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Lemonade  作者: 洋巳 明
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7話 煌めき


 彼女との出会いは自分が13歳のとき。彼女はまだ5歳で、だけど知らない人ばかりの場所で怯える妹と対照的に不思議な静謐さを身に纏った少女であった。

 一目惚れに近かった。淡々と名乗り、人形のような表情は激しくは変動しない。見上げてくる目は吸い込まれそうなほどに深く、自分の人生でこれ以上美しいものを見たことはなかった。

 この美貌であれば、どんな人間も手玉に取れる。なのにどこまでも従順に躾けられていた彼女は何に対しても受け入れることしかしないのだ。

 この女が手に入る。そう思っただけで初めて昂りを覚えた。幼いながらも彼女の成長したときの美しさは手にとるようにわかったから。

 だから、予見家の次期当主である少女が自分と彼女の縁談を台無しにしたときは気が狂いそうだった。それを承諾した両方の父親も許せなかった。

 邪魔する者を排除するために、豊口修という男の計画にも乗った。令悟を排除する際のどさくさに紛れて小夜も手にかけることにしたのだ。

 彼が遺言状を残していることは知っていたので自分に不都合な内容が書かれていることを危惧した。明鈴の手に渡る前にそれを処分してしまおうとして、その中に明鈴の未来の夫に向けた文書が入っていることに気づく。

 これは使える、と思った。明鈴は主と自分をあんなふうに育て上げた小夜に従順だから。しかし、現実は案外そう甘くなかった。


「貴方が父の死に関与したことは知っています。金輪際当家に近づかないでいただきたい。」


 小夜から届いた体で文書を見せた後、明鈴は淡々とそう言ってきた。

 どうやら小夜は明鈴に対して東弥の今までの行動や彼の執着心を加味して、彼とだけは添い合うなと忠告していたらしい。

 死してなお邪魔をしてきたことにも苛立つが、何よりも明鈴が自分に口答えをしたことが許せなかった。この女は従順でなければならない。そのはずなのに。

 だから、脅しという手段に手を出した。

「君の母上は目が見えなかったはずだな。今までは父上が守っていたらしいが、お嬢様で手一杯の君は果たして彼女を守り切れるのだろうか。」

 さすがに明鈴の顔色が変わった。普段ならばその脅しには屈しなかっただろう。しかし、今は麗佳の改革で明鈴も夕鈴も方々に飛び回っていたのだ。

 護衛といえど、その主な職務は秘書のようなもの。麗佳の傍にいなければいけない1人と予見家のお取り潰しの火消しに回るもう1人。とても四六時中目の見えない母親の世話をしていられなかった。

「それに、君の弟に当たる一巳くん。彼は異局で働いているんだったね。私は多少、局に顔が効く。そうだ、上司の永坂という男にも何かあったな。」

 彼女がきゅ、と薄い唇を噛み締めるのを見て東弥は愉快な気分になる。大切なものの多い人間は弱い。脆い。守ると言いながらそれによって雁字搦めだ。

「……私は、どうすればいいのですか。」

 青白い顔から感情がフッと消えた。その光景を嬉しそうに眺めながら東弥は言った。

「私の元に来るだけでいい。全ての生活を保障してやろう。仕事は続けさせてやるが、正式に籍を入れた後は私の許可した者以外との交流は禁ずる。」

 ほんの少しだけ間を置いた後、わかりました、と頷く明鈴。彼女は目を伏せて口を開いた。

「それを遂行すると誓います。だから私の家族には手を出さないでください。」

 ああ、と東弥はほくそ笑みながら頷いた。



 多少の不測の事態はあったが、明鈴は今、自分の目の前にいる。先程、呼びつけた市の職員に“婚姻届”を提出したところ。これで名実ともに明鈴が手に入ったのだ。

「一時はどうなることかと思ったよ。危うく部下に指示を飛ばすところだった。」

 ニヤつきながら茶を啜る東弥。対する明鈴は暗い顔をしている。それすらも美しく、東弥からすれば手に入れたという多幸感に包まれるだけだった。

「3月から着々と式の用意を進めてきた甲斐があったよ。明日からは挨拶に回らないといけないな。」

 明鈴は動かない。俯いたまま、応じることもない。

「6月の花嫁は幸せになる、という話もあるくらいだ。私の傍にいれば何不自由ない暮らしをさせてやる。」

 おどけたようにそう告げても明鈴の表情は暗いまま。それにだんだん苛立ちを覚えた東弥は嘲るような笑みを浮かべた。

「あのお前の友人とかいう男の元なんかではできないことばかりだ。美しいお前には相応しくない平凡さだったな。いや、むしろ醜いまでも……」


「やめてください。」

 

