾げると宵人は真剣に尋ねてきた。
「子どもできたから用済みとか言いませんよね?さすがにそれは泣く。」
明鈴は思わず目を丸くする。だが、自分が最初に彼に要求したときの態度を思い出してふにゃりと笑った。
「逃げませんと言いました。不安ですか?」
はっきり言い切ると宵人の顔がパッと明るくなる。もう一度抱き締められて、腕の中で明鈴はにこーっと笑った。
「ううん。俺をお父さんにしてくれてありがとう。」
幸せそうな彼の様子に不思議とこちらの心も綻んだ。明鈴はこの人を求めてよかった、とこっそり想うのだった。