 ピシャリ、と自分の言葉を遮った鋭い声に東弥は目を丸くする。いつの間にか明鈴の眉間に皺が寄っていた。

「あの人のことを悪く言われるのは不愉快です。やめてください。」

 口答えをされている、と気付いたのは少し後。彼女の険しい表情にだんだんと胸の奥で何か熱いものが込み上げてくる。


「……誰に向かって口をきいている!?お前は私に対して従順でなければならないはずだ!私の妻になったのだから、お前は……」


「貴方の妻になった覚えはありません。」


 東弥の目が点になった。何を言っているんだこいつは。先程婚姻届の入った封筒を渡す様を共に見守ったはず。

 最後の抵抗か?と一瞬考えたが、それにしては明鈴の目はあまりにも強すぎる。だから、これは。

 明鈴は静かに1枚の紙を差し出してきた。テーブルの上に広げられたそれは。


「……私と貴方の婚姻届です。」


 封筒の中身が空だったのか、と思った。いや、あれにはちゃんと中身が入っていた。じゃあ、一体。

「私はここにいるべき人間ではなくなりました。あの人の託してくれた最後の命綱を切れるほど強くありませんでしたので。」

 東弥が動けない間に明鈴は手を伸ばして、テーブルの上の婚姻届を掴んで引き裂いた。

 ビリッ、ビリッと小気味いい音。それを東弥に投げつけた明鈴は立ち上がって彼を見下ろした。

「この家で集められる証拠は全て既に一巳に託してあります。貴方の破滅はもうすぐそこですよ。」

 東弥が立ち上がる。このクソ女、と叫んでテーブルの向かい側にいた明鈴の胸ぐらに掴みかかった。


 一発くらい、と明鈴は歯を食いしばる。飛んでくる拳。それくらいは。


 だけど、当たったはずの拳は柔らかい何かに勢いを吸収されたかのようにふにゃり、と曲がっていく。東弥は目を見開いた。

 それで隙のできた東弥の頬に綺麗に拳が入る。


「心臓に悪いから勘弁して欲しいって言ったはずですけどね。」


 後ろから腰を抱かれた明鈴は耳元で響いたその声に頬を赤らめた。

 ぐい、とそのまま強引に退がらせられる。目が合ったとき、彼が怒っていることはわかるのに嬉しくて仕方がなかった。

「あんたにはたっくさん言いたいことがある。後で覚悟しといて。」

 宵人は強めにそう言い含めると、頬を押さえて自分を睨みつけている東弥を見下ろした。

「真中東弥。貴方が『異能力暴発事件』の重要参考人として認められました。同行を願えますかね。」

 淡々と冷静な口調の奥に押し殺した何かがある。

「抵抗しても無駄ですよ。早岐鈴さんはこちらで保護させていただきました。それに早岐小夜さんの殺害事件に関しても聞きたいことがあります。」

 東弥の顔が歪んだ。そもそもこいつのこの目が気に入らない。恐ろしいほどに澄んだ何もかも見透かすような目が。

「……はあ。それらに一切心当たりはないんですがね。それに、突然殴りかかるのは卑怯では?」

 どの口が、と眉を顰める宵人。

「初対面で殴りかかるほど卑怯じゃねえよ。……あんたと仲良くお喋りする気はない。残念ながらこれは任意同行ではないんで。」

 逮捕状を示された東弥はさすがに苦い顔になる。

 昨夜のうちに明鈴による情報が届き、大慌てで上に掛け合った。そのとき少々忠直に無茶を押し付けたりもしたのだが、彼は笑ってお前らもなかなかやるな、と言っていた。

「……後悔するぞ、お前ら。」

 悪態をつきつつ、大人しく手を出す東弥。抵抗をする気はないのか。だが、その腕に宵人が手を伸ばした瞬間、掴まれるよりも先に彼は宵人の腕を掴んだ。

 グッと流れ込んでくる東弥の澱み切った『力』。ぐるん、と脳内を満たしたそれに、冷静を装っていた宵人が嫌な感じに揺れた。


「宵人さん!」


 遮るように東弥の腕を一閃。明鈴の足が薙いだ。油断し切っていた彼は簡単によろめいた。

「ッ!この、裏切り者!!」

 そう叫んだ東弥は明鈴に襲いかかるが、避けられて蹴り払われる。喧騒を聞きつけて駆けつけた数人も明鈴が片付けた。彼女は守るように宵人の前に立ち、東弥を睨みつける。

「お前など、不完全なガラクタだ。所詮美しさにしか価値のない出来損ないのくせに!」

 明鈴は眉一つ動かさなかった。その暴言は甘んじて受け取る、というように。

 東弥が怒りに肩を震わせながら注射器を取り出した。あれは。明鈴は目を見開いて慌ててそれを奪い取ろうと。


 パァンッ


「なぁに油断してんの、宵人!」


 立ち登る硝煙と火薬の匂い。いつの間にか拳銃を構えた一巳が開いた襖の先に立っていた。手元を撃たれて苦しげに呻く東弥を見下ろしてから、宵人に駆け寄る。

「……ッ、悪りぃ、カッコ悪……。」

 そう謝る彼の額に滲む脂汗。少々余裕のなさそうな感じ。

「ったく。『異能封じ』貸して。東弥の拘束は俺が……。」

 宵人にガミガミ怒る一巳を見て明鈴はホッと息を吐く。結局頼ってしまったことへの罪悪感、それと。

 彼女は何かしら思うところでもあるように宵人を見つめた。

(…………勘違い、してはいけない。)

 頭を冷やすために息を吐く。そのとき背後でガタリと小さな音。東弥がゆっくりと立ち上がっていた。その手には何かしらの瓶。声を出すのは間に合わない。

 明鈴は飛び出して宵人と一巳の2人を庇うように立ちはだかった。バシャッと何かしらの液体が明鈴の顔の右側にかかる。

 瓶の割れる嫌な音と肉の焦げるような匂い。明鈴の口から声にならない悲鳴が上がった。


「明鈴さん!」


 叫んで明鈴を支える宵人と東弥の拘束に向かう一巳。

 明鈴の顔の右半分が焼け爛れたかのようになっていた。慌てて持っていた水をかけるが、明鈴が苦痛に呻く。

「ああ、くそっ。榊さんに連絡しないと。」

 携帯を取り出す宵人。彼の耳に東弥の高笑いが届いた。


「ははははっ!ざまあないな、お前の手に渡るのはその不完全な醜くなった女だ!ざまあみろ!」


 宵人は一瞬何も理解できなくて目を見開いた。信じられなかった。一度は愛していた人だろう。その人が苦しんでいるのに?

 頭の中で何かがプツン、と切れる音。宵人の目が一巳に押さえつけられている東弥に向く。

 一巳の体が小さく震え、顔が引き攣った。宵人の顔から温かさが消えている。膝の上に肩で息をしている明鈴がいるため動くことはないが、その威圧感だけでその場が圧迫されるようだった。


「……誰が不完全で、醜いって?」


 細められた目。眉間に寄った皺。それらが物語る怒りにさすがに東弥も息を呑む。


「ふざけんなよ、てめえ。意味わかんねえ、この人を散々傷つけておいてそんなこと言える神経がわかんねえよ。」


 一巳が苦笑いと共にため息をつく。この後誰がこいつの不機嫌を補填すると思っているのか。


「愛した女1人も大事にできねえなら死ねよ。連れ戻しに来てよかった。お前なんかに奪われてたまるか。」


 宵人の顔がギュッと歪む。そのシャツを掴む震える手がひとつ。膝の上の明鈴が微かに怒らないで、と囁いた。

「……怖がらせてごめん、明鈴さん。あんたは世界一綺麗だよ。」

 傷口に触れないように頭を撫でて額にキスを落とす。宵人はそのまま明鈴に負荷を掛けないように抱えて一巳の方を見た。

「一巳、悪い。後頼むわ。」

 後を託された一巳は呆れたようにはいはい、と苦く笑って2人を見送った。

 



 カーテンの揺れる音。梅雨入り前の乾いた心地よさに明鈴は目を覚ました。

 時刻は午後3時。視界がぼやける。そよそよと前髪を撫でる風。やけに気持ちがいいので目を細めて、伸びをしようとしたところで顔に張り付いている何かに気づいた。

「剥がしちゃダメですよ。あんたが被ったのは劇薬だ。タンパク質溶かすやつ。榊さんがいなかったら皮膚が爛れるだけじゃなくて右目も失明してましたよ。」

 絆創膏に触れた手に重なる手。その声に耳が熱くなった。宵人だ。明鈴から手を離した彼は左側に移動すると、そちら側の椅子に腰掛ける。

「……怒って、いますか?」

 おずおずと訊くとはっきりと頷く宵人。落ち込むように目を伏せても見逃してくれる気配はなかった。

「もっとちゃんと、最初から相談してくれていたらこんなことにはなりませんでしたから。」

 何も言えることがなくて俯く明鈴。その様子を眺めながら宵人は続ける。

「相談もない上に自分の言いたいことだけ言って逃げるなんて卑怯ですよね。ったく。」

 呆れたようにため息を吐いて彼は1枚の紙を明鈴に差し出した。それは“離婚届”。見た瞬間に明鈴の顔が凍りついた。

「どうぞ。もう用済みでしょうから。」

 

 麗佳が明鈴に渡した封筒の中身。それは夫の欄に“御厨宵人”の名前が入った“婚姻届”だった。

 あれを見た瞬間に明鈴は、麗佳や宵人が何を言いたいのかを理解した。ここが『助けて』と声を上げられる最後の機会だぞ、と示していたのだ。

 籍を入れて仕舞うと、後のことが面倒になる。だから、宵人の名前が書かれたそれとすり替えて提出しろ、ということを伝えたかったのだろう。

 まさかそんなことをされるなんて考えていなかった。軽い気持ちではできないことだろう。なんでそこまでしてくれたのか。明鈴はそれを掴みかねてすごく後悔した。もっと彼と過ごす時間が欲しかったことに気づいたから。


 だけど今、自分の目の前に提示されたのは“離婚届”。目の前にボールペンも投げ出された。書け、ということらしい。

 じっと宵人がこちらを窺っている気配があった。明鈴は静かにペンを取って必要な事項を記入する。

 ああ、これで終わりなんだ。と心のどこかで感じていた。彼にここまでさせてどうすればいいのだろうか。じわ、と涙が滲んだ。勝手をやった自分が泣くわけにはいかない、と歯を食いしばって、でも手が震える。

「……大人しく書くんですね。」

 そんなときに淡々とそう言われた。え、と思って顔を上げると宵人は拗ねたような顔をしていた。

「ねえ、明鈴さん。あんた、どういう気持ちで婚姻届書きました?」

 2人の視線が混じる。彼が何を言いたいのかよくわからなかった。

「お嬢さんに婚姻届渡されて、俺の名前見てどう思いました?ただ単にあんたを助けるためだけにこんなことしたと思います?」

 やはり言いたいことがよくわからない。いや、というよりもそれを理解していいのかわからなかった。だって、それをちゃんと理解すると。


「明鈴さん、俺とこのまま結婚しません?」


 思わず固まった。目を見開いてしまう。


「手、震えてましたよ。書くの嫌なんじゃないですか?それは、どうして?俺、あんたのこと知らないことばっかだ。」

 堅かった宵人の表情がいつの間にか柔らかくなっている。

「もっと一緒にいたいと思ったんです。俺は単純な人間なので不器用な明鈴さん見てるとなんだか放っておけなくて。見ていたくなって。要はあんたのこと好きになってたんです。」

 じっと彼の顔を覗き込むように見上げた。その視線に気づいた宵人は非常に恥ずかしそうに頬を染めて目を逸らす。

「あ、あんま見ないでください。緊張やら何やら入り混じって、こちとらめちゃくちゃ困ってるんですからね。」

 拗ねた口調。口元を隠す仕草。それらを目に焼き付けたかった。だから、見ないで、は聞けない。

「強引な手段を取ったことは謝ります。あの状況であんたに選択肢なんてほとんどなかった。すみませんでした。」

 婚姻届を押し付けたことを言っているのだろう。明鈴は首をゆっくりと横に振った。

「謝らないでください。あれに記名したことは後悔しておりませんから。」

 む。と固まる宵人。それら全ての仕草が愛しくて彼の頰に手を添えた。言葉で伝えることは得意じゃないから。

 ゆっくりとした動きだったが、宵人は抵抗しなかった。様子見のためではなく、明鈴を受け入れるためだ。触れた柔らかさに思わず微笑む。

「キス、しましたね。」

 なんとなく頬が緩んで堪らなかった。宵人が惚けたような顔でこちらを見ている。

「あんた、笑うと本当に綺麗だ。そっか、明鈴さんはそんなふうに笑うんだな。」

 はにかむ貴方の方がずっと。心の中で綻びつつ、宵人の手に手を伸ばして自分の頬に添えさせた。

「お慕いしております。伝える気はありませんでした。伝えれば、貴方はきっと私のことを気負ってしまう。そう思って中途半端な態度をとりました。申し訳ございませんでした。」

 もう隠す必要はないだろう。東弥からは解放された。名実ともにもう縛りのないただの成人した男女だ。

「婚姻届。一時でも貴方の隣に立つ資格を得られたような錯覚に陥って高揚しました。だけど、同時に勘違いするなと自分に言い聞かせました。期待するだけ無駄だと。でも、それでも貴方の名前を見て、貴方との幸せな生活を思ってしまった。」

 気遣わしげにもう片方の手も頬に添えられる。絆創膏に触れられても痛みはないので傷は塞がっているのだろう。引き寄せられるがままに唇を重ねて、離れて、見つめ合った。

「やはり私は貴方の子どもを産みたいです。だけど、そのときには貴方が隣にいてくれないともう駄目みたい。欲張ってもいいのでしょうか?」

 宵人がはっきりと頷いた。それを見た明鈴は、得意ではない笑みを作る。そして、ぺこりと頭を下げた。

「貴方のことを掻き回したこんな不完全なガラクタでもよろしければ貴方の伴侶に添えていただきたいです。」

 顔を上げるとぎゅっと抱き締められる。意表を突かれた明鈴が目を丸くすると、不貞腐れたような宵人の声。

「あいつの言葉ですよね、それ。自分を卑下にすんのやめろ。俺を守ってくれたあんたはめちゃくちゃカッコ良かったんだから。」

 背中をさすられてホッと息を吐く。ああ、やはり、なぜかはわからないが。

「……貴方の体温、すごくホッとします。震える私を抱き締めてくれたときも、手を握ってくださったときも。」

 彼の胸に擦り寄ると心臓の音が聞こえた。どくどくどくと少し速い。ドキドキしているのだろうか。

「…………今度は1年にしましょうか。」

 その言葉に明鈴は体を離して顔を上げる。何の話だろうか。

「交際期間ほぼないんで、きっとお互いいろんな不満が出てきます。それでも一緒にいたいと1年後に思えていたら、俺、もう一度きちんとプロポーズしますね。」

 宵人が明鈴の左手を取る。その薬指を摘んでくにくにといじった。それを眺めながら明鈴は口を開く。

「……その必要はないと思います。」

 彼女はにこりと微笑んだ。


「6月の花嫁は幸せになれるそうですから。」


 そのあまりにも幸せそうな笑顔に釣られてまた手を伸ばす。明鈴も期待していたかのようにスッと目を閉じた。

 だが、その瞬間にガタン、と大きな音。ドアの方からだ。背中を駆け抜けた嫌な予感と羞恥心。

 恐る恐るそちらの方を視ると、4人いる。


「ってえ!くそッ、いいところだったのに麗佳のバーカ!」

「は!?俺様のせいかよクソ兄貴!体勢崩すようなヤワな体幹してるてめえが悪りぃだろ!」


 ……元気のいいことだ。顔を引き攣らせた宵人はずかずかと声のする方に歩いていって、勢いよくドアを開けた。ゴンッと何かに当たった気配。一巳と麗佳が仲良く「イテッ!」と叫んだ。

 廊下には居た堪れない表情で佇んでいる忠直と楽しげに笑っている惣一。そして、頭をさすっている兄妹がいた。


「覗きとはいい趣味ですね……。」


 頬を紅潮させてわなわなと震える宵人。

「……止められなくて、悪い。」

 一応申し訳なさげに謝る忠直。しかし、止まる気のない宵人は一巳に寄って行ってその頭に拳骨を落とした。

「いってーーっ!?何で俺だけ!?」

「うるせえ!許すんじゃなかった!」

 その言葉に一巳の眉がピクリと動く。

「は!?喧嘩両成敗でしょ!?男に二言あるのかっこ悪ぅ!」

 子どもじみた挑発だが宵人はパキパキと指を鳴らした。

「上等、カッコ良くなった覚えなんざねえ!」

 そのまま喧嘩に発展した2人を横目で見ながら他の3人は病室に入っていく。中では明鈴が1人、にこにことしていた。

「よぉ、新妻さん。旦那大変なことになってるが、助けてやらなくていいのか?」

 ニヤニヤしながら訊く麗佳に明鈴は目を細めながら答える。

「はい。2人とも楽しんでいるようなので。」

 お、と目を見開く麗佳。その背後で忠直も微笑んでいた。彼にも止める気がないらしい。

「一応ここ、診療所みたいな場所なんだけどね。ま、頃合い見て止めてきてくれる?ナオ。」

 くすくす笑っている惣一の手が明鈴の絆創膏に伸びる。外されたそこにはもう傷は残っていなかったが、右目の色素はほんの少し薄くなっていた。




 こうして事件は収束した。だけどこれは何かの過程に過ぎない。杷子の動いている方に宵人も本格的に加えられ、目まぐるしく日々は過ぎていく。


 1ヶ月後。取り調べ室の1つの椅子に宵人は座っていた。

「……ねえ、本当にやるの?」

 向かい側には一巳の姿が。彼はちらりとこちら側からは窺えないガラスの向こう側を見やった。

 事件の後処理が落ち着いて、宵人に余裕が出始めたこのタイミングで彼はあることを一巳に提案したのだ。


 5月に一巳が暴きかけたことの続きを行って欲しいと。


「ああ。……んな心配そうな顔するなよ。大方の予想はついてる。最悪の事態はない。」

 なんで宵人にこんなに余裕があるのかはわからないが、一巳からすれば不安しかなかった。前回のことが相当なトラウマになっているのだ。

 だから、ついガラスの方を見てしまう。向こう側には忠直と惣一が控えていて、何かあればすぐに飛んでくるだろう。それでも不安だ。さすがに廃人になる相棒は見たくない。

「何かあったらマジで明鈴にも鈴さんにも顔向けできねえんだけど。」

 観念したように一巳は頬杖をついて見つめる。宵人はへらりと笑った。彼が解しにかかったことを察したらしい。

「お前にもそういう気遣いあるんだ。明鈴さんには説明済みだよ。大丈夫。」

 うわ、ふにゃふにゃの顔しやがった。新婚ムカつく。一巳はうげえ、という顔になった。

「いつ同居すんの?結婚1日目から別居の夫婦ウケる。」

 一巳のニヒルな笑みに宵人が顔を顰める。突然の結婚だったので諸々バタバタはしたのだ。ひとまず明鈴を連れて実家に帰った宵人は最初に美人局ではないかを疑われた。

「お互い仕事もあるし、金の問題もある。すぐすぐにとはいかねえよ。そもそも別居って言い方が悪いんだ。通い婚と呼べ。」

 週に数回、宵人が明鈴を迎えに行っているらしい。たまに鈴に捕まって早岐家に泊まったりもするらしいが。

「明鈴がなんかしれっとそっちの嫁に行っちゃったから俺長男としてピンチなんだけどー?どうしてくれるんですか。」

 これには宵人も苦笑いを浮かべる。姓名の問題は早岐家の方があるだろうという気遣いからそこの欄を空欄にして明鈴に任せたのだが、彼女はしれっと夫の氏を選んでいた。彼女の名前は『御厨明鈴』になったのだ。

「それは悪い。でもそういう問題はもうないってお嬢さんが笑いながら言ってた。」

 さすがに慌てた宵人はきょとんとする明鈴を尻目に麗佳に確認を取ってみたのだが、彼女はけらけら笑いながら『問題ない』と断言した。

「ま、違いないね。俺がよいっちゃんなじるネタにしてるだけだし。」

 一巳はへらりと笑って目の前の相棒の姿に目を向ける。

 今日、彼は何かしらの転機を迎えるのだろう。封じ込めていた記憶を呼び起こすことで。そうして生まれる彼はきっと一巳の知らない宵人で、彼自身も忘れていた何か。

 このときのために出会ったのではないか。一巳にそう思わせる何か強い“予感”があった。皮肉なことだ。予知の『異能』を持てなかった自分が。

「俺はさぁ、宵人にはもっと素朴でいかにも普通、って感じの人と添って欲しかったんだよね。」

 目を閉じながら言う。やるんなら思いっきりだ。大丈夫、こいつ相手ならスレスレでも問題ない。

「なんだよそれ、聞いたことねえ。」

 ハハッと薄く笑う声。案外それ、好きなんだよね。

「言ったことないからね。さ、俺を視ろよ、宵人。お前相手なら多少歪むくらいでちょうどいいでしょ。」

 

 ごぽり、と。人を暴くということは人の中に入り込むこと。それを一巳は暗い水の中で光る糸を見つけるイメージで行なっている。

 対象が秘匿したいことほど糸は輝いていてわかりやすい。それを引っ張って喋らせて、不発だったら次の糸を。その繰り返しである。

 宵人の中は非常に過ごしやすかった。あまり抵抗感も圧迫感もない。だから際限なく覗いてしまう。気をつけなくては。たぶん宵人のあの様子ではあれが1番言いたくないことではなくなっている。そこで一巳は少し輝きの落ちたそれを引っ張った。


「……お前の父親は、何に殺された?」


 見えはしないのにその質問で、隣の部屋の忠直に緊張が走った気配があった。だが、宵人は落ち着いた様子で動かない。じっと一巳を見据えている。その目は前のときのように虚ろではなかった。


「妄執、執着。紛れもない“愛”。」


 淡々と答える宵人。その口調に迷いは一切ない。


「杉崎勇気の『力』の澱みの正体だ。心臓に絡みついて取れない。相手を窒息させる濃度で襲い掛かる。今回の東弥からも似たような所感を得た。」


 気を抜けないのにほんの少しリラックスしている自分がいることに一巳は気づいていた。『異能』を使っているはずでも、これは完全に宵人の意思であるかのように感じたのだ。


「目標を達成するまで止まらない。明鈴に執着していた東弥のように、杉崎も『さくら』に。だけど、彼は自分の願いが叶うまで終われない。」


 なんとなく怖くなる。だから全て聞くことは躊躇われたのに宵人の目に負けて一巳はそのまま続けた。


「さくらと永遠に共にいること。どちらかが果てては叶わない。叶えられない苦しみが、彼を縛り続けているんだ。」


 ぽたぽたと宵人の目から涙が溢れる。何を思い出しているのかは明確だ。


「その苦しみが人を殺す。父さんを、殺した。父さんの体にこびりついた『力』が脳裏に焼き付いて離れない。だから忘れたんだ。視ていないことにした。」

 そのときぬる、と視界の端に人影が現れた。忠直だ。彼は険しい顔つきで宵人の目を塞ごうと。

「待って、忠直さん。今はまだ止めないで。」

 しかし一巳がそれを制した。まだ宵人はギリギリではない。一巳の牽制を受けた忠直がこちらを窺っている気配があった。本当に続けさせていいのかを見定めているのだ。

 宵人から目を逸らさない一巳を見た彼は少し間を置いた後、ゆらりと動いて宵人の背後に回り込んだ。危なくなったら止められるようにだろう。

「俺は、父さんと。」

 宵人の声が震えた。怯えた一巳が目を細めるのを見た彼は自ら目を伏せて、一巳の『異能』から逃れる。それに安堵したように忠直の体から力が抜けた。

 一巳の『異能』から外れた宵人にだんだんと感情が戻っていく。それでも熱に浮かされたように彼は口を動かし続けた。

「父さんともっと話したかった。兄ちゃんにも父さんにも置いて行かれたくなかった。……ああ、そうだ。俺はずっと、父さんにもう一度会いたかったんだ。」

 ぼたぼたぼた、と流れ始めた涙は正常だ。あのときのような虚脱によるものではない。しんみりとした空気が場に満ちる。誰もしばらく言葉を発せなかった。

 たっぷり沈黙を作った後、一巳が口を開いた。

「……それが、お前が忘れていたこと?」

 そう問われた宵人はほんの少し悩んでから首を横に振った。

「押し殺していたこと。……皮肉にも東弥の『力』に触れてその糸口を掴めた。だから、お前に引っ張り出してもらったんだよ。」

 明鈴を連れ戻す際に宵人は東弥に『力』を流し込まれた。そのときに父の体に充満していたあの『力』を思い出したのだ。

 だけど、体はそれを拒絶して忘れておこうとする。それに抗うために一巳の『異能』を利用したというわけだ。

「……ありがとう、一巳。お前のおかげで何か大事なもんを取り戻した気がする。」

 宵人がニカッと笑ったのを見届けた一巳はふう、と息を吐いた。とりあえずは落ち着いたようだ。

「じゃ、満足した?もう怖くねえの?」

 気が抜けた途端に頭がくらくらしてきた。こちらの方が神経を使ったらしい。

「ああ。もう大丈夫。」

 その宵人の言葉に安堵して一巳は立ち上がる。多分この後は忠直や惣一の番になるから。そう、思ったのだが。

(……ん?あれ?)

 ぐるりと一巳の視界が回る。おかしい、と思う前に彼の意識はゆっくりと闇に飲まれていった。


『一巳様。』

 それは当時の一巳にとって最も鬱陶しい声。普段はろくに口をきかないくせに、このときはやけにはっきりと自分の名を呼ぶのだ。

『…………。』

 答えずに公園の遊具の中からじっとその姿を窺う。いつも通り、彼女の表情は心配するようでもなければ怒っているようでもない。淡々と、自分の責務をこなしているだけと言わんばかりの態度。

『帰りましょう。』

 覗き込んでくる彼女も随分と幼い。懐かしい気持ちに駆られながら大人の一巳はどこか客観的にその光景を眺めていた。

『……やだ。』

 一巳は首を横に振った。どうしても帰りたくなかったのだ。

 少しだけ、怒られるかな、と思った。もう1人の義姉である夕鈴ならしどろもどろになりながらでも一巳を叱りつけただろうから。

『……そうですか。』

 だが、明鈴は淡々とそう言っただけで、遊具の外に腰掛ける。2人の間に訪れたのは長い沈黙だった。夕方の空が紫がかってきて、その奥に藍色が見えたくらいにやっと一巳が口を開いた。

『なんなの、お前。連れ戻しに来たんじゃなかったの?』

 ぶっきらぼうに尋ねると、明鈴の吸い込まれそうな瞳がこちらに向く。少々苦手なそれから目を逸らして返事を待った。

『はい。そうです。貴方をお迎えに参りました。』

 だけど強引に手が伸びてくることはない。訳がわからずに一巳は明鈴の背中を睨みつけた。

 また長い沈黙が流れる。いっそ、意地になってこの女がいつまで耐えられるか見届けてやろうか、と思ったところで。

『……家がお嫌いですか?』

 ふと訊かれたことに一巳は目を丸くする。あちらから話題を提供されるのは珍しいことだった。それもどこか含みのある質問。

『……嫌いだよ。』

 それは本音であった。自分のような忌み子を受け入れるための家であるくせに、早岐家は自分の家よりもずっと“家族”の形が成り立っていたから。

『……では、それで構いません。帰りましょう。』

 彼女が何が聞きたかったのかわからなくて動かない一巳。そんな彼に明鈴は続けた。

『あの家に幸せを見出さなくてもいいんです。ですが、今逃げてはいけません。いつか貴方が本当に幸せだと感じたときのために、成すべきことをしましょう。』

 それはまるで。幼いながらも一巳は明鈴の背中を見つめて思った。

 この言葉はまるで、自分にも言い聞かせているような口ぶりだと。

(……懐かし。結局この後も俺は家出を繰り返してたけど。)

 一巳が家出をしたとき、迎えに来るのは必ず明鈴だった。彼女に根負けして連れて帰られ、義父に申し訳なさそうに頭を下げられるまでがワンセット。

 でもこの出来事の後から、明鈴は一巳に対して家事も勉強も人付き合いも何もかも教えてくれた。彼がいずれこの家を出て行くときのために貢献してくれたのだ。

 だけどどうして急にこんな記憶。悩む前にすぐに宵人のせいだと気づいた。彼を覗いたときに無意識に明鈴の気配に勘づいたのだろう。そして久しぶりに神経を使う作業だったので呑まれてしまった、と。

(俺は特務課に来て、初めて家族や“大事なもの”について考えた。きっと、それは幸せだったからなんだろうな。)

 自分が今幸せだ、とはっきり考えることなどない。だけど忠直と再会して、宵人と出会って、杷子や円という部下ができて、自分は随分とまともな人間に近づけたとは思っている。そう思うことができる幸福はわかっているつもりだ。

(…………俺は幸せだよ、“義姉さん”。)

 だから、あんたは。


「なー、よいっちゃん。」

 状況を確認する前に声を発していた。寝かせられていることを自覚して、相棒がホッとしたような息を吐くのを聞いて。

「明鈴のこと、よろしくね。」

 突然倒れたやつが何を言う。そんな呆れた顔でもされただろうか。

 ゆっくりと目を開けると宵人は困ったように笑っていた。

「うん。幸せにする。」

 珍しく素直な言葉。照れ屋な彼にしては上出来だろう。彼らの傍で一巳が目を覚ましたことに安堵した忠直が呑気だな、と呆れ笑いを浮かべていた。



 その家に自分が足を踏み入れることは少々抵抗があった。慕った男が好きだった場所。

「久しぶりだな、隼人。」

 ドアを開けて微笑む彼はそんなことは全く気にしていないようだが。隼人は複雑な思いで片端だけ口角を上げた。


「苦手なものがあったらすまない。」

 テーブルに並んだ料理は華美ではないが丁寧だ。夕食後であることも配慮して量も抑えてあるらしい。

「相変わらずマメだな、忠直サン。俺はアンタに対してはマジで顔向けできねえと思ってたんだけど。」

 歓迎されていることに少々複雑な気持ちを覚える。最後に裏切ったとはいえ、目の前のこの男を苦しめる計画に加担したのは紛れもない事実だから。

 しかし忠直は何も気にしていない様子でグラスを2つ運んでくる。そういう人だとは知っているが、呆れてしまった。

「そうか。殊勝なことだな。俺はむしろお前に対しては感謝しているんだが。」

 感謝までされてしまった。気にする方が負けなのだろう。ため息をついて片端だけ口角を上げる。

「……あれ?アンタってひでえ下戸なんじゃなかったっけ?」

 買ってきた缶チューハイをどちらのグラスにも注ぐ忠直を見て隼人は目を見開いた。宵人ですら酒に口をつけるところは一度も見たことがない、と言っていたのに。

「度数の低いものなら飲めるんだ。それに、下戸ってのは嘘だからな。」

 悪戯っぽい輝きの宿る瞳にも驚く。この人こんな顔できたんだな。

「10代の頃に酒との縁を切られるようなことがあって、それ以来一度だけだ。自分から口をつけたのは。」

 含みのある言葉。隼人はそれが本題か、と察してつまみに手をつけつつ、忠直の様子を窺った。

「お前の父親、御厨さんに見抜かれてな。一度だけ、一杯だけ、晩酌に付き合ったことがある。随分と懐かしい話だ。俺が20歳になったときだから、もう10年も前になるのか。」

 差し出されたグラスに入ったホワイトサワー。確かに度数の低いやつ。

 父の話をされることは薄々察していた。忠直が自分に用があるといえば、壱騎か父親の話くらいのものだろうから。

「何に乾杯します?仮出所?」

 自分から冗談めかして言うと、フフッと笑われた。

「宵人の結婚に。」

 チン、と主役のいない場で祝いの乾杯。口をつけるとしゅわしゅわの炭酸の奥にまろい甘味があった。

「お前とはきちんと話しておきたかった。まさか、こんなに時間がかかるとは思わなかったが。」

 それは本当に申し訳ない。肩をすくめる隼人。

「で、内容は?ただの晩酌ってわけでもないでしょ、俺を呼び出しておいて。」

 頷く忠直にはなんとなく緊張感を覚えた。一体どういう方面から話題を振られるのかいまいちわからない人だから。

「俺が20歳の頃、といえばお前は16か。お前は旭と同じ年齢だったな。」

 そうだったのか。事件で関わった忠直の恋人である女の顔を思い浮かべつつ、あまり同級生という感じはしなかったなとも思った。

「御厨さんは俺が最初の飲み会で『飲めない』と言ったのが嘘だと気づいていたらしい。何か根が深そうな事情があることにも。恐ろしくそういう鼻の効く人だったよ、あの人は。」

 隼人は頷く。仕事に熱中すると四六時中それのことを考えて、公私を混同しまくっていた人だった。それだけに勘は鋭く、解決してきた事件も多かったが。

「そういうところはお前が似たんだろうな。だからお前とよく関わっていた。お前の方が才能があったんだ。宵人はむしろ向いていなかったな。」

 そういう自負はあった。だけど隼人は壱騎を見捨てられずに全部投げ捨てて父の期待も裏切った。それは、まだ苦い。

「だが最近、宵人が御厨さんに似てきたとは思わないか?」

 会話の切られた方向に思わず苦笑いを浮かべる。父とも弟とも繋がりの深い彼であれば気づいて当然だろう。

「……思う。しかもあんま良くない方向ですよね。」

 忠直の眉尻が下がった。彼もきっとそう思っていたのだろう。

「その10年前の一夜限りの晩酌のときに、御厨さんはお前らの話をしていた。隼人は自分と同じ道に来るだろう。だけど宵人はなるべくこちら側には来させたくない、と。」

 隼人はため息を漏らした。親父は本当に馬鹿な人だ。そういうのは本人に伝えておくべきだっただろうに。

「……あの“目”。あいつ、どうせ苦労したんでしょ?あれは決して便利なもんじゃない。それに関してはマジで後悔してるんですよ。」

 他人の『力』に対する感度の高い宵人。その目には普通の『異能者』には見えないものが視えている。今では使いこなしているようだが、そこに至るまでは。

「最初は現場に連れて行くだけで吐いていたよ。酔うんだ。いろんなものが視えるから。それに、並の人間よりも感度が高い分『異能』の煽りも受けやすく、よく榊の世話になっていた。俺や早岐はよくあんな足手纏いの面倒を見てるな、と揶揄されていた。」

 隼人の口から漏れるため息が深くなる。そんなこと、弟は全く話していなかった。

「俺もそれとなく転課を勧めたことはあった。早岐にも何度も『辞めろ』と言われていた。それほどに苦しそうでな。だけど、あいつは退かなかった。それが何の為であったか、お前はきちんと理解しておくべきだ。」

 昨年、弟にどうして『特務課』にいるのか尋ねたことがある。そのとき彼は兄を探すため、と言っていた。そのためだけに耐えてきた。その重みはわかっていたはずなのに、忠直の瞳を見ていると胃が締め付けられるような気分になる。

「もう今となっては過去の話だがな。今では俺が助けられてばかりだ。優秀な部下だよ、ほんと。」

 何でもないようにそう言う忠直も苦心したのだろう。顔は伏せないようにしつつ、それでもその目を見つめ返すのには罪悪感があった。

「だから、御厨さんが危惧していた段階は超えたと思っていたんだ。しかし、似てきている。お前の言う通り、良くない方向に。」

 忠直の淡々とした表情に一点の不安。草臥れた背中、表情、雰囲気。父のそれとそっくりになっていることには隼人も気づいていた。

「綺麗な嫁さん貰って幸せ絶頂の奴の話題には相応しくない顔ですね、お互い。」

 思わず嘲笑すると忠直はグラスを手に取った。その目は濁りと透明の分離した液面を眺めている。

「明鈴と会ったのか。」

「会いましたとも。あまりのスピード婚に美人局かと疑いましたよ。」

 冗談めかして言うと笑ってくれる。それでもその目は不安に満ちている。

「明鈴は強い人だ。自分の主を庇って腹に風穴開けながらも主の身の安全が保障されるまでは表情を変えずに立っていたことがあってな。それほどに主に忠実で、案外その意思は強い。」

 そんな武勇伝ある人なのかよ。隼人は弟はすごい人を連れてきたものだ、と目を丸くした。

「宵人が積極的に守る必要はないだろうな。だからそれ故に心配にもなる。」

 どういうことかわからずに隼人が眉を顰めると、忠直は顔を上げた。

「あの2人は相性がいい。上手くいくだろう。そしてそのうち宵人が明鈴に甘えられるようになる。それは少し怖い。」

 忠直の声の調子に隼人はグラスを手に取って舌を湿らせる。なんとなく嫌な感じがするから。

「彼女の強さに甘えて、自分の価値を底辺に落とし込みそうでな。御厨さんはそういう人だった。恐ろしかったよ、あの人は常にどの仕事もいつ死んでもいい覚悟でしていた。御厨さんが死んで、滞った業務はほとんどなかったんだ。」

 父のことは人一倍わかっていたとはいえゾッとする。いつ死んでもいいように、どの仕事も引き継げる人材を整えていたのだ。家庭のことは自分に似た隼人に託そうと思っていたのだろう。

「だから、宵人は一巳と組ませていた。目付け役として。一巳にとっては気の長い宵人と組ませれば、人としての柔らかさを取り戻せると思った。」

 その目論見は成功したのだろう。だが。

「……でもそれだとあの兄ちゃん、宵人と同じことができるってことですよね。代わりになれる。」

 隼人の言葉に表情を曇らせる忠直。嫌な雰囲気になってしまった。

「俺もそれが怖い。それで今日、お前を呼んだんだ。」

 忠直と目が合う。あまり期待されても困るのだが。隼人は小さく笑って、グラスを傾けた。

「忠直サン。俺の『異能』が発現したときのこと知ってたっけ?」

 首を横に振る忠直。随分と昔に思える話だ。宵人が“泣き虫”と揶揄されていたときのことだから。


 いつ頃だっただろうか。また宵人は泣かされて帰ってきた。彼は物心ついたときから人の『力』が視えていて、それを誰にも認めてもらえずにいじめられることが少なくなかったから。

『兄ちゃん、帽子、俺の帽子なくなっちゃった。』

 子どもは残酷だ。隼人がいるときは近寄ってこないくせに、宵人が1人でうろうろしていると嬉しげに近寄ってきて彼を嬲る。わかってはいるが、四六時中弟に張り付いてはいられない。

 泣きじゃくる弟との仲は昔から良かった。頼られるのは好きだったし、本当に可愛かったのだ。

『……ごめんな、よいと。兄ちゃんので我慢しな。』

 ぽす、と頭に自分の帽子を乗せてやって頭を撫でてやると途端に泣き止んだ。へらへらと笑って嬉しそうにありがとう、と。現金なやつ。

 そのときから隼人は弟のことをどこにいても守ってやれればいいのに、とぼんやり考えていた。

 その思いが『力』として伴ったのは自分が小学生になったとき。一つ下の弟と遊ぶ時間が本格的に減ってからだ。

 隼人の目が離れたことで宵人へのいじめがひどくなった。『嘘つき』呼ばわりされた彼は家に篭もりがちになっていった。

 だけどある日、ずっと仲良くしてくれていた友人が誘い出してくれて、久しぶりに公園に出向いたときに宵人はいじめっ子たちと遭遇してしまう。

 それは直感的だった。宵人が泣いている。そうぼんやり思った瞬間に自分から何かが飛び出していった。慌ててその後を追いたかったが、授業中で他の人には視えていなかったらしく、隼人は変な気分でその日を過ごした。

 そして家に帰って、母から話を聞くことになる。いじめっ子のリーダーが蛇に噛まれて病院に運ばれた、と。

 

「それから俺は親父にそのことを相談して、すぐに異局の世話になることになりました。調べてもらって、登録を受けて。俺の『異能』はあいつのためにある。だから、別にアンタに相談されることじゃねえんだよな。」

 隼人はへらりと笑った。忠直を安堵させるためと自分のために。

「守りますよ、あいつの幸せを。何を押しても守りたかった過去に誓って。」

 じっとこちらを見つめてくる目はいつの間にか普段と変わらない色になっている。安堵したのか、何かしら腹を括ったのかはわからなかった。

「だいぶ回りくどかったけど、要は俺にあいつのことをちゃんと見てろ、って言いたかったんでしょ?」

 もう手放す気も間違う気もない。蔑ろにしてきた分、ちゃんと償わなくてはならないから。

「……ああ。」

 何か尊いものを見つめるような目をしている忠直は少し寂しさを纏っていた。相変わらずだ、この人は。だから隼人は続ける。

「それに自分のことをおざなりにしがちなのはアンタもでしょうが。人のこと全く言えねえから。」

 痛いところを突かれた、と忠直は顔を顰めた。それを見て笑いながら続ける。

「そろそろ俺はこんなクソ真面目な話よりもアンタの話が聞きたいんですけど。折角飲んでんだ。辛気くせえのはつまんねえ。」

 忠直がフッと笑って表情を完全に緩めた。以前よりも随分と柔い表情をするようになったな。

「違いない。先の不安よりやらなければならないことはたくさんあるからな。」

 まずは思い出話でも。久しぶりに忠直と過ごす他愛のない時間はなかなか楽しかった。



「へっくしょん!!」



 大きなくしゃみをしてしまった。ずび、と鼻を啜る。

「大丈夫ですか?温度計は……。」

「あ、いえ。体調は全然問題ないです。すみません、心配してくれてありがとうございます。明鈴さん。」

 キッチンからわざわざこちらへ心配してきてくれる明鈴に謝りつつ鼻を掻いた。誰かに噂をされているのかもしれない。

 一旦キッチンで手を拭いて戻ってくる明鈴。彼女はちょこんと宵人の隣に座った。なんとなく何か言いたげな気配があって、宵人が明鈴に目を向けるとおず、と手を差し出される。にこにこしながら受け取って手を繋いだ。

「明鈴さん明日から出張でしたよね。どこに行かれるんでしたっけ。」

「隣の県まで。本当は日帰りでもよかったのですが、お嬢様が行きたいところがあるそうで。」

 それなら明日は会えないのか。ぼんやりと口には出さずに考えると、明鈴にじっと見つめられる。また何か言いたげな気配。

「どうしました?」

 尋ねると彼女はほんの少し固まって、でも淡々と答えてくれる。

「……距離が遠い気がします。」

 宵人はきょとんとしてしまう。距離。その言葉は物理的な距離の話ではない気がしたのだ。

 上手い返しが見つからずに助けを求めるように明鈴を見ると、彼女は少々躊躇いがちに口を開いた。

「明鈴とお呼びください。そう、呼ばれたいです。」

 面と向かって言われると異様に恥ずかしくなってしまう。期待に満ちた明鈴の方をちら、と見て、恥ずかしさにあまり目を合わせないように口を開いた。

「…………明鈴。」

 呼んだ瞬間に明鈴がにこにこっと頬を緩ませた。そのあまりの緩みっぷりに呆れて、でも宵人もすぐに笑い始めた。

「ご満悦ですね、明鈴。」

 今では比較的よく見られるようになった明鈴の笑顔を堪能しつつ、宵人は悪戯っぽく彼女に問いかけた。

「じゃあ次はあんたの番ですよね?」

 意表を突かれた明鈴の顔がパッと染まる。もご、となってしまった彼女に向かってわざとらしく耳を澄ませる仕草を。

「………………宵人……さん。」

 頑張ってくれたような間が空いたが、さん付けに逃げられてしまった。宵人は駄目かー、と笑って繋いでいた彼女の手を引く。

「はい。宵人です。」

 でもなんとなく名前を呼ばれるだけで嬉しい。にかにかと笑うと、明鈴は正視に絶えないのか目を伏せた。

 距離が遠い。そう言われたときに不覚にもドキッとした。当たり前ではあるのだが、それでもそう感じさせてしまったのは少し切ない。

 でもそれだけにもう少し近くに。そう求めたくなるのだ。自分では釣り合いの取れないほど綺麗な人。でも彼女は自分のことが好きだと言ってくれたから。

「……明鈴さん…明鈴は結婚した感、あります?」

 彼女を眺めながら訊いてみる。ピクリと反応した明鈴は悩むように眉を寄せた。

「この1ヶ月、ずっと不安定な心地です。貴方のお傍にいられるのはどこか、夢のようで。」

 呼び捨てはできないのにそういうのは言えるんだ。宵人は照れて軽く頰を掻く。

 彼の目が握った手に向いた。自分よりいくらか小さくて長細い、女の人にしては骨張っている手。まだ何の印もない。

「俺も似たようなもんです。ちょっと変な感じ。油断してたらまた逃げられそうだ。」

 揶揄うような視線を向けると実に申し訳なさそうな顔をしている明鈴に出会う。宵人はけらけら笑いながら隠すように置いていた紙袋に手を伸ばした。

「はい、明鈴。」

 ぐい、と手を引いてその薬指に指輪を通した。きょとんとしている明鈴。宵人の手から離れた彼女の左手は上に掲げられた。指輪を光に透かすように眺めている。

「……これは、一体。」

 明鈴の目が宵人に向く。彼は照れたように微笑んでいた。

「タイミング的にはすげえ遅いけど、エンゲージリング。あんたが俺の奥さんになってくれるって約束。」

 ぽかんと口を開ける明鈴。それはまるで信じられないものを見るような。思わず笑うと彼女は恥ずかしそうに目を伏せる。

「もう逃げないで。俺、置いて行かれるの苦手なんだ。」

 手を繋ぎ直す。宵人の脳裏には父の草臥れた背中と、ある夜にそっと家を出て行った兄の背中が浮かんでいた。

「……約束します。私から貴方の元を離れることはしません。永遠とわに、傍に置いていてください。」

 淡々と、でも力強い言葉だった。うん、と頷いてそのまま彼女の肩に頭を預ける。

 ふと、兎美の顔が浮かんだ。彼女もきっとこんな気持ちのまま、忠直の元を一度離れる決断をしたのだろう。それは、一体どんな。

 添っていたときの彼らの幸せそうな色が好きだった。絶妙に混じり合った彼らの『力』はキラキラしていた。

 これもきっと、何かの布石だ。自分が明鈴を愛したのも、彼女がこちらを見てくれたのも。

 自分たちもキラキラしているのだろうか。今度、鈴に聞いてみよう。

 そんなことを考えながら、明鈴の肩に甘えるように宵人は眠ってしまった。



                (lemonade 完)

 

